水の流れが変わるとき 2
屋上の鉄扉を閉めると、吹き荒れていた風の音が嘘のように遠のいた。冷たいコンクリートの階段を下りる玲の足取りは重い。ただ午後の授業という現実から逃げたいのを必死にこらえるように、一歩一歩段差を刻んでいた。
下の階に降りてすぐ目の前の理科室の引き戸が、少しだけ開いているのが目に入った。いつもはきっちりと閉まっているはずだが、その隙間から漏れる灯りが妙に気になり、静まり返った理科室の中に、玲は吸い寄せられるようにその隙間を覗き込んだ。
実験器具の棚が並ぶ室内。一番奥の実験台に、一人で静かに座っている女子生徒がいた。彼女は、ウェーブのかかった長い髪を、今日は結ばずにそのまま背中に流している。お弁当箱を小さく抱えるようにして、一口ずつ大切そうにおかずを口に運んでいた。
(……あ。)
玲は息を呑んだ。一目で分かった。昨日、あの広いプールを切り裂くように泳ぎ、自分の気持ちに気づくきっかけをくれた百瀬だ。
けれど、何かが決定的に違っていた。今日の彼女は、分厚いフレームの眼鏡をかけていた。そのせいか、あるいは場所のせいか、昨日のあの太陽のような天真爛漫さは影を潜め、まるで冬眠中の小動物のように、ひっそりと世界から身を隠しているように見えた。
「……百瀬、さん?」
玲は自分でも驚くほどの勇気を出して、掠れた声で呼びかけた。
「ひゃっ……!?」
理科室の静寂を破る玲の声に、百瀬の背筋が鋼のバネのようにビクンと跳ねた。驚きのあまり、手に持っていた箸がカランと音を立ててリノリウムの床に落ちる。
「あ……ご、ごめんなさい! 驚かせるつもりはなくて。」
百瀬は顔を真っ赤にして、慌てて床の箸を拾い上げた。玲は申し訳なさに急いで駆け寄り、座りづらい四角い木の椅子に、少し距離を置いて腰掛けた。
百瀬は、前髪を眼鏡のフレームに被さるくらいの長さまでぐっと下げて、視線を泳がせている。昨日の、あの不敵な笑みを浮かべて独りぼっちかと聞いてきた少女と同一人物だとは、到底信じられなかった。
「……一人で、ご飯を食べているの?」
玲が優しく問いかけると、百瀬は頷くだけで、言葉を発しようとしない。
「昨日、プールサイドであった百瀬さんよね? 私、黒川だけど……。」
もう一度確認するように聞くと、百瀬はまた、小刻みに首を縦に振った。昨日見せた、しなやかな筋肉を持つアスリートの姿はどこにもない。そこにあるのは、人目から逃れるようにして自分を閉じ込めている、一人の臆病な少女の影だった。
「ご、ごめんなさい……。め、眼鏡かけてると……緊張して。上手く、話せなくて……。」
消え入るような声。百瀬は、自分の指先をいじるようにして俯いている。
玲は、そのあまりのギャップに呆気にとられた。眼鏡を外すと別人になるヒーローの話は漫画で読んだことがあるけれど、まさか現実に、これほどまでに性質が変わってしまう人間がいるなんて。眼鏡というフィルターが、彼女にとっては世界から自分を守るための、あるいは自分を抑えるための特殊な装備なのかもしれない。
「今日は、練習しないの?」
玲が努めて明るく話題を振ると、百瀬は数秒の沈黙の後、たどたどしく答えた。
「……き、今日は、顧問の先生が、お、お休みで……か、鍵が、借りられなくて。練習、できないから……。」
昨日、あれほど豪快に水を切っていた姿が、遠い出来事のように思える。今、目の前で膝を抱える百瀬は、ひどく小さく見えた。今にも泣き出すんじゃないかという様子で座っている百瀬が、あの強い言葉の主だと思うと、玲の胸の奥に、不思議な親近感が湧いてきた。
玲の胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。
彼女も、きっと戦っている。
プールの中では、水の重さや冷たさと。教室や廊下では、向けられる視線や、飲み込めない言葉や、自分自身の弱さと。眼鏡という小さな鎧をまとわなければ、うまく息もできないほどに。この学校という場所で、彼女もまた、居心地の悪さと折り合いをつけようとしているのかもしれない。
――勝手な想像だと分かっている。それでも、どこか似ている気がしてしまった。孤独を抱えたまま、水の中だけで自由に泳いでいた姿も。
胸の奥で、何かがそっとほどける。
もしかしたら、私たちは、同じ場所で息をしているのかもしれない。
「……ねぇ、百瀬さん。私も明日から、ここでお昼食べていいかな?」
玲の言葉に、百瀬は一瞬だけ、レンズ越しに玲を見た。そして、ほんの少しだけ口角を緩めたように見えた。百瀬は言葉の代わりに、もう一度だけ、深く静かに頷いた。
二人きりの理科室。窓から差し込む午後の光が、埃の粒をキラキラと照らし出している。実験机の冷たい感触と、わずかに残るアルコールの匂い。凪と美央のいないこの静かな空間が、今は何よりも玲を安心させてくれた。
教室に戻る階段を下りながら、玲は自分の心の隙間に、小さな、でも確かな「安心」の種が植えられたのを感じていた。
昨日のプールで見つけた、激しく鮮やかな青。今日の理科室で見つけた、静かで臆病な青。どちらも百瀬であり、そしてどちらも玲がこれから向き合っていくべき「自分の一部」のような気がした。
玲の足取りは、今日初めて、迷いのないリズムを刻んでいた。




