海へようこそ 2
「荷物は全部持って、お店の中に入っちゃってね!」
瑞稀の軽快な声が、潮騒の中に響く。
「わあ……っ、見て! プールがある!」
車から降りた美央が真っ先に駆け寄ったのは、建物のすぐ脇に設置された屋外プールだった。透き通った真水がたっぷりと張られ、太陽の光を受けて、底にあるブルーのタイルが宝石のように輝いてる。ただし面積の半分は濃く暗い青色をしており、それが学校のプールとは違う、ダイビング用の深いプールだと分かる。ここはこれから始まる「未知」への助走地点のように見えて、美央の瞳は子供のように爛々と輝いていた。
一方のみどりは、スマホを構えて夢中でシャッターを切っていた。
「やばい、これ映えすぎやろ。プール越しに海が見えるって、どこの海外リゾートよ。」
彼女の言う通り、プールサイドの向こう側には、真っ青な海がどこまでも広がっている。人工的な青と、自然が作り出した深い青。その対比が本当に美しかった。
瑞稀は、手慣れた様子で車のバックドアを開け、何やら重そうなバッグを次々と卸し始めている。
そこへ、建物の中から一人の男性が歩み寄ってきた。Tシャツから覗く腕は丸太のように太く、肌は漁師のようにこんがりと黒光りしている。いかにも「海の男」といった体格のいい彼が、瑞稀に声をかけた。
「瑞稀、おはよう。今日はビーチ4人か?」
「おはよう。うんー、体験3人だよ。」
荷物を卸しながら、瑞稀が景気よく答える。そのやり取りを聞きながら、凪は瑞稀の言った「体験」という言葉に自分たちの身分を再確認した。自分たちはまだ、この巨大な未知の世界にお邪魔させてもらう、一番端っこの入り口に立っているに過ぎないのだ。
「……二人とも! ほら、瑞稀先生が入ってって言ってるよ。遊んでないで。」
凪は、テンションの上がりきっている美央とみどりを宥めるように声をかけた。ワクワクを抑えきれない二人をなかば引っ張るようにして、センターの扉をくぐる。
「先生っていいね!私も瑞稀先生って呼ぼう。」
美央がそう言いながら楽しそうに店の中へと入っていく。
店内に一歩足を踏み入れた瞬間、凪は不思議と安心する既視感に包まれた。金沢のあの路地裏にあった『ダイビングショップにしじま』と同じ匂い。少しだけ湿ったゴムの香りと、コーヒーの匂い、そして木の温もり。広い受付カウンター、大きな木のテーブル。壁際の棚には、極彩色のマスクや、複雑な構造をした「機材」と呼ばれる道具たちが整然と並んでいる。
「すご……。これ全部、海で使うやつ?」
みどりが、初めて見るダイビングギアに吸い寄せられるように近づいていく。学級委員としての彼女の顔はどこへやら、今はただの、知的好奇心に溢れた少女だった。
しばらくして、瑞稀がバタンと扉を閉めて入ってきた。
「お待たせ。じゃあ、三人とも。これからの流れを説明するから、そこのテーブルに集合して。」
その言葉に、三人は示し合わせたようにサッと木のテーブルを囲んだ。背筋を伸ばし、瑞稀先生の顔をじっと見つめる。その様子は、まるで重要な作戦会議に臨む戦士のようだった。
「まずは、このセンターの使い方ね。」
瑞稀の説明が始まった。
「トイレはあそこ。今のうちに済ませておいてね。更衣室は通路を通って右側。あそこにある冷たい麦茶は無料だから、こまめに水分補給すること。……あと、ここの土間エリアは濡れたままでもOKだけど、あっちのカーペットの先と、二階の休憩スペースは絶対に濡れたまま入らないこと。オッケー?」
指差される方向を、三人は首が折れんばかりの勢いで追いかける。凪は瑞稀先生の言葉を一字一句漏らさないように注意を払い、頭の中の地図に書き込んでいった。
さっきまでの車内の賑やかさはどこへやら。瑞稀が説明を始めると、少しばかり空気がピンと張り詰める。それは「怖い」のではなく、彼女がこれから自分たちを、美しさに溢れた未知の世界へ導こうとしていることへの、本能的な敬意だった。
「説明は以上。何か質問は?」
三人が揃って首を横に振るのを見て、瑞稀は満足げに目を細めた。
「よし、いい顔してるね。そしたら早速、水着に着替えようか! 」
「あの、瑞稀先生。これは……。」
凪は親から同意のサインをもらった申込書類を取り出し、瑞稀先生に提出する。
「せ、先生っ!?」
瑞稀は、突然「先生」と呼ばれ、思わず顔を赤らめて戸惑った。その様子に気づいた凪も、はっとしてつられるように頬を染める。一方の美央は、そんな二人を見てニコニコしながら、「先生」呼びを半ば強引に押し通し、「瑞稀先生」と呼称した。
