水の流れが変わるとき 3
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気づけば、出発前日の金曜日の昼休みになっていた。窓から差し込む陽光はまぶしく、あの月曜日――駐輪場で決裂した日の、重たい曇り空が嘘のように明るい。けれど、教室の一角にいる凪と美央の周りだけは違った。そこだけ、見えない重りでもぶら下がっているかのように空気が沈み、淡い影が静かに落ちている。
くっつけた二人の机の真ん中には、一枚のプリント。西島瑞稀から余分にもらった、体験ダイビングの申込書だ。週の初めには「冒険のチケット」に見えたその紙は、今や玲との間に修復不可能かもしれない亀裂を生んだ「絶縁状」のように凪の目には映っていた。保護者のサイン欄は、白く虚しく空いたままだ。
凪は頬杖をつき、その真っ白な欄を食い入るように見つめたまま動かない。その隣では、美央が普段の華やかさをどこかへ置き忘れてきたような顔で、深いため息を繰り返していた。
「……どしたの? 二人とも。お通夜みたいだよ?」
頭上から降ってきた、ハキハキとした張りのある声。
凪が顔を上げると、そこには「安宅みどり」が立っていた。短く切り揃えられたボブヘアに、汚れ一つない制服の着こなし。入学早々「私がやるわ」と学級委員に立候補した彼女は、凪にとって、眩しすぎて少しだけ直視できない「芯のある強い人」だった。
「あ……安宅さんか。」
「二人して、ため息ついて……悩み事?」
みどりは空いている横の席の椅子をくるりと回転させ、そこに跨るようにして座った。その迷いのない動作一つとっても、今の凪には羨ましく、そして少しだけ苦手に感じられた。
「……実はね、安宅さん。」
凪と美央は、隠し通す元気も残っておらず、この一週間の出来事をぽつりぽつりと話し始めた。
土曜日に二人で金沢に出かけたこと。偶然見つけたダイビングショップで、最高にワクワクする夢を見つけたこと。そして、月曜日の放課後、勇気を出して玲を誘ったのに、氷のような言葉で拒絶されてしまったこと。
「……それからずっと、玲とは一言も喋れてなくて……。」
「出発前日になっちゃった……。」
美央が身を乗り出して、泣き出しそうな顔で付け加える。
「あー、なるほどね。それで最近、あんたたち一緒にいないのかー。」
みどりは納得したように腕を組んだ。
「私はてっきり、黒川さんと派手な喧嘩でもしたのかと思ってたよ。 青山さん、中学からの同級生でしょ? 入学してからずっと、くっついてたのに。」
みどりの言う通りだった。凪と玲は、金沢の街に降る雨のように、当たり前にお互いの傍にいた。それが今では、同じ教室という箱の中にいながら、何万光年も離れた星同士のように遠い。
「あからさまに距離を取られてるっていうか……避けられてるのが分かるから、余計に辛いんだよね。」
凪が俯くと、美央がみどりの袖を縋るように掴んだ。
「ねぇ、安宅さん! 安宅さんならこういう時どうする? どうすれば玲ちゃん、戻ってきてくれるかな?」
美央の切実な問いに、みどりは少しだけ天井を仰ぎ、あっけらかんとした口調で答えた。
「うーん。時間が解決するんじゃない?」
「えーっ! それじゃ解決にならないよー! 明日には海に行く予定なんだよ!?」
美央が机上になだれ込むように崩れる。凪も、みどりの楽観的な回答に少しだけ肩透かしを食った気分だった。
「いや、だってそうでしょ。人の気持ちなんて、外から突っついてどうにかなるもんじゃないよ。 それに二人は悪くないって言われたなら、黙って待っててあげたら?」
みどりは冷淡なわけではなく、どこまでも現実的だった。
「それでこのまま……、離れたままになっちゃったら辛いよ。」
