海へようこそ 3
三人は、プールのすぐ横に設置されたベンチへ、並んで腰を下ろした。ウェットスーツの締め付けが肌に心地よい緊張感を与え、心臓の鼓動がスーツ越しにドクドクと伝わってくる。瑞稀は大きなメッシュバッグから、まるで深海魚の触手のような太いホースが繋がった重厚なパーツを取り出した。その先端には、黒いゴム製のマウスピースがついている。
「最初に、これが息を吸うための道具です。『レギュレーター』といいます。これを口で噛んで、噛んだまま呼吸をします」
瑞稀はレギュレーターを高く掲げ、三人の目の前で実演を始めた。
「咥え方は、『あ・い・う』の要領。まず『あ』で大きく口を開けてマウスピースを入れて、『い』の口で左右にある突起を奥歯でしっかり噛む。最後に『う』の口で唇をすぼめて、周りを隙間なく覆うの。見てて。」
瑞稀が「あ、い、う」と口を動かすたびに、彼女の表情は真剣なプロの顔に変わる。
「水中での呼吸のコツは、『吐く』ことを意識すること。肺の中に古い空気が残っていると、新しい空気は入ってこないからね。しっかり吐けば、吸うのは自然についてくる。長く吐くことを意識して、肺の中身を吐き切るように呼吸してね。」
そう言われると、美央はさっそく大きく息を吐き出し、実演をまねしてみせる。瑞稀の細い目が、今度は真剣な光を帯びて三人を見据えた。
「大事なのは、水中では、絶対に呼吸を止めないこと。一秒たりとも、だよ。水中で呼吸を止めると、肺にダメージがでるから。命に関わるからね、いい?」
「……はい!」
三人の返事が重なった。みどりは真剣な表情で頷き、美央は緊張で少し肩を強張らせている。凪は、自分の指先が微かに震えているのに気づいた。
「あ、そもそもゴム噛めない子とかいる……? 嘔吐反射っていうか、おえってなっちゃう子」
三人は不思議そうな顔を見合わせる。
「多分……大丈夫だと思います?」
凪が答える。
「たまにいるのよ、どうしても受け付けない子が。まぁ、もし無理だと思ったらすぐ言ってね。」
瑞稀は、少しだけ表情を和らげた。
次に瑞稀がバッグから取り出したのは、ガラス面が大きく、鼻まで覆うタイプの一眼マスクだった。金沢のショップで美央が顔に当ててみたあのマスクと同じ形のものだ。
「これが『マスク』。水中を鮮明に見るための大事な道具。私たちは、水の中を『見に』行くからね。」
そう言うと、瑞稀はマスクを顔に押し当てるように実演する。
「潜っていくとね、水圧でこれが顔に吸い付いてくるの。もし苦しくなったり、目が圧迫される感じがしたら、鼻から『フンッ』と少しだけ息を吐いて調整してあげて。」
瑞稀は三人にマスクを手渡した。シリコン特有のやわらかな感触と、ひんやりとしたガラスの重みが掌に伝わる。
サイズを確認するから、と言われ、凪達は実際に頭へ装着してみた。思っていたよりゴムの締めつけが強く、鼻から息を吸おうとしても空気が入らない。自然と口呼吸になり、唇がすぼまる。視界が急に狭まり、フレーム越しに見る景色は、もう半分水の中にいるような錯覚を覚えさせる。これで合っているのだろうかと不安になるが、瑞稀が正面からじっくりと顔を確認し、「大丈夫」とうなずいてくれたことで、ようやく肩の力が抜けた。
そのまま、鼻から息を出してみて、と瑞稀に促される。ふっと息を送り込むと、頬のあたりでマスクがわずかに浮き上がる感触があり、ぴたりと吸いつくように戻った。
「三人とも上手上手。優しく吐くのがコツだよ。鼻息が強すぎると、マスクがズレて水が入っちゃうからね。あ、もし水が入っちゃったときはね……」
瑞稀はマスクを自分の顔に当て、やり方を見せた。
「ここ、マスクの上のフレームを指で押さえて、少しだけ上を向く。そのまま鼻から息を吐き続けるの。そうすると、中に入った水が下から押し出されるから。……そう、キザな怪盗みたいに、シュッと上を向いてね!」
瑞稀は得意げにポーズまでつけてみせる。
凪たちはマスク越しに顔を見合わせると、そのまま素直に同じポーズを再現した。誰かがツッコミを入れてくれるのを期待していたのか、三人そろって完璧にまねされ、場がしんと静まり返る。
急に気まずくなったのか、瑞稀は小さく咳払いをして、「……ポーズはしなくていいからね」と付け足した。ほんのり頬が赤くなっているのが、マスク越しにもわかった。三人は笑いながらマスクを外す。
「次は、今日一番の難関、大事な『耳抜き』。これを知らないと海には行けないよ。」
瑞稀は自分の耳を指差した。
「海の中に潜ると、強力な水圧がかかる。そうすると、耳の奥と鼻を繋いでいる『耳管』っていう細い管が、水圧でぺしゃんこに潰されちゃうの。深くなればなるほど、外から押される力が強くなるから、自分の内側から空気を送り込んで、その管を押し広げてあげなきゃいけない。そうしないと、激痛が走って耳を怪我しちゃうから。」
やり方はシンプルだった。鼻を指でしっかりとつまみ、口を閉じて、喉の奥から「んっ!」と力を入れて空気を送り込む。