「ごめん。それ大事な書類だからね。じゃぁ先生が回収しまーす。」
瑞稀は、少し照れたように微笑みながらも、手際よくひらりと書類を受け取っていく。保護者同意の署名などに記入漏れがないか、目を走らせてさっと確認していった。
書類も出し終えて、水着に着替えるため、更衣室に入る。いよいよ始まるという実感がじわじわと湧き上がり、期待と不安が一秒ごとに入れ替わる。凪は、鏡に映る少しだけ火照った自分の顔を一度だけ見つめ、大きく深呼吸をした。更衣室の湿った空気の中で、日常がゆっくりと剥がれ落ちていく。水着になるなんて、一体いつぶりだろう。 凪は、再びロッカーの鏡に映る自分を少しだけ不安げに見つめた。ショップで瑞稀先生から「ウェットスーツの下に着るなら、凹凸の少ないセパレートタイプが動きやすくておすすめだよ」と言われていたので、中学の時に使っていた、装飾のほとんどない紺色に近いシンプルな水着を選んできた。
美央は「よいしょ、っと!」という軽快な声とともに恥ずかしがる素振りなど微塵も見せず、まるで脱皮でもするかのように、あっという間に普段着を脱ぎ捨てていた。
「凪ちゃん、準備できた?」
鏡越しに凪の方を見てきた美央と目が合い、凪は思わず息を呑んだ。
美央が着ていたのは、彼女の白い肌によく映える、鮮やかなビタミンカラーのイエローの水着だった。
「……美央、スタイル良すぎじゃない?」
凪は、思わず本音が漏れた。すらりと伸びた長い手足に、きゅっと引き締まったウエスト。普段のふんわりとした服の下に、こんなにも健康的で美しいラインが隠されていたなんて。羨望と、どこか気圧されるような感情が入り乱れ、凪は自分のシンプルな水着姿が急に頼りなく思えてくる。
「えへへ、そうかな? 凪ちゃんのも、大人っぽくて素敵だと思うけど!」
美央は心底嬉しそうに笑いながら、今にも抱きつきそうな勢いで凪にぐっと距離を詰めた。
「ねぇ、記念に写真撮ってもいい?」
スマホを取り出そうとする美央に、凪は裏返った声で叫んだ。
「ダメ!! 絶対ダメ!! 」
全力で否定された美央は、今度はとても寂しそうな顔をして、取り出しかけたスマホをバッグの中に戻す。
そんな二人のやり取りに少し遅れて、みどりがロッカーの扉を閉めて姿を現した。
「何二人でイチャついてんのよ。」
みどりの姿を見た瞬間、今度は凪が「えーっ!」と指を差した。みどりは、お洒落な黒のラッシュガードを完璧に着こなしていた。首元までしっかりガードされ、どこかプロっぽい、ストイックなアスリートのような佇まいだ。何よりお腹が出ていないのが羨ましくて仕方がない。
「なにそれ! みどり、ずるい!」
「なにって、ラッシュガードだよ。日焼けしたくないしね。……え、何その顔。」
「羨ましい。心底羨ましい。どこで買ったの? 私も絶対買う。てか、今日それ貸して。」
「嫌だよ!」
凪は本気で食いつく勢いでみどりに詰め寄る。みどりはその猛アタックをひらりとかわしながら、髪をさっとまとめ直した。
「二人とも先行くよー! 海が待ってるんだから!」
さっきまで一緒にはしゃいでたはずの自由奔放な美央が、すでに出口に立っていて、一番に更衣室の重いドアを開け放った。凪とみどりは、サンダルを鳴らしながら後を追いかける。
ロビーに戻ると、受付を挟んで男性と談笑していた瑞稀が、こちらを向いて手招きしていた。やはり到着した時に声をかけてきた人は、この施設のスタッフのようだ。眩しそうに目を細めて三人を振り返った瑞稀は、しみじみとした声を漏らした。
「おー……絶景絶景。さすが現役JK。眩しすぎて目が開けられないわ。」
「おっさんか!」
みどりが鋭く突っ込むと、瑞稀は「あはは、ごめんごめん」と細い目をさらに細めて笑った。
「瑞稀先生は、着替えないんですか?」
美央の問いに、「みんなに、あれを渡したらねー」と答えながら、更衣室とは反対の方向を指さす。そこには、人の形をしたゴム製のスーツがカウンター奥にずらりと吊るされていた。事前に身長と体重を伝えてあったとおり、体型に合わせたウェットスーツを、名前を呼ばれた順に受け取っていく。凪はまるで学校の特別授業に参加しているような気分になり、胸が高鳴った。手渡された黒く厚手のスーツは想像以上に重く、思わず持ち直してしまうほどだった。
「よし、じゃあ、ウェットスーツ、着てみようか。外とか、広いところがいいよ。意外に丈夫だからね、頑張って着てみて。」
瑞稀先生の合図とともに、凪たちの本当の「変身」が始まった。その隙に瑞稀は更衣室に向かう。
