海へようこそ 4
コンクリートの階段を下りきった先、波打ち際のすぐ手前には、まるで出撃を待つ重装甲の兵士のように、三つのダイビング機材が整然と並べられていた。
そこには、藤田さんが事前にすべてをセッティングしてくれた「重器材」と呼ばれる一式が、鈍い光沢を放ちながら鎮座している。瑞稀は、機材の最終チェックを終えたばかりの藤田さんに「ありがとうございます!」と短く御礼を言うと、振り返って三人を手招きした。
「みんなー!こっち。どれでもいいよ、自分の相棒の前に立って!」
促されるまま、三人はおのおの機材の前に立った。凪の目の前にあるのは、複雑な太いホースが絡み合い、背後にはコンクリートよりも無機質なねずみ色のボンベがそびえ立つ、未知の装置だ。
「これを背負って海に入ります。中に空気が入ると浮き袋みたいになって、水中で姿勢をコントロールできるの。今日は体験ダイビングだから、操作は私たちがやるね。このボタン類は、あまり触らないようにしておいて」
BCD――浮力調整具の説明をひととおり受けると、今度はレギュレーターから実際に空気を吸ってみるよう促された。
教えられた通りにマウスピースをくわえ、そっと息を吸い込む。
「わぁ!」
美央が目を輝かせ、思わず声を漏らす。
「すごいね」
凪も思わずうなずいた。陸で呼吸するときよりも、空気のほうから肺へ滑り込んでくるような感覚がある。吸うというより、送り込まれてくるような、不思議で新鮮な体験だった。
「初ボンベ、おめでとう!」
瑞稀がくすりと笑いながら、そう祝福してくれた。
「よし。それじゃあ、まずはブーツを履いて。その上からフィンをつけるよ。グローブも忘れずにね」
言われた通り、凪は底の厚い専用ブーツに足を滑り込ませた。足首までしっかり包まれる感覚が、少し心強い。続いて、大きな水かきのようなフィンを装着する。陸の上では到底“歩くためのもの”には見えない、不格好な足。装着した瞬間、美央が声を上げた。
「あはは! 見て、ペンギンみたいだよ、私たち!」
嬉しさを隠しきれない様子で、その場で小さく足踏みしてみせる。説明のときから高まり続けていた興奮は、いまや頂点に達しているようだった。
さらにグローブをはめると、顔以外の肌はすべてスーツに覆われる。自分の体が、少しずつ“陸の人間”から離れていくような感覚があった。
「OK。じゃあ、次はマスクをしようか。」
瑞稀の声が、いよいよ海の世界への入り口を指し示した。
説明のときに受け取ったマスクへ、瑞稀が丁寧に曇り止めを塗り広げてくれる。
「そのまま顔につけてね」
淡々とした声とは裏腹に、海へ入る準備は着実に進んでいく。
マスクを装着すると、シリコンが肌にぴたりと吸いついた。視界は黒いフレームの内側に切り取られ、世界が急に狭くなる。鼻まで覆われたことで、否応なく「口だけで呼吸しろ」と命じられているような感覚に襲われた。
凪の心臓が、じわじわと存在を主張し始める。
プールサイドで試しておいてよかった、と一瞬思う。視界の制限と呼吸の不自由さ。その閉塞感は、何も知らなければ一気に恐怖へと傾いていたかもしれない。鼓動がうるさい。隣のみどりや美央にまで聞こえてしまうのではないかと思うほどだ。
それでも、もう立ち止まることはできない。
抗う間もなく、青春を求めた冒険は静かに、確実に動き出していた。
「じゃあ、順番にボンベを背負ってもらうよ。重いからね、しっかり踏ん張って!」
瑞稀が、凪の背中に機材を担がせていく。
「……っ!?」
その瞬間、膝ががくりと揺れた。
重い。想像していたより、はるかに重い。
これまで背負ってきたどんな通学カバンやテニスバッグとも比べものにならない。数十キロはあるであろう鉄の塊が、遠慮なく肩に食い込み、腰を押し下げる。陸の上に立つダイバーは、優雅に泳ぐ魚というより、重い殻を背負って歩くヤドカリのようだった。
藤田さんも手を貸してくれ、手際よく全員の装備が整えられていく。ストラップの締め具合を確認し、器材の最終チェックが終わるころには、出発の準備はすっかり整っていた。
機材の前に並んだ順で、美央、みどり、そして最後が凪。
