7話―② サーモニュクス
夜の海。暗い、黒い、底の知れない深い闇。月明かりさえも、かろうじて水面にひとつの線を描くだけだ。
丘を下って近付いていく最中、セオドアはなるべく前を見ないようにしていた。足元に落としていた視線を、クライドが話し始めたので、なんとかその背中へ移す。
「例の魔物、サーモニュクスっつうらしいんだけどな。これから、俺が船で沖に出るから、上手く行けばそいつが前みたいに明かりに興奮して出てくるかもしれねぇ」
「……え、兄さん、それって……危ないんじゃ」
「対策は考えてある。姿さえ見えとけば、シャルロッテが浄化して大人しくさせられるんだろうが……普通の方法だと、それなりに時間かかるんだよな?」
「ええ。巨大なものとなるとなおさら、間に合わない可能性が高いわ」
うなずくシャルロッテを見て、またセオドアが視線を落とす。
「やっぱり、無茶なんじゃ……」
「だから、そのサーモニュクスを食べようと思うの」
「なん?????」
なにも聞かされていなかったセオドア、びっくりしすぎて自分の足に引っかかり転倒した。
クライドに助け起こされながら、シャルロッテの話を聞く。
「ようやく話す許可が出たのだけれど、私、食べたことのある魔物はどこにいても浄化できるの」
セオドアは、完全に付いて行けていない顔のまま「なるほど」とうなずいた。意味がわからない。
三人で浜辺へ出る。クライドは、立ち止まって、難しい顔でシャルロッテを見た。
「つってもな、仮に一部分だけでも抉って来れたとして……俺はサーモニュクスを食ったことはないって言ったよな。どこかの誰かが食って、美味かったらしいっつう噂があるだけだ。毒がないとは限らない」
「でも、あなたが先に毒見してくれるのでしょう?」
「俺には効かないかもしれねぇだろ」
「効かないの?」
「知らん……ヤベェ毒なら効くかもしれねぇけど……たぶん……」
セオドアは思った――こんなに自信なさそうな兄さん、はじめて見た。
一般人の基準から外れすぎた弊害が出ている。
シャルロッテは、相変わらず、ただの推測を当然そうだと信じて疑わない様子で尋ねた。
「でも、解毒薬は用意してくれているのでしょう?」
「……まあ、な」
彼女が深く信頼している通り、クライドはやった。あらゆるタイプの毒に対応できるよう、判明している全種類の解毒薬を最高品質で、金に物を言わせて揃えたのだ。
「ならいいじゃない。とにかくやってみましょう」
「お前な……最終的に助かるとしても、毒にあたれば苦しむ時間はあるからな」
苦々しく念押しされたシャルロッテは、ちょっと困ったように笑った。
「目も当てられない状態になっても、見捨てないでね」
「当然だろ」「当然です……!」
それに関しては、二人とも即答した。
波止場に停めてある小さな帆船にクライドが乗り込む。それを、セオドアは砂浜から、シャルロッテと一緒に見守っていた。先ほどクライドが言っていたことを思い出しながら。
『まず、俺ができるだけ注意を引くから、シャルロッテはその間に浄化。間に合わなければ、サーモニュクスの一部を取って戻るからそれを食って……お前マジでやるのか……』
――本当に、二人とも、やる気なのかな。
クライドが船で沖へ出る。
昔の光景を意識しないようにしても、セオドアの鼓動は速まっていく。
「っ……」
あの魔物が現れて、全て上手く行って、また両親に会いたい/このまま、なにも起こらずに、今そばにいる二人が無事でいればいい。
相反する気持ちで、感情がぐちゃぐちゃになる。
クライドが、複数の光の魔石に魔力を込めて、まばゆく輝くそれらを一気に海へ放り投げた。
光の絨毯が海に広がる。これに刺激されたサーモニュクスが、海中から出てくるかどうか――。
