水の流れが変わるとき 1
火曜日の朝。世界は昨日よりも一段と、灰色に濁って見えた。
凪は、鳴り止まないアラームの音に何度も手を伸ばし、そのたびに重たい瞼を閉じた。昨夜、暗い部屋でスマホの青白い光を見つめ続けたせいで、目の奥がジンと熱い。結局、玲には一通のメッセージも送れなかった。何を書いても、あの駐輪場での鋭い拒絶を上書きできるとは思えなかった。
「凪、あんた今日遅いんじゃないが? 学校間に合うんけ?」
階下から飛んでくる母の呆れた声に、ようやく体を起こす。いつもならとっくに家を出ている時間だ。鏡に映る自分の顔は、目の下にうっすらとクマが浮き、髪もボサボサで、およそ「冒険」に胸を膨らませている女子高生には見えなかった。
家を出たのは、遅刻が確定するかしないか、という瀬戸際だった。重いペダルをがむしゃらに漕ぎ、学校の駐輪場に滑り込む。玲の自転車がすでにあるのを確認して、胸の奥がチリッと痛んだ。昨日、あんな別れ方をしたのに、世界は残酷なほど正確に、いつもと同じルーティンを刻んでいる。
教室のドアを勢いよく開けると、朝のホームルームが始まるチャイムと同時だった。担任の教師が教壇に立つのを横目に、凪は自分の席へと転がり込んだ。視線の先、教室の真ん中の席には玲がいた。彼女は昨日と、あるいは一昨日と全く同じ姿勢で、一冊の本を静かに開いていた。凪が入ってきたことにも気づいているはずなのに、彼女がページから視線を上げることはなかった。
その時、後ろの席から「おはよう、遅かったね」と、掠れるような小さな声がした。姿勢をそらすようにして耳を傾けると、美央の不安げな声に優しく答えるように「おはよう」と返事した。担任は凪が息つく間もなくホームルームを始めている。
「……おはようって言ったんだけど、返してくれなかった。」
美央が蚊の鳴くような声で囁く。凪は、胸の奥をぎゅっと絞られるような思いだった。
「……ごめんね。」
凪はそれ以上、何も言えなかった。
何も頭に入らないままホームルームが終わり、午前中の授業が淡々と進んでいく。
一限と二限の間、玲が美央を完全に無視したわけではなく、きちんと微笑みだけは返していたと知って、凪はほんの少しだけ胸をなで下ろした。
しかし、数式が黒板を埋め、歴史の年号が次々と板書されていく中でも、凪の心はどこにも落ち着かなかった。
休み時間になるたび、玲は深く集中しているふりで本を読み続けるか、何かの作業に没頭する素振りを見せる。そうして、凪と美央が入り込む隙間を、まるで最初から存在しなかったかのように、きれいに閉ざしていた。
そして、お昼休みのチャイム。それは昨日と同じ、冷ややかな合図だった。チャイムの音が鳴り終わるよりも先に、玲は機械的な動作でおそらくお弁当も教科書も全ての持ち物が入った鞄を掴むと、音もなく席を立った。彼女は一度も凪と目を合わせることなく、そのまま教室を出ていく。
教室に残された凪と美央は、お互いの顔を見て、力なく机をくっつけてお昼の準備を始める。
「……私たちも、食べよっか。」
凪は、自分でも驚くほど乾いた声を出した。
*
玲は、教室の喧騒を背中で振り切るようにして廊下を足早に歩いた。今日はどこに行こうか。行先なんて何も決まっていない。昨日と同じプールサイドも考えたが、あそこへ行けば、また百瀬に会ってしまうかもしれない。昨日、彼女に「特別な時間」をもらったのはうれしかったが、練習の邪魔をしたくなかったし、それに独りぼっちの寂しさを彼女に埋めてもらおうとするのは違うと感じていた。これは、誰かにどうにかしてもらうものじゃない。自分ひとりで、この気持ちに向き合わなければならない。玲は、そう感じていた。
玲が向かったのは、校舎の最上階、さらにその先の重い鉄扉の向こう側――屋上だった。金沢栄高校の屋上は、昼休みともなれば、それなりに生徒が集まる屋上庭園になっている。庭園といえるほど植木は整ってはいないが、昼休みの時間だけ守衛の人が鍵を開けて解放してくれるので、広い空を仰ぎに来る生徒がそれなりにいる。フェンス際に並んで空を眺める男子グループや、コンクリートの段差に腰掛けて笑い合う女子たちの集団。そこには、学校という社会が持つ独特の「活気」が渦巻いている。