その順番で海へと飛び込むことになる。
すでにプロのダイバーの顔つきに戻った瑞稀が、三人へ最後のレクチャーを行った。
「いい? 飛び込む時は、レギュレーターとマスクを右手でしっかり押さえてね。外れないように。左手は頭の後ろでマスクのストラップを抑えてね。そして……前を見たまま、大きく一歩踏み出して、片足で着水する感じ。こう!」
説明を終えると、瑞稀はコンクリートの縁へと歩み出た。
彼女は迷うことなく、右足を大きく前へ踏み出す「ジャイアントストライドエントリー」を見せた。
空中で大きく足を開いたまま、重力に身を委ねる。
その姿は一瞬、時間が止まったかのように凛として見えた。
『ドッパーン!!』
盛大な水飛沫が上がり、始まりの合図のような、重厚な飛び込み音が耳をくすぐった。数秒後、瑞稀は水面にひょっこりと顔を出し、レギュレーターを外して「おいでー!」と笑顔で手を振った。
「よし、まずは美央だね」
マスク越しでくぐもった声のみどりが、鼻にかかったような声でエールを送る。
「いってくる!」
美央は振り返って凪とみどりににっと笑いかけると、瑞稀と同じようにコンクリートの縁へ立った。藤田さんに足の位置を軽く直してもらい、姿勢を整える。
そして、ためらいもなく——空へ踏み出した。
『ザブンッ!』
大きな水音が弾ける。しばらくして水面に顔を出した美央は、すぐに瑞稀のほうへ向かって力強くバタ足を始めた。その背中からは、「楽しい!」という声が気泡になってあふれているかのようだった。
「次は私ね。凪、先行くね」
藤田さんがタイミングを合図する。みどりは一度だけ小さくうなずき、落ち着いた動作で縁に立った。
踏み出す瞬間までぶれがない。彼女のエントリーは驚くほど正確で、瑞稀の動きをそのままなぞったかのようだった。理知的で運動神経のいい彼女らしい、無駄のない完璧な入水だった。
そして、凪の番が来た。
藤田さんに手にしていたレギュレーターを一度渡すよう促される。ホースが右肩の上を自然に回る位置に整えられ、再び手渡された。背中のボンベの位置も微調整される。
「こっちまで来てね」
導かれるまま、出発位置まで進む。すると目の前でBCDの赤いボタンを押された。「シューッ」と音を立てて、ジャケットが膨らんでいく。肩が持ち上がるような感覚で、空気を入れらたことが分かった。「レギュレーター咥えて」と言われ、凪は言われるままにレギュレーターを口に装着する。
先に飛び込んだ二人と同じ場所に立つ。
足元のコンクリートのすぐ先には、美しく、深く、揺らめく青が広がっている。
あと一歩。踏み出せば、そこはもう陸の常識が通じない世界だ。
胸の鼓動が一気に高まる。緊張は頂点に達していた。その様子を、藤田さんがすぐ横で静かに見守っている。
「大丈夫。一歩踏み出すだけだ」
その言葉が、重くもやさしく背中を押す。
(……よし。)
二人とも先に進んだ。覚悟は、決まっている。
凪はレギュレーターを強くくわえ直した。ゴムの弾力が歯に伝わり、乾いた圧縮空気の味が口の中に広がる。
右手でマスクを押さえる。
視線はまっすぐ前へ。
そして——
凪は、自分の意志で右足を踏み出した。
一瞬、体が宙に浮く。
背負ったボンベの重さに身を任せ、意を決して海に飛び込んだ瞬間、これまでの人生で一度も経験したことのない衝撃が凪を包んだ。
『ドボォン!!』
足の裏に、強い水の抵抗がぶつかった。同時に、体は思った以上の速さで下へと沈んでいく。
プールで飛び込んだときのように、すぐ水面が受け止めてくれる軽さはない。背中の重い機材が、そのまま凪を深みへと引き込んでいく。
水が、全身を包み込む。髪の先から、頭の奥の意識の芯まで、冷たく濃い海に浸されていく感覚。
世界が一瞬、止まったように感じた。
視界は、ただ青。
透き通った青の中を、吐き出した泡が無数の光の粒となって舞い上がる。きらめきながら、遠い水面へと吸い寄せられていく。
飛び込んだ直後の轟音は、すぐに遠のいた。残ったのは、くぐもった静けさだけ。
音も、重さも、時間さえも、水の中に溶けていく。
(……長い。まだ、浮かないの?)