美央は机の中に入り込んでしまうのではないかというくらいに、さらに沈み込んでゆく。
「……ま、私なら放っておくね。そのうちお腹空いて戻ってくるって。」
「……猫かよ。」
凪が小さく反論したが、みどりは微笑みながらそれを聞き流すと、突然、机の上のプリントを拾い上げた。
「それよりもさ。さっきから気になってんだけど、ダイビングって何? あの、海に潜るやつ?」
話題の急転換に、凪と美央は一瞬目を白黒させた。
「え、あ、そうだよ。ボンベを背負って、海の中を自由に泳ぐの。」
「明日って言ってたよね?この時期に? どこでやるの?」
みどりの瞳に、好奇心の火が灯る。学級委員としての彼女ではなく、一人の女子高生としての素の顔が見えた気がして、凪はほんの少しだけ緊張が解けるのを感じた。
「越前海岸。ショップのオーナーさんが、すっごく素敵な人で……。」
美央が瑞稀のことを話すと、みどりは「へぇー」と身を乗り出した。
「面白そうじゃん。あなたたち、意外とアクティブなのね。」
玲の参加が見込めなくなってから頭の片隅に仕舞い込んでいた土曜日の体験ダイビングの予定を口にすると、それまで萎れていた美央の表情に、少しずつ、けれど確かな赤みが戻ってきた。
「瑞稀さんって人がね、すっごくかっこいいの。元先生なんだって。お店もハワイアンな感じで、海の写真もきれいで……あ、お店の写真見る?」
美央がスマホを取り出し、土曜日に撮った『ダイビングショップにしじま』の写真をみどりに見せた。それまで「時間は解決する」なんてドライなことを言っていたみどりの目が、写真を見た瞬間にカッと見開かれた。
「へぇ! すごいじゃん! 本当に高校生でもできるの? なにこれ、このタンクを背負うわけ?」
美央の写真の説明に、みどりの目も呼応するようにみるみるうちに好奇心でキラキラと輝き始めた。
「超面白そう! ねぇ、これって息はどうするの? 苦しくないの?」
「私も初めてだから分かんない!陸上と同じように、海の中でも普通に呼吸できるんだって。」
凪は、みどりと美央のやり取りをどこか遠い場所から眺めているような、不思議な感覚に陥っていた。
さっきまでのお通夜のような重苦しさはどこへやら、二人の声は弾み、教室の空気は一気に夏を先取りしたような熱を帯び始めている。美央の顔に笑顔が戻ったことには、心から安堵した。彼女の太陽のような明るさが消えてしまうのは、凪にとっても耐え難いことだったから。
けれど、心の隅に居座るもやもやは、晴れるどころか、さらに冷たい澱となって、静かに沈んでいく。
(ここに、玲がいてくれたら……)
叶うはずのない願いが、胸の奥を小さく焦がす。目の前では、冒険を前にした高揚が少しずつ熱を帯びていく。その明るさとの温度差が大きくなるほどに、胸の痛みはかえってくっきりと輪郭を持ち、じわじわと広がっていった。
その時、みどりがふと、独り言のように言葉を漏らした。
「へぇ〜……私にもできるかな……。」
その呟きは、いつもの自信満々な学級委員のものではなく、新しい世界を覗き込もうとする、純粋な好奇心に満ちていた。
一瞬、その場に沈黙が流れた。
美央が、おずおずとした、けれど何かを決意したような瞳で凪を見つめてくる。
凪はその目を見た瞬間、彼女が何を言おうとしているのか、何を求めているのかを悟った。
(……誘う相手を、変えるってことだよね。)
玲のために用意した、あの真っ白な三枚目の申込用紙。
それを、安宅みどりに渡す。
それは、玲が来ないことを、この冒険の船に玲は乗らないということを、正式に認めてしまうことと同義だった。凪の心の中で、幼馴染への執着と、せっかく立ち上がろうとしている美央への思いが激しく葛藤した。
