海へようこそ 5
瑞稀のフィンの動きに合わせて、凪も懸命に水を蹴る。陸ではあれほど重たかったボンベが、いまは不思議なくらい気にならない。背中にすっとなじみ、まるで体の一部になったみたいだ。
吸えば、空気が入ってくる。乾いた、少し無機質な味のする空気。それでも確かに、途切れることなく肺を満たしてくれる。
(……あ、普通に息してる。)
その当たり前のことに、ふいに胸を打たれる。
レギュレーター越しの呼吸は、どこか機械的なのに、ちゃんと温かい。数メートルの水の下にいるはずなのに、苦しさはない。むしろ、陸にいるときよりもゆっくり、深く、静かに息をしている自分がいる。
海の中にいる。その実感が、首筋をかすめる冷たい水と一緒に、じんわりと心に広がっていく。そして気づけば、海の中は思っていたよりもやわらかかった。ウェットスーツの内側に入り込んだ水が体温であたためられ、まるで暖かい毛布に包まれているようだ。水の中なのに、どこか穏やかで、安心感すらあった。
瑞稀は、まるで重力を忘れてしまったかのように、中層を滑るように進んでいく。フィンをひらり、ひらりと動かすたびに、体は静かに前へと伸びていく。ときおり振り返り、三人の顔を確かめるその眼差しには、どこか穏やかな温かさが宿っていた。その落ち着いた様子に、凪の胸に張り付いていた緊張も、少しずつ解けていく。
(私も、あんなふうに泳げるようになるのかな)
空を飛ぶように自由な彼女。そう思った瞬間、腰に巻いたウエイトベルトの存在を強く意識させられた。いま自分がこの深さにいられるのは、この重さのおかげなのだと、あらためて気づく。瑞稀とは対照的に、凪の動きは重い身体を引きずって、水底を這っているようだった。
少しずつ体を動かしていくうちに、頭を包んでいた霧が晴れるように、視界がゆっくりと澄み渡っていく。ただの「青」でしかなかった世界に、ひとつ、またひとつと確かな形が宿りはじめた。
岩陰からは、大きな瞳のメバルが好奇心に満ちた視線をこちらへ投げかけてくる。そのすぐ傍らには、岩の肌に溶け込むようにして、カサゴが静かに息を潜めていた。そこへ、鮮やかな縞模様を纏ったベラやキュウセンが、絹の尾びれをひらめかせながら、光の尾を引くように横切っていく。
色がある。光がある。静寂に満ちたこの海の中で、たしかな命が脈打っている。
「……きれい」
思わず零れた独り言は、銀色の泡となって、やわらかな水の中に溶けていった。
見渡せば、海底には燃えるような朱色のサンゴが点々と花を咲かせ、その間を深い翡翠色の海藻がゆったりと揺らしている。寄せては返す水の律動に身を任せ、右へ、左へ。
それはまるで、音のない調べに合わせて、海そのものが優しく踊っているかのようだった。
これまで写真で見てきた「海の中」は、どこか遠くの世界の景色だった。ガラス越しに眺めるような、手の届かない場所。手が届かないと思っていた場所。
けれど今、凪たちがいるのは、そのまっただ中だ。
ここは作りものではない。確かに息づいている、本物の海の世界だった。
凪は、ふと、仲間の様子が気になった。首を左右に振り、美央とみどりの姿を探す。二人は、驚くほど真面目な顔をして、瑞稀の後ろをぴったりとついて進んでいた。その姿は、まるでカルガモの親子の行進のようで、凪はレギュレーターを噛んだまま少しだけ口角を上げた。
すると、みどりが、不意にこちらを振り返った。マスク越しに目が合う。みどりは水中のスピードで小さく手を振った。凪も、ゆっくりと手を振り返す。いつもなら「ねえ、見て! あの魚すごいよ!」とか「海藻が綺麗だね!」とか、思ったことや感じたことをすぐにでもぶつけ合えるのに、今はそれができない。唇を動かせば海水が入ってくる。言葉を発しようとすれば、命の綱であるレギュレーターが外れてしまう。
伝えたい。この胸の高鳴りを、この青さの衝撃を、今すぐに共有したい。そのヤキモキとした歯痒さが、凪の胸を熱くさせた。言葉を持たない世界でのコミュニケーションは、もどかしくも、相手の瞳の輝きだけで全てを察し合う、不思議な親密さに満ちていた。