ザ、
世界が破けるような、そんな強烈な水音を立てて、巨大なソレは海面を割って姿を現した。
かつてのセオドアが大きな影としか認識できなかったその姿が、月明かりを浴びて明確になる。
銀色の流線型の体、尖った口、真横に付いたギョロリとした目――なんだか思っていたよりずっとしっかり魚の形をしていたので、シャルロッテは本当にあれで合っているのか戸惑いつつも祈りのポーズをとる。
サーモニュクスが、帆船に向かって大口を開けて突っ込んだ。
「……!」
セオドアが声にならない悲鳴をあげる。しかしクライドは、高く飛び退き、魔力を込めた氷の魔石を海へ投げ付けた。途端に海面が凍り、広い足場が出現する。
帆船はサーモニュクスの体内へ消えて行った。クライドが剣を構え、その身を斬ろうと狙いを付ける。
次の瞬間、海中から突き出た巨大な何かが氷上に乗った。手だ。水かきと鱗が付いた、ほぼ人間の手。次に同様の足。それらが、紛れもなくサーモニュクスから生えている。
「!??????」
海中に隠れていた異様な部位に、全員目を丸くする。しかしそれどころではない、クライドの乗っている氷がサーモニュクスの体重で大きく傾く。
「チッ――」
彼は無理な体勢を物ともせずに高く飛び上がり、サーモニュクスの腹を一太刀で抉り取った。
凄まじい叫び声をあげて、サーモニュクスが海中へ飛び込み深く深く逃げて行く。
海に落ちたクライドは、しかしすぐに浮上してきて、必死に自分を呼ぶセオドアへ軽く手を挙げる。もう片方の脇には、しっかりとサーモニュクスの腹身を抱えていた。
◇◇◇
砂浜へ上がってくるクライドに、シャルロッテが駆け寄る。
「おかえりなさい。やっぱり、大き過ぎて最後まで出来なかったわ」
「だろうな。まあ、これを食えば……食えるか……? 魚人っつうの……? 何割か人間だったぞ」
「ええ……もっと違うものをイメージしていたわ……」
妙に美脚だったサーモニュクスの足が思い出されてしまう。
ただ、切り取った腹身は鮮やかなオレンジ色で美味しそうだ。
「だ、大丈夫よ。ムニエルなんてどうかしら」
「あ。あー、すまん、言い忘れてた」
クライドが、炎の魔石を取り出して魔力を込め、サーモニュクスの腹身に乗せる。数秒間大きな炎が上がったが、そのオレンジ色の身は全く様子が変わらず「生!」という感じだった。
「こいつ、一切の熱を受け付けねぇ魔物なんだよ。生食するしかない」
「え……魚って、生で食べられるの?」
「モノによってはな」
シャルロッテが驚くのも無理はなかった。そういう食文化に生きていない。
海沿いで育ったセオドアが、内心で苦悩する。
――あぁ、新鮮な魚は普通に美味しいんだけどな……それだけが理由なら、ここまで来たんだからお願いしたいけど……。でも、あの、人間要素のあるやつを食べるなんて……自分でも怖いことを押し付けられないし……。
彼女が口をきゅっと結んで難しい顔で腹身を見ているのがいたたまれなくて、セオドアは、両親に会いたい気持ちを押さえつける。声が震えないように注意して、なんとか、笑顔を取り繕う。
「あの、無理しなくても。オレ、今のままでも、十分幸せなので」
すると、シャルロッテは、少し驚いたような顔をしてから微笑んだ。
「いえ、今のは覚悟を決めていただけよ。私、あなたにはもっと幸せになってほしいの」
あまりにも当然のように言われるものだから、セオドアは呆気にとられてしまった。
それから、彼女は、なんでもないようにクライドを見上げる。
「それじゃあ、食べさせて」
「――わかった。とにかく、家に戻るか」
もう彼は諦めの境地で、どう調理するのがいいかだけを考えることにした。