凪は一瞬だけ、まぶたを閉じた。
そして、自分を繋ぎ止めていた細い糸を断ち切るように、小さく、縦に頷いた。
「よければ……みどりちゃん、一緒にいく?」
美央が弾けるような、相手の心を探るような声で誘うと、みどりの目がこれ以上にないほど大きく輝いた。
「ほんと!? いいの!? 私が行っても邪魔じゃない?」
「全然! 賑やかな方が瑞稀さんもきっと喜ぶよ!」
そこからの展開は、驚くほど速かった。明日の集合場所、待ち合わせ時間、持ち物の中身をすり合わせる。凪は玲に渡すはずだった、少し端が折れ曲がった申込用紙を改めてみどりの手に手渡す。
「これ……保護者のサインが必要だから、明日までに書いてきてね。」
「わかった! 抜かりなく準備するわ。」
段取りを決めていく時間は、あっという間に過ぎ去った。美央が、みどりの分のスーツやブーツといったレンタル品のサイズを、瑞稀に連絡し、「OK」の確認をとる。さっきまでの迷いが嘘のように、凪たちの「冒険」は形を整え、出発の準備が整ってしまった。安宅みどりという新しいピースが加わったことで、止まっていた時計の針が、猛烈な勢いで回り始めたのだ。
しかし、放課後。
凪の心は、やはり玲を求めていた。
ホームルームが終わると同時に、凪は玲の席へと急いだ。今日こそ、せめてダイビングに行かないにしても、お互いに避け合うのをやめようと、直接言葉を交わしたかった。
「玲!」
声をかけた瞬間、玲はすでに鞄を肩にかけていた。
彼女は、凪と目が合うか合わないかの一瞬の隙に、困ったような、でもどこか寂しげな微笑みを浮かべた。
「ごめん! 凪。今日は、先帰るね。」
玲はまるで、自分の心に誰かが踏み込んでくるのを察知した猫のように、するりと凪の横を通り抜けていった。その背中は、追いかけることを拒絶するような、透明な壁に守られているように見えた。
伸ばしかけた手が、空を切る。直接話したかった。でも、もう彼女は教室の外へと消えていく。
凪はその場に立ち尽くした。周囲では、生徒たちが部活の準備をしたり、友達と笑い合いながら帰り支度を始めたりしている。それなのに、自分だけが教室に取り残されたような、ひどく空虚な感覚に包まれていた。
このまま海へ行っても、きっとずっと、玲のことを考えてしまう。
波の音を聞いても、青い水を見ても、頭のどこかに彼女がいるままだろう。
だから――どうしても、伝えておきたいことがあった。
凪は、胸の奥の熱が冷めてしまわないうちに、スマホを取り出す。そして、玲とのトーク画面を開いた。
キーボードを叩く指が、何度も止まる。
安宅みどりが一緒に行くことになったとは、書けなかった。それを書けば、本当に玲を切り捨てたように聞こえてしまう気がしたから。
『あの時は、ごめん。無理に誘うつもりはなかったよ。
でも、玲と海を見られたらいいなって思ったのは本当。
私、玲とはずっと仲良くいたい。また一緒に遊びに行ったり、お昼を一緒に食べたりしよう。』
文末に、小さな魚のスタンプを一つ添えて、送信ボタンを押した。
画面に既読のマークはつかない。
玲は今、どんな気持ちで自転車を漕いでいるのだろう。
凪は、携帯の画面をそっと閉じた。そのうち読んでくれる。いつか、また二人で冒険の続きを話せる日が来る。そう願わずにはいられなかった。
明日、自分たちは福井の海へ向かう。初めて足を踏み入れる、未知の場所へ。夕暮れに染まる金沢の街を眺めながら、まだ見ぬ景色を思い描き、胸をふくらませていた。
ただひとつ、願っていることがある。明日出会う海の色が、玲との途切れかけた糸を、そっとつなぎとめてくれるような、そんな優しい色であってほしいということ。それだけを、凪は強く、強く祈り続けていた。