体が覚えているはずの浮上のタイミングは、とっくに過ぎている気がした。それでも、しばらくしてようやく浮力が働き、体がゆっくりと押し上げられていく。
水面を破って顔を出した瞬間、凪の視界に飛び込んできたのは、どこまでも広がる海と、切り取ったような青空だけだった。視点が極端に低くなったせいで、さきほどまで見えていた陸の景色はすべて消えている。
世界には、自分と、水と、空しか存在しない——そんな錯覚に陥った。胸の奥に、かすかな焦りが波のように押し寄せる。
「こっちよー!」
静まり返った海の上に、聞き慣れた瑞稀の明るい声が響いた。顔を向けると、数メートル先で瑞稀がゆったりと手を振っている。そのそばには、美央とみどりも水面に顔を出し、凪を待っていた。
凪は反射的に体をそちらへ向け、水を蹴って進み始める。けれど背中のボンベは想像以上に重く、波にも揺られて、思うように直進できない。体が左右にぶれ、そのたびに水しぶきが跳ねた。
レギュレーター越しに、大きく、深く息を吐く。白い泡が視界の端を流れていった。
しばらくして、ようやく三人のもとへたどり着く。顔を見た瞬間、不思議と胸を締めつけていた恐怖は消えていた。
美央は、マスク越しでも分かるほどの満面の笑みを浮かべている。凪も笑い返そうとするが、口にくわえたレギュレーターは、今はただ呼吸を保つための装置だ。表情をつくる余裕はない。必死に息を吸い、吐く。みどりは落ち着いた様子で周囲を見渡している。
やがて凪の後を追って藤田さんも水面に現れ、全員がそろった。
瑞稀が声を張り、いよいよ潜水の合図を出した。
「はい! では、潜ります。入った順に連れていくからね。耳抜きしながらね。潜ったら、岩場に捕まってその場で待機。OK?」
瑞稀がそう言うと、教えられた通り、三人は一斉にOKのサインを送った。
まず、美央と瑞稀が水面から静かに消えていった。
気泡が数粒、シュワシュワと水面に弾ける。すかさず、後方に控えていた藤田さんがみどりに声をかける。
「じゃあ、安宅さん行きますよ。OKですか?」
みどりが力強くOKサインを掲げると、彼女もまた「ちゃぷん」と、吸い込まれるように水の中に消えていった。
残されたのは、凪ひとり。
水面に身を任せ、ゆらゆらと揺れながら、瑞稀が戻ってくるのを待つ。そのあいだ、凪の耳はいやというほど「音」に満たされていた。
絶え間なく打ち寄せる波の音。
水面をかすめていく風の低いうなり。
遠くから届くウミネコの鳴き声。
そして、ときおり波が持ち上がり、耳の位置を越えた瞬間——鼓膜を分厚く包み込むような、重くこもった響きが訪れる。外界から切り離されたような、海そのものの鼓動。
凪は、ふと興味に引かれるまま水中をのぞき込んだ。
そこには、まるで別の世界が広がっている。美央はすでに海底近くの岩場にたどり着き、小さな蟹のように岩をしっかりとつかんでいた。みどりはその少し上で、藤田さんに導かれながら、スローモーションのようにゆっくりと沈んでいく。
その様子を見つめていると、瑞稀がまっすぐこちらへ浮上してきた。下にいる美央と見比べると、近づくにつれて瑞稀の姿がぐんと大きくなり、思っていた以上に深い場所まで潜っていたのだと実感する。
「お待たせー。っぷ。……大丈夫?」
水面に顔を出した瑞稀が、軽く息をつきながら声をかける。凪は言葉の代わりに、こくこくと大きくうなずいた。
瑞稀はやわらかく微笑み、OKサインを見せる。そして凪の肩にそっと手を添えた。
次の瞬間。
凪の体は、するりと水中へ導かれた。思っていたよりもずっと滑らかで、速い。
さっきまで耳を満たしていた風の音も、波のざわめきも、鳥の声も——すべてがすっと消える。
世界は、水の中の静けさへと切り替わった。
(……静かだ。)
耳抜き、OK?