「あまり強くやりすぎちゃダメ。でも、管に空気が通って耳が『ポコン』って鳴るくらいには、グッとやってね。人によっては、顎触るとか、唾をのみ込むとかいろいろあるけど、鼻つまむやり方が一番確実かな。」
三人は一斉に鼻をつまみ、「んっ、んんっ」と顔を赤くしながら練習を始めた。
「あ、抜けたかも……。」
「私も! 鼓膜が動いた感じする。」
美央とみどりが次々に成功させるなか、凪も慎重に息を送り込む。すると、右耳が少し遅れて「パキッ」と小さく音を立てた。これまでに聞いたことのない感覚に、思わず身をこわばらせる。
「え……これでいいのかな?」
不安げに尋ねる凪に、瑞稀は落ち着いた声で言った。
「痛くなければ大丈夫だよ。」
その一言で、凪のざわついた心がすっと静まった。
「耳抜きは、痛くなる前に『こまめに』やること。最初にどーんと深く潜るから、水に入ったら、どんどん耳抜きする感じ。抜けにくかったら、一番大事なのは、とにかく『リラックス』すること。緊張して肩に力が入ってると、筋肉が固まって管が開きにくくなるから。痛くなったら、痛いほうの耳を、こうやって指さして教えてね。」
三人はそれぞれ利き手で自分の耳を指さす。声は出さないままのその仕草に、互いの緊張がにじんでいた。
「大丈夫、私がずっとそばについてる。何かあったらすぐ止まるから、安心して。リラックス、ね」
瑞稀はやわらかく微笑みながら、最後の一言を少しだけ明るく言い添えた。その笑顔に、凪の強張っていた心がまた少しだけ解けたような気がした。
その後は、言葉の通じない水中で意思疎通をするためのハンドシグナルの練習が続いた。親指と人差し指で輪をつくる「OK」、手のひらをひらひらさせる「トラブルあり」、親指を上に向ける「浮上したい」。三人は声の代わりに同じジェスチャーを繰り返しながら、まるで無言の会話を交わすように、一つひとつ覚えていった。
「今日はサポートで、ベテランダイバーの藤田さんも一緒に潜ってくれるからね。なんでもできるから、困ったことがあったらたくさん聞いてね。」
瑞稀が手のひらで示した方向へ顔を向けると、店先で荷下ろしを手伝っていた、あの黒く日焼けしたたくましい男性の姿が目に入った。彼はウェットスーツ姿で、酸素ボンベのような機材を両手に抱え、海のほうへと運んでいるところだった。
「最後に! 海への入り方! 今日は岸から海に入る『ビーチエントリー』になります。全部背負って、岸のギリギリに立ったら、あとは大きな一歩で海へ入ります。踏み出して飛び込む感じね。海に入ったらスーツの浮力でプカプカ浮いてくるから、そしたら少し泳いで、水面で待機してもらいます。」
瑞稀は立ち上がり、ジェスチャーをしながら、これからの動きを教えてくれた。
「一番最初に私が行くね。みんなはその後から続いて。入る時のサポートは、藤田さんがガッチリ支えてくれるから大丈夫!」
そう言うと、瑞稀はふと少しだけ間を置いた。言い忘れたことがないか確かめるように空を見上げ、それから三人へ視線を戻す。
「……あ、みんな泳げるんだっけ? まあ、泳げなくても大丈夫だけどね。水面で落ち着いて浮いていられれば、ダイビングは全然問題ないから!」
凪は、自分の耳を疑った。
(えっ……泳げなくても、いい?)
目の前のプロダイバーが、あっさりとそう言って笑っている。
その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、凪の脳裏に玲の顔がふっと浮かんだ。泳げないことは、越えられない線だと思っていた。けれど今、その線がそっと消えた気がした。かすかな光が差し込む。たとえカナヅチでも、この世界に足を踏み入れられるのかもしれない——。
詳しく聞きたい。今すぐ確かめたい。けれど、もう出発の時間だ。高鳴る鼓動を押さえ込みながら、凪は開きかけた口をそっと閉じた。その問いは、胸の奥に大切にしまっておくことにした。
「長い説明はこれくらいにして、早速海に行こうか! 準備はいい?! 何か質問ある人?!」
「……大丈夫です!」
みどりと美央の元気な声に押されるように、凪も小さく頷いた。
瑞稀を先頭に、三人はプールサイドを離れ、海へと続くコンクリートの道を歩き始めた。
防波堤の影を抜けると、道はゆるやかな階段へと続いていた。その先には、遮るもののない海が、思いのほか静かに広がっている。
一段下りるごとに、波が岩を噛む音が少しずつ大きくなる。
一段下りるごとに、潮の香りが濃くなり鼻の奥まで満ちていく。
階段を下りきると、波打ち際まではもうほんの数メートルだった。あと一歩、踏み出せば海に触れられる距離。
三人は思わず身を乗り出すようにして、その先をのぞき込む。
そこに広がっていたのは、これまで知っていた「海」という言葉では足りない存在だった。息づくような猛々しい生命力をたたえ、どこまでも澄みきり、それでいて底知れない深い紺碧を抱えた、巨大なひとつの塊。陽光を受けてきらめきながら、静かに、しかし確かにうねっている。それは風景というより、意志を持った何かのようにも見えた。
凪は小さく息をのむ。胸の奥が、期待と畏れで同時に震えていた。