「……失敗したかな。」
分かってはいたが、鉄扉を開けた瞬間、玲は後悔した。ここは一人でいることをより強調させる場所だった。グループという名の「島」があちこちに点在する中で、たった一人で漂流しているのは、この広い空間で自分くらいのものだった。
玲は、できるだけ人目がはけている、給水塔の陰に近い端の方に陣取った。コンクリートは太陽の熱を吸って、座るとじんわりと温かい。鞄からお弁当を取り出し、蓋を開ける。けれど、視線はおかずの彩りではなく、フェンスの向こう側に広がる金沢の街並みへと向けられた。
玲は味を感じられないおにぎりを口に運んでいきながら、昨日、百瀬に言われた言葉を、頭の中で何度も繰り返す。
『嫉妬してるって、はっきり伝えればいいのに』
『寂しさは、寂しさとして、優しく受け入れてあげなきゃ』
彼女のあの強さはどこから来るのだろう。たった一人で水泳部を背負い、誰もいない五十メートルプールを独占して、孤独を「受け入れている」と言ってのけるあの気概。彼女に比べれば、今の自分はなんと惨めなのだろう。幼馴染を新しい友達に奪われたような気がして、勝手に拗ねて、誘いを冷たく突っぱねて。
寂しいのは、寂しいこととして受け入れる。そんな聖人のような真似、どうやればいいのか分からない。自分の中にある「寂しさ」は、優しく抱きしめるにはあまりにも鋭く、尖っていて、触れるだけで指先から血が流れてしまいそうなほど痛々しいものだった。
お弁当を半分ほど残したまま、玲はそれをカバンにしまった。代わりに、ずっと読み進めていた文庫本を取り出す。それは、誰もが知っているファンタジー冒険小説だった。主人公が未知なる大陸へと旅立ち、仲間と出会い、困難を乗り越えていく――そんな胸の躍るような物語のはずだった。けれど、昨日から文字が滑って全く頭に入ってこない。視線は活字を追っている。網膜には確かに「剣」や「魔法」や「勇気」といった言葉が映っている。それなのに、脳がそれを物語として組み立てることを拒否していた。数ページ読み進めては、「あれ、今これ誰が喋った?」と戻る。また読み進めては、「どうしてこの町に来たんだっけ?」と立ち止まる。
(……全然、ダメだ。)
玲は溜息をつき、本を最初から読み直すべきか考えた。最初から読めば、この物語の中に戻れるだろうか。それとも、もう自分はこの物語を純粋な気持ちで楽しむことはできないのだろうか。お昼休みが終わりに近づく。そうこうしているうちにも、また午後の授業が始まり、気まずい教室の時間がやってきてしまう。
何を考えても、思考は堂々巡りで、一歩も前に進まない。昨日のプールサイドは、あんなに穏やかでいい天気だったのに。今日の屋上は、なぜか風が強い。突風が吹くたびに、玲の長い髪が乱れ、広げた文庫本のページがパタパタとせわしなく羽ばたきを上げた。物語が、自分の手の中から逃げ出そうとしているような気がして、玲は思わず本を強く閉じ、鞄の中に放り投げるようにしまった。
視界の端で、笑い合う生徒たちの声が風に乗って流れていく。その中に、凪の声が混じっているのではないかと、耳が勝手に探してしまう。美央と一緒にお弁当を広げて、ダイビングの計画を立てているのだろうか。「玲ちゃん、来なくて残念だね」なんて、もう諦めて笑っているのだろうか。
(……寂しい。)
初めて、玲は自分の心の中でその言葉をはっきりと認めた。百瀬の言うように「優しく受け入れる」ことはまだできないけれど、少なくとも、この感情の正体が、自分が最も忌み嫌っていた「独占欲」であり、「嫉妬」であり、「寂しさ」であることを認めざるを得なかった。
凪は、冒険に出たがっていた。私は、それを横で見ていたかった。でも、その冒険の船に「私以外の誰か」が真っ先に乗ってしまうなんて、思ってもみなかった。
「……バカみたい。」
独り言は風にかき消された。玲は立ち上がった。この風の中にいると、自分の心の輪郭までが削り取られて、どこかへ飛ばされてしまいそうだった。
玲は乱れた髪を抑えながら、重い足取りで出口の鉄扉へと向かった。扉のノブに手をかけ、このまま、どこか遠い冒険の国につながっていて、別の世界へ消えてしまいたいと感じていた。