瑞稀からのハンドサイン。凪は思い出しながら、鼻を摘んで「んっ」と力を入れる。
「ぶちぶち……パキッ」
耳の奥で、管が無理やり押し広げられるような音が響く。自分の体内の音が、これほどまでに巨大な反響を持って聞こえることに、凪は少しだけ恐怖を感じた。けれど、耳抜きをするたびに、海の重圧がすっと消えていく。
瑞稀は、凪の体をゆっくりと沈めていった。本当に、驚くほどゆっくりと。
やがて膝が、ゴツリと岩に触れる。気づけばすぐ隣に、美央とみどりが並んでいた。
ふと美央と目が合う。
彼女はまるで、もうこの世界に慣れたかのような顔で、力いっぱいOKサインを送ってきた。
その姿を見た瞬間——
胸の奥に残っていた不安が、ぱっと弾ける。代わりに、熱を帯びた高揚感が全身へと広がっていく。
(すごい……本当に潜ってる。私、海の中にいるんだ!)
胸の奥で弾む鼓動に促されるように、凪はゆっくりと視線を巡らせた。
そこには、果てのない青が広がっている。近くは淡く、遠くへいくほど深く濃く沈んでいく、幾重にも重なる青。
光はやわらかく揺れ、すべてが静かに溶け合っている。
写真で見たことのある景色のはずなのに、まるで別のものだった。平面の向こう側では決して伝わらなかった、広がりと深さと、体ごと包まれる感覚。
凪の胸に、言葉にならない感動が静かに満ちていく。
そのとき、視界に瑞稀の姿が入った。
彼女は水中で静かに漂いながら、三人それぞれの顔を順にのぞき込み、目を合わせていく。全員が落ち着いていることを確かめると、腰に下げていたマグネット式のボードを取り出し、迷いのない手つきで文字を書き始めた。
やがて掲げられたボードには、はっきりとした字でこう記されていた。
『海へようこそ!』
その言葉を目にした瞬間、胸の奥がぱっと開く。
——歓迎されている。
この広大で、青く澄んだ世界に、自分は今、確かに足を踏み入れたのだ。
こみ上げる喜びに、呼吸がわずかに速くなる。
レギュレーター越しに吸い込む空気が、やけに鮮明に感じられた。肺が大きく膨らみ、生きているという実感が、吐き出した泡とともにゆっくりと頭上へ昇っていく。美央は瑞稀に向かって大きく手を振り、さきほどまで落ち着いて見えていたみどりも、両手をこれでもかと高く掲げている。マスク越しでも、その楽しさがはっきりと伝わってきた。
瑞稀はすかさず水中カメラを取り出し、三人をフレームに収める。
ゆっくりとレンズがこちらへ向けられた。その瞬間、凪も反射的に両手を上げていた。
金沢の街中では、気恥ずかしさが先に立ち、まず選ばなかったポーズ。カメラを向けられるたびに「無難」でいることを優先してきた自分は、もうそこにはいなかった。
レンズの向こうへ向けて、不格好で、少し照れくさくて、それでも抑えきれない高揚をそのまま乗せたダブルピース。
『パシャリ。』
水の中で、かすかな振動が全身を走る。それは、凪が自分の殻をひとつ破った瞬間の記録だった。
瑞稀は満足そうにカメラをしまうと、再びボードを取り出し、『ゆっくりついてきて』と書き込む。そして、ひらりとフィンを動かし、先導するように泳ぎ始めた。
凪たちは、そっと岩から手を離した。
次の瞬間、体はふわりと宙に浮く。これまで味わったことのない、重力から解き放たれる魔法のような感覚。背中の重さも、不安も、すべてが青い海の中に溶けていくようだった。
(行こう。もっと奥へ。)
凪は、ゆっくりとフィンを動かす。小さな一蹴り。それでも、そこには確かな意志があった。
水の中で踏み出したその一歩は、陸の上のどんな一歩とも違う。日常を遥かに超えた——それは、凪にとって本当の冒険の始まりだった。