やがて、瑞稀がすうっと高度を下げ、フィンの先だけを海底の岩場に着底した。彼女は何かを探しているのか、平らな岩を見つけては、両手で「よっこらしょ」という擬音が聞こえてきそうなほど豪快にひっくり返し始めた。一つ、また一つ。めくっては中を覗き込み、何もないと分かると、静かに岩を元の場所へ戻していく。
凪、美央、みどりの三人は、その様子を固唾を飲んで見守った。
(何をしてるんだろう。)
瑞稀の動きには迷いがなかった。五個目くらいの、少し小ぶりな岩をめくった瞬間だった。
瑞稀の体が、目に見えて弾んだ。
「っ!」
声は聞こえないが、彼女が心の中で叫んだのが分かった。瑞稀は凄い勢いで顔を上げ、三人を激しく手招きする。その手招きの速さに、凪たちは慌てて岩の周りに集まった。
瑞稀が指差す先。
しかし、そこには何もないように見えた。ただの岩肌と、小さな苔のような付着物があるだけだ。
凪は目を凝らすも、やっぱり何か分からない。美央もみどりも、お互いの体がぶつかるくらいに近づいて、岩を覗き込む。
瑞稀は水中ライトのスイッチを入れ、鋭い白い光が、その一点を照らし出す。
そこにいたのは、親指の先ほどの小さな、小さな、まんまるの魚だった。
それは周囲の岩の色に完璧に擬態しており、ライトの光がなければ絶対に気づかなかっただろう。魚とは到底思えない、小さくか弱いフォルムは、よく見ると、小さなヒレをパタパタと動かし、吸盤のような腹びれで岩に必死にしがみついている。岩と顔の距離が少し離れただけで、それはもう少し出っ張った岩の一部にしか見えなくなる。
(……え、これ?)
凪が首を傾げていると、後ろから藤田さんが猛烈な勢いで近寄ってきた。彼はいつもどっしりと構えているベテランダイバーだが、今は少年のように拳を握りしめ、興奮を全身から放出している。彼はのめり込むような姿勢でカメラを構え、その小さな魚を何枚も、何枚も、執念深く撮影し始めた。
少し後ろに離れていた瑞稀がボードにペンを走らせ、三人の目の前に突き出した。
『ダンゴウオ。超レア!!!』
そこには、これでもかというほど大きなびっくりマークが三つも添えられていた。
瑞稀の目は、マスク越しでも分かるほどに血走っており、この小さな生き物に出会えた奇跡を全身で祝っているようだった。
「……ふーん。」
凪は、心の底でそう呟いてしまった。
確かに、よく見れば可愛らしい。お団子のようなフォルムに、つぶらな瞳。けれど、瑞稀と藤田さんの、あの「天変地異でも起きたかのような」熱狂ぶりには、正直ついていけなかった。目の前の「少年と少女」は、水中でハイタッチをしてしまうくらいに、とても喜んでいた。
音の届かない静寂の世界。それなのに、二人の熱量が肌にビリビリと伝わってくる。プロや愛好家にとっての「至宝」と、初心者である自分たちの「ただの小さな魚」という認識の差。
凪は、その温度差が可笑しくて、不思議な気持ちになった。
瑞稀はしばらくその場所で悶絶するように喜びを表現していたが、やがて満足したのか、名残惜しそうに岩をそっと戻した。彼女は再び、海底から重力に抗うように、静かに宙へと浮かび上がる。
瑞稀のフィンの動きに合わせて、また冒険が再開される。
凪は、先ほど見つけた小さな「ダンゴウオ」の残像を頭の隅に追いやりながら、また瑞稀の背中を追って泳ぎ始めた。
あの小さな魚一匹で、大の大人があんなに子供のように喜ぶ。海には、まだ自分の知らない「価値」が、無限に転がっているのかもしれない。
海底の静寂の中、瑞稀のフィンの動きに合わせて無重力の散歩を続けていたときだった。
凪のすぐ横にいたみどりが、ビタッと動きを止めた。じっと、何かを凝視するように首を伸ばしている。
先ほどまでダンゴウオの小ささに悶絶していた瑞稀も、彫像のように宙でその動きをピタっと止めた。そして、何かを射抜くような鋭い視線とともに、おえかきボードを取り出そうとしていた。
