↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さわせん(金沢栄高校潜水部)  作者: うきわまん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/40

海へようこそ 1

 石川県は、日本の中でも特に雨が多いことで知られている。「弁当忘れても傘忘れるな」という言葉が格言になるほど、どんよりとした曇り空がこの街のデフォルトだ。しかし、今日ばかりは「てるてる坊主」の効力が、天気の神様に届いたらしい。まだ午前六時を過ぎたばかりの早朝だというのに、金沢駅の東口に降り立った凪を待っていたのは、初夏を先取りしたような容赦ない陽光だった。湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつき、ただ立っているだけで首筋に汗が滲む。これから向かう「海」を予感させるような、濃密な熱気。

 凪は、予定よりも二十分も早く駅に着いてしまった。

「前日はしっかり寝ておくように。」

 ショップのオーナーである瑞稀からはそう釘を刺されていたが、そんなのは無理な相談だった。目を閉じれば、暗闇の中に青い水面が浮かび、耳元ではパチパチと弾ける泡の音が聞こえるような気がして、結局、遠足前日の小学生のように一睡もできずに朝を迎えてしまった。

 水着やタオルが入ったリュックを背負い直し、コンコースを見渡す。すると、遠くからこちらに向かって意気揚々と歩いてくる、見慣れたボブヘアのシルエットが見えた。


「おっ、凪! 早いじゃん!」


 安宅みどりだ。昨日、連絡先を交換して、勢いで「安宅さん」から「みどり」へと名前呼びに昇格したばかりの彼女は、今日も学級委員らしいシャキッとした足取りで近づいてくる。みどりの顔を見た瞬間、凪の緊張が少しだけ解け、自然と笑みがこぼれた。


「やばい、今日めっちゃ楽しみやんな……。私、寝られんかった。」

 みどりがそう打ち明けると、凪は我が意を得たりとばかりに、さらに瞳を輝かせた。

「わかる! 私も!」


 二人が顔を見合わせて、まるで長年の親友のように笑い合っていると、改札の向こうから「ごめん! お待たせー!」という、鈴を転がしたような声が響いた。

 美央だ。彼女は淡いブルーのカットソーにデニムという、まさに今日のために用意したような爽やかなコーディネートで、こちらに大きく手を振りながら駆け寄ってきた。


「凪ちゃん、みどりちゃん、おはよう! 楽しみだね!」


 美央の弾けるような挨拶に、すかさずみどりが突っ込む。


「な! 見てよ美央!凪なんて、さっきからめっちゃ笑顔やもん。隠しきれてないって」

「えっ、うそ。……そんなに?」

 

 凪は急に恥ずかしくなって、両手で自分の頬を押さえた。確かに、頬の筋肉が緩みっぱなしで、自分でもコントロールがきかない。


「二人だってそうだよ。美央だって目がキラキラしすぎ。」


 結局、誰も遅刻することなく、むしろ集合時間よりかなり早く全員が揃ってしまった。この溢れんばかりの熱量こそが、今日の旅を予感させていた。

 自動券売機で、金沢から敦賀へと向かう新幹線と、そこから乗り継ぐ特急のチケットを三枚購入する。磁気カードの硬い感触が指先に伝わるたびに、凪は「ついに、ここではないどこか遠い場所へ向かうんだ」という実感を強くした。改札機にチケットを通し、エスカレーターを上がってプラットホームへ向かう。ホームに滑り込んできた最新鋭の新幹線の流線型のボディが、朝の光を反射して白銀に輝いている。


 新幹線に乗る。ただそれだけのことが、今日の彼女たちにとっては特別な儀式のように感じられた。

 車内に入り、自分たちの座席を探す。「じゃんけんで決めようよ!」というみどりの提案で、白熱の勝負が繰り広げられた。結果、みどりが窓側、真ん中に美央、そして凪が通路側に座ることになった。三人が横一列に収まり、新幹線が静かに、しかし力強く加速を始めると、凪のワクワクは最高潮に昂った。車窓を流れる金沢の街並みが、あっという間に緑の田園風景へと変わっていく。


「冒険のお供といえばこれだよね!」


 新幹線が動き出してまだ五分も経っていないというのに、真ん中の美央が座席のテーブルをバタンと下ろした。そして、鞄の中から溢れんばかりのお菓子を取り出し、テーブルの上に山を作っていく。


「……美央。これ、敦賀まで三十分くらいだよ? すぐ降りるよ?」

 凪が苦笑しながら指摘したが、美央はどこ吹く風で、遠慮なくポテトチップスの袋に指をかけた。

「いいのいいの! 気分が大事なんだから。ほら、みんなも食べて!」


『パンッ』という軽快な音とともに、スナック菓子の香ばしい匂いが車内に広がる。朝からポテチなんて、と一瞬思った凪だったが、美央が本当に美味しそうにそれを頬張る姿を見て、つい手が伸びてしまった。みどりも「あー、それ私の好きなやつ!」と、迷いなく指を伸ばしている。三人の間に、お菓子の粉と笑い声が飛び交う。

「なぁ。そういえばさ、瑞稀さんって、どんな人なの? 怖い系?」

 みどりが、口の周りに塩をつけながら尋ねた。すると、美央がスパンと小気味よい音を立てて答えた。

「目がめっちゃ細い!」

「えっ、そこ!? 確かに細いけど。」

 

 みどりがお茶を吹き出しそうになりながら大笑いする。

「いや、本当なんだって! 糸目っていうか、笑うと線になっちゃうの。でも、その目が開いた時がすごいのよ!」

「え……何。 魔法でも使うの?」

「そう。普段はゆるいお姉さん系って感じなんだけど、ダイビングの話になると……なんて言うか、こう、ガッと。」

 目を大きく開いて、迫力のある顔になる美央。若干呆れ顔で、何も言えないまま美央を見ていた凪の顔を見て、みどりは笑いながらまだ見ぬ瑞稀に思いを馳せるように目を細めた。


 新幹線は、彼女たちの興奮を乗せて、福井の海へとひた走る。窓の外では、太陽がますます高く昇り、石川と福井の県境にそびえる山々を、眩しいほどの緑に染め上げていた。凪の胸の中で、不安と期待が混ざり合い、真っ青な炭酸水のようにシュワシュワと泡立っていた。

 新幹線から特急に乗り換え、お菓子の袋が空になるのとほぼ同時に、列車は福井県の武生(たけふ)駅へと滑り込んだ。金沢からたった一時間弱。けれど、駅のホームに降り立った三人が感じた風は、金沢のそれよりもどこか潮の香りが混じっているような、濃密で野性味のある匂いがした。

 改札を抜けると、駅前のロータリーに一台の白いハイエースが停まっているのが見えた。その車の前に、片手をポケットに突っ込み、もう片方の手でひらひらと合図を送る人物がいた。


「お? 無事着いたね。おはよー!」


 西島瑞稀だった。

 今日の彼女は、前回ショップで会った時とは雰囲気がまた違っていた。眩しいほど真っ白なジップアップパーカーを羽織り、ウェーブのかかった長い髪は高い位置でポニーテールにまとめられている。ショップでの「ゆるいお姉さん」という印象は影を潜め、背筋がスッと伸びたその立ち姿からは、厳しい自然と向き合う「海の女」としての力強さと、確かな頼もしさが滲み出ていた。

 凪は、その姿を見た瞬間、胸がトクンと跳ねるのを感じた。

(かっこいい……。)

 ただ立っているだけなのに、瑞稀の周りだけ風が回っているような、そんなオーラ。凪は知らず知らずのうちに、彼女という存在に強く惹きつけられていた。


「今日はよろしくお願いします。安宅みどりです。急にお邪魔してすみません!」

 みどりが学級委員らしい礼儀正しさで、瑞稀の前に進み出た。瑞稀は細い目をさらに細めて、ニカッと笑う。


「いいよいいよ、安宅さんね。よろしく! ダイビングは初めて?」

「はい、全くの初めてです。でも気合いだけはあります!」

「はは、いいお返事。 おし! じゃあ、後ろに乗ってねー。荷物も放り込んで!」

 瑞稀は、ハイエースのスライドドアを景気よく開けた。車に乗り込みながら、みどりがこっそりと美央の耳元で囁くのが聞こえた。

「(……ほんまに目細いな!)」

「(でしょ!? 笑うと線になるの!)」

 美央が嬉しそうに頷く。


 三人が後部座席に乗り込むと、ハイエースは波間を跳ねるイルカのように軽快なエンジン音を響かせ、駅前を離れた。


「今日は本当にいい天気に恵まれたからね! 風も穏やかだし、透明度も期待できるよ。最高の海を見せてあげるから。」


 瑞稀が運転席から振り返らずに饒舌に言う。その言葉の響きには、嘘偽りのない自信が宿っていた。凪の座った位置からは、瑞稀の目が本当に大きく開かれていたのが見えて、少し笑ってしまう。凪たちは、車窓から流れる景色を見つめながら、期待に胸を膨らませて笑顔を見合わせた。車はしばらく街中を走っていたが、やがて景色は急変した。


「え、山登り?」

 美央が声を上げるほど、道は急勾配の山道へと差し掛かったのだ。福井の海岸線は山が海に迫り出している場所が多い。エンジンを唸らせて峠を越え、トンネルを抜けた――その瞬間だった。


「わあぁ……っ!」


 三人の口から、同時に感嘆の声が漏れた。

 視界を遮っていた山肌が消え、フロントガラスいっぱいに、抜けるような真っ青な大空が飛び込んできた。車は崖の岩肌を削って作られたような、スリリングな海岸道路を走り抜けていく。右手には切り立った崖、そして左手には、言葉を失うほどの「青」が広がっていた。

 視線の先がすべて海になる。海面が太陽の光を反射して、無数の銀の鱗が踊っているようにキラキラと輝いている。水平線ははるかかなた、空の青と溶け合うようにどこまでも続いていて、地球が丸いことを教えてくれるような大きな弧を描いていた。


「見て、凪ちゃん! すごいよ、海!」

 美央が身を乗り出すようにして叫ぶ。凪は、吸い込まれそうなその「青」に目を奪われていた。

 瑞稀はハンドルを握りながら、バックミラー越しに三人の興奮した様子を見て、満足げに微笑んだ。


「綺麗でしょ。本番はあの海の下だよ。」


 車が少しずつ減速し始めた。海岸沿いに進んでいくと、突然に白い看板がポツンと現れた。潮風にさらされて少し色褪せた、けれど温かみのある看板。


『南越前ダイビングセンター』


 その文字が目に入った瞬間、凪の心臓は今日一番の大きな音を立てた。ついに、たどり着いたのだ。


「さあ、着いたよ!」


 瑞稀はブレーキを踏み、車が停まる。扉を開けた瞬間、熱い夏の匂いと、力強い波の音が三人を包み込んだ。

 凪は大きく息を吸い込んだ。肺の奥まで、潮の香りが満たされていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。