三人は外に出てプールサイドの広いところで、とりあえず手に持った重たいスーツを広げてみた。
「わ。なにこれ。どうやって着るの?」
みどりの言葉に共感しながら、背中を縦に割るファスナーを思い切って広げてみる。
「やっぱり足からじゃない?」
観察をしていた二人をよそに、美央はすでに片足を通していた。凪は、美央のこういうところの行動力と素早さは、素直にすごいと思った。みどりは「早っ」とツッコミを入れていた。
美央に倣ってスーツに足を通していく。厚いゴムをぐっと押し広げながら、少しずつ引き上げるが、足首のあたりが思いのほかきつい。思いきり引っ張っているつもりでも、なかなか通る気がせず、これ以上力を入れたら破れてしまうのではないかと不安になる。
ようやく片足を抜けさせたところで、瑞稀が黒のシンプルな水着姿で現れた。肩にウェットスーツを無造作にかけたその姿は、凛としていて、思わず見とれてしまうほど大人びている。
ふと横を見ると、みどりも同じように片足までで悪戦苦闘していた。一方で、美央はというと、いつの間にかきっちりと着替え終えている。
「お?やるねぇ。ちゃんと着れてるじゃん。」
褒められてうれしそうに、子どものような無邪気な笑顔を見せる美央。その様子を横目に、瑞稀はまだ片足しか通っていない二人を見て、落ち着いた口調でアドバイスを送った。
「コツはね、思い切って最後までぐっと!」
そういうと、瑞稀もあっという間に腰までスーツを着ていく。
「結構力いるでしょ。どうしても入らなかったら、水に濡らしながら着ると着やすいよ。あそこにシャワーあるから一緒に行く?」
そう教えられ、凪とみどりは、片足だけ通したままの不格好な姿でスーツの余りをたくし上げ、プールサイド脇のシャワーへと案内される。すでに着終えているはずの美央も、「なんか寂しいし」と言いながら、なぜか一緒についてきた。
温水のシャワーは思いのほか心地よく、さっきまで頑として動かなかったウェットスーツが、嘘のようにするりと馴染んでいく。もう片方の足を通し、腕も順に通せば、全身がゴムの皮膚に包まれたような感覚になった。
「着替え中で悪いけど、どうしても寒いって子いる? 今日はもう暑いくらいだからウェットにしたけど。」
「全然平気です!」
さっきまでシャワーひとつで大はしゃぎしていた美央が、今度は勢いよく手を挙げて元気に答える。三人は互いの背中のファスナーを引き上げ合い、これで“変身”は完了だ。
ようやく着替えを終え、プールサイドに並んで立つ。ほんの数分前まで手こずっていた姿が嘘のように、どこかたくましく、そして少し非日常めいた雰囲気をまとっていた。
「うん! 似合う似合う!」
瑞稀は腰に手を当てて、プールサイドに並んだ三人を見下ろす。厚手のネオプレン素材に包まれた体は、少し窮屈そうでいて、同時にこれから始まる冒険への覚悟を象徴しているようだった。
「写真! 瑞稀先生、写真撮ってください!」
興奮を抑えきれない美央が、ぴょんぴょんと跳ねるようにして瑞稀に頼み込む。「いいよー」と優しい笑顔の瑞稀が手慣れた様子でアクションカムを構えた。
「やー!!」
美央の掛け声と共に、三人は彼女が指示した通りのポーズをとる。美央は片足を跳ね上げ、みどりはビシッと指を指し、凪は翼のように両手を広げる。まるで昭和の特撮ヒーローか、あるいは深夜アニメの魔法少女のような、なんとも形容しがたい不思議なポーズが、越前の青空の下で炸裂した。
『カシャ。』
瑞稀がシャッターを切ると同時に、凪が我に返ったように呟く。
「……これ、なんのポーズなの……。」
少しダウナー気味に突っ込む凪だったが、隣で「最強の三人組っぽくない!?」と満面の笑みを浮かべる美央と、「意外と悪くないね」とノリノリのみどりを見て、小さく溜息をつきながらも口角が上がってしまうのを止められなかった。
「はい、じゃぁ、これから体験ダイビングの説明を始めます。」
瑞稀がカメラを置き、その表情から「優しいお姉さん」の甘さを消した。代わりに現れたのは、命を預かるインストラクターの鋭い眼光だった。
「いい? ダイビングを安全に楽しむには、よく説明を聞いてください。水の中ではまず言葉が通じない。私の言うこと、これからやる『サイン』を、しっかり覚えてね。」
瑞稀の言葉が、潮風に乗って三人の胸に深く突き刺さる。さっきまでの浮ついた空気は一瞬で霧散し、凪はただ、瑞稀の細い瞳の奥にある真剣な光を、瞬きもせずに見つめ返していた。