そして美央が近くにやってきて、興奮した様子で同じ方向を指さす。
その方向に目を向けた瞬間、凪の呼吸が止まった。
少し離れた中層。そこには、何百、何千というアジの群れが、一つの巨大な生き物のようにうねりながら漂っていた。
太陽の光が水中で複雑に屈折し、彼らの鱗に当たっては、銀色の光をスパンコールのように乱反射させている。それは、陸上のどんな宝石箱をひっくり返したよりも眩しく、そして儚かった。群れが右へ、左へと方向を変えるたびに、銀色のカーテンが翻るような「バサッ」という幻聴さえ聞こえてきそうだった。
こういう景色があることは、頭では知っていた。写真でも、映像でも、いつか見たはずの景色だった。けれど、それを自分の目で見るということは、まるで別の出来事だった。
なんという圧倒的な、生命の力強さ。青く満ちた水の中で、すべてが静かに、しかし確かに息づいていた。ここでは彼らが主役であり、この青い宇宙を当然のように満たしている。
それは、ひとつの世界だった。同じ地球を生きる生命の営みを、ただ目の前に差し出されているような光景。きっと、この瞬間の景色は、二度と同じ形では現れない。水の揺らぎも、光の反射も、魚たちの動きも。すべてが、この一瞬だけのものだ。
凪は、青と銀にきらめくその景色を、ただ呆然と見つめていた。胸の奥が、静かに熱を帯びていく。言葉にならない感動が、ゆっくりと体の奥へと広がっていく。
(……。)
まばたきも忘れていたころ、瑞稀がゆっくりとこちらを振り返った。そして、グーにした手の親指を、海面方向に向けて突き出した。
ダイビング終了の合図だ。
「……あぁ。」
レギュレーターを咥えたまま、凪は心の底で嘆息した。
この夢のような世界から去らなければならない。
瑞稀のリードに従って、ゆっくりと深度を上げていく。自分の吐いた気泡が、自分たちよりもずっと速いスピードで水面へと駆け上がっていく。それはまるで、魔法が解ける時間を知らせる砂時計の砂のようであり、自分たちを現実の世界へと無理やり引き連れていく導火線のようでもあった。
頭頂部が水面を突き抜けた瞬間、凪の聴覚を、陸の世界が暴力的なほどの勢いで包囲した。
「バシャッ、ザザーン……」
吹き抜ける風の音、遠くで鳴く海鳥の声、波が岩を打つ不規則なリズム。
さっきまであんなに重厚だった「青の静寂」は、一瞬にして砕け散った。
水面に顔を出した瑞稀が、レギュレーターを外して大きく息を吐く。
「お疲れさま! 最高の海だったね!」
瑞稀の指示に従い、凪は陸へと上がる梯子に手をかけた。海の中でフィンを外してもらい、足をゆっくりと下ろす。つま先が海底を捉え、体を持ち上げようとした、その瞬間だった。
――重い。
思わず息が詰まる。
水の中では、あれほど自然に体の一部になっていたボンベが、今は容赦なく重力に従っている。肩と腰にずしりとのしかかり、凪の体を地面へ押しつけようとしていた。
凪はぎこちなく一歩を踏み出す。足が脚立のような梯子を探り、体を持ち上げる。だが次の瞬間、波が押し寄せ、足元をさらった。
ぐらりと体が揺れる。 さらに力強い波が打ち寄せ、凪の体を再び海へ引き戻そうとする。背中のボンベが重力に引かれ、体のバランスが崩れかける。
もしここで転べば――。ごつごつとした岩場が視界の端に映った。
ただでは済まない。そんな予感が脳裏をよぎり、胸の奥にひやりとした恐怖が広がる。
凪は息を整え、梯子を握る手に力を込めた。
装備がきしむ。レギュレーターから漏れた泡が、ぼこり、と鈍い音を立てて水面へ浮かんでいく。
一歩。また一歩。
体を引きずるようにして、凪はゆっくりと海際から陸へと進んでいく。
けれど、不思議なことに――その重みさえも、今はどこか愛おしかった。
肩に食い込むハーネスの感触も。背中にのしかかるボンベの重さも。波に揺さぶられる不安定な足取りも。
そのