すれ違いの波間 3
午後の授業の合間は、玲にとって、これまででいちばん長く、そして落ち着かない時間だった。
凪や美央に声をかけられないよう、玲は教室を抜け出しては、理由もなく一組の方へ足を向けてしまう。
昼休みに出会った、あの少女の姿を、無意識のうちに探していたのだ。広大な五十メートルプールを、たった一人で切り裂くように泳いでいた、同じ一年生の少女。「寂しいのは、寂しいとして、優しく受け入れる」――その言葉が、玲の胸の奥で何度も反芻されていた。あんなにも強く、あんなにも孤独で、それでいて、あんなにも軽やかな人が、この学校にいる。その事実が、玲の心を静かに、けれど確かに突き動かしていた。
一組の前の廊下を、用事があるふりをして通り過ぎる。何気ない顔で教室の中を盗み見るが、休み時間特有のざわめきの中に、あのウェーブのかかった長い髪は見当たらなかった。ほんの短い時間しか触れ合っていないはずなのに、百瀬という人物は、教室という狭い箱に収まっているようなタイプには思えなかった。もしかしたら、またプールのそばにいるのかもしれない。あるいは、誰もいない屋上や、階段の踊り場に。
結局、午後の休み時間はすべて空振りに終わった。そして、帰りのホームルーム。担任が連絡事項を読み上げ、終礼の号令がかかったその瞬間、玲は誰よりも早く鞄を掴んでいた。
一組の教室の前。玲は意を決して、入り口付近で談笑していた女子グループに声をかけた。
「……あの、すみません。」
鞄にど派手で大きいキーホルダーをたくさんつけた女子生徒が、不思議そうに玲を見た。玲は心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、勇気を振り絞って名前を出す。
「も、百瀬さん……いますか? ウェーブの長い髪の……。」
女子生徒たちは顔を見合わせた。
「えーっと、百瀬……ああ、ほら、あのメガネの子?」
「あー、なんかいつも一人でどっか行っちゃう子ね。」
玲は耳を疑った。百瀬は、あれほど存在感があって、あれほど「強い」人なのに。
「……今はいないね。ていうか、あんまり教室にいないよ、あの子。」
「すみません、ありがとうございます。」
玲は短く礼を述べ、その場を離れた。
意外だった。あんなにダイナミックな泳ぎを見せる百瀬が、クラスの中では「顔を思い出すのに少し時間がかかる人」として扱われている。気さくで、誰とでもすぐに打ち解けそうな雰囲気だったのに――自分の中の百瀬の印象とのあまりの差に、玲は小さく戸惑った。
(……プールだ。あそこなら、きっといる。)
玲は淡い期待を胸に、校舎の裏手へと走った。けれど、鉄扉の向こうに広がっていたのは、昼間とは一変し、夕闇が忍び寄り始めた冷たい青に沈む静寂だけだった。百瀬の姿はない。水面は鏡のように凪ぎ、風に揺れる音ひとつ聞こえない。更衣室をそっと覗いてみても、電気は落とされ、彼女が脱ぎ捨てていたラッシュガードも、使い込まれたゴーグルも、そこには何ひとつ残っていなかった。
玲は、どっと肩の力が抜けるのを感じた。あんなふうに素直に自分の内面を打ち明けられた相手に、もう一度会いたい。彼女の隣で、もう少しだけ「寂しさの受け入れ方」を教えてほしい――そんなことを願っている自分に気づき、玲は自嘲気味に笑った。
「……何やってんだろ、私」
昼のあの時間は、もしかしたら蜃気楼だったのかもしれない。玲はしょぼくれたまま、重い足取りで自転車置き場へ向かった。西日に染まる校庭を、部活動の生徒たちの掛け声が通り過ぎていく。誰もが「どこか」に属し、「誰か」と繋がっているように見える中で、玲はまた、元の孤独な場所へ戻ってきたような気がした。毎日肩にかけている鞄が、今日はいつもより重く感じられた。
駐輪場で自分の自転車の前にたどり着き、鍵を取り出そうとした、その瞬間だった。
「ようやく、捕まえた!」
背後から投げかけられた声に、玲の体が一瞬でこわばる。振り返ると、そこには怒ったような顔をした凪と、その隣で不安げに佇む美央がいた。凪は、怒りと心配が入り混じった――今にも泣き出しそうな表情で、玲の目の前に立ちはだかっていた。
「玲! お昼もいなくなるし、放課後も走り回って……探してたんだよ。何してたの?」
「凪……。」
凪にまっすぐ見つめられ、玲は逃げ場を失った。心臓が嫌な音を立てて早鐘のように打ち始める。昼に百瀬と話していたときの、あの不思議な開放感は、どこへ消えてしまったのだろう。凪の顔を見た途端、現実は再び重く、複雑な色を帯びて、玲の胸にのしかかってきた。
「……別に、なんでもないよ。」
玲は気まずそうに視線を逸らし、俯いたまま自転車の鍵をカチリと開ける。金属の冷たい音が、静まり返った駐輪場にやけに大きく響いた。
「なんか、気に障ることしちゃった? もしそうなら、ごめんね。」
凪の声は、玲の心を探るように、どこまでも優しく、切実だった。その優しさが、今の玲には痛い。凪が気遣えば気遣うほど、彼女の隣に立つ美央の存在が、玲と凪のあいだに引かれた一本の「境界線」のように感じられてしまう。
「ううん。二人は何も悪くない。私が勝手に……私が悪いの。こっちこそ、変な態度取ってごめん。」
玲は顔を上げないまま、そう口にした。言葉とは裏腹に、胸の奥では黒い感情が渦を巻いている。美央は少し距離を置き、二人のやり取りを壊さないよう、静かに立っていた。その控えめな配慮さえ、今の玲には「余裕のある人の態度」に見えてしまい、心をさらに硬くさせる。凪が、意を決したように一歩踏み出し、クリアファイルから一枚の紙を取り出した。
「これ……見てほしいんだ。土曜日、美央と一緒に見つけたんだよ。ダイビングショップ。 ……それで。来週、海に行くことに決めたから、玲にも一緒に来てほしくて。」
差し出されたのは、凪が瑞稀から余分にもらった、あの三枚目の申込用紙だった。玲の視線が、白い紙に落ちる。
内容はほとんど頭に入ってこないのに、「ダイビング」という言葉だけが、不思議と耳に残った。聞き慣れないその響きを凪の口から聞かされ、玲の思考は一気に絡まっていく。
凪は、この紙一枚で、自分の孤独を塗り替えられると思っているのだろうか。「ダイビング」という名の、凪の新しい冒険に加わりさえすれば、また元通りの三人に戻れると、信じているのだろうか。
(……分かってない。何も分かってないよ、凪。)
押し付けないでほしい。
その未知の世界に、今の自分が馴染めると、本気で思っているのだろうか。
凪と美央が二人で盛り上がり、その熱量に自分が必死に食らいつく姿を想像して、どうしてそれを「楽しい」と思えるのか。
私には、そんな勇気はもう、これっぽっちも残っていないのに。
「……無理だよ。」
玲は顔を上げ、凪の目をまっすぐに見返した。その瞳には、凪がこれまで見たことのない、冷たく鋭い拒絶の色が宿っている。
「私、カナヅチだし。……やらない。」
簡潔に、突き放すように言い切る。凪の顔から、すっと血の気が引いていくのが分かった。差し出された申込用紙を持つ指先が、かすかに震えている。
何も言えずに立ち尽くす凪を残したまま、玲は自転車にまたがり、ペダルを強く踏み込んだ。背後で、凪が微かに自分の名前を呼ぶ声がしたが、それを振り切るように、玲は校門へ向かって一気に駆け抜けていった。
夕方の風が冷たく頬を打つ。涙が出そうになったが、それを認めることさえ今は自分に許せなかった。
(寂しさを、受け入れるなんて……無理だよ、百瀬さん。)
*
駐輪場に残された凪と美央の周りには、重苦しい沈黙が降り積もっていた。 美央は、玲が走り去っていった方向をじっと見つめている。その大きな瞳には、みるみるうちに涙が溜まり、今にも零れ落ちそうだった。
「……私の、せいかな?」
美央の声は、風に紛れて消えてしまいそうなほどか細い。金沢の街を眩しい笑顔で歩き、凪の腕を掴んで「デートだね!」とはしゃいでいた、あの太陽みたいな少女の面影は、今はすっかり影を潜めていた。
「私が……私が転校してきて、凪ちゃんにグイグイ行き過ぎたから、玲ちゃんを傷つけちゃったのかも。ごめんなさい、私……。」
美央の肩が小さく震え始める。その様子を見た瞬間、凪の胸の奥で、親友への疑念よりも、目の前の友達を守りたいという気持ちが強く湧き上がった。同時に、改めて思う。美央は、まっすぐで、正直で、優しい子なのだと。
凪は一歩近づき、美央の震える肩にそっと寄り添った。
「違うよ、美央。美央は何も悪くない。さっき、玲も言ってたでしょ? 二人は悪くないって。きっと、私たちの知らないところで、玲は別のことで悩んでるんだよ。」
凪は自分に言い聞かせるように、言葉を絞り出した。美央を安心させるように、凪は彼女の背中を優しくさすり続けた。 けれど、そう言っている凪自身の心も、底の見えない不安でいっぱいだった。 昨日まで、あんなに近くにいたはずの玲。 同じ空を見て、同じ景色を共有していたはずの親友。 その玲が、今は宇宙の果てまで遠ざかってしまったような気がして、凪は自分の足元が崩れていくような感覚を覚えていた。
「……。今日は、もう帰ろう。」
美央とは途中まで一緒だったはずなのに、それから自分がどうやって家まで帰ったのか、凪はまるで覚えていなかった。気づけば、自分の部屋のベッドに、制服のまま横たわっている。部屋はすっかり夜の色に沈み、薄暗さが隅々まで染み込んでいた。
机の上には、申込用紙を挟んだままのクリアファイルが置きっぱなしになっている。凪はスマホを手に取り、連絡アプリを開いた。あの日から一言も更新されていない、重たい空気のまま止まった三人のトーク画面。そこに並ぶ玲のアイコンが、まだ消えていないことだけが、かろうじて救いだった。
メッセージを打とうとして、指が止まる。
何を言えばいいのだろう。「ごめん」? 「来てほしい」?
どんな言葉を並べても、あの駐輪場で向けられた、冷たく研ぎ澄まされた拒絶を溶かせる気がしなかった。
凪はただ、動かないトーク画面を、暗闇の中でいつまでも、いつまでも見つめ続ける。窓の外からは、夜風に揺れる木々のざわめきだけが、虚しく部屋へと流れ込んできた。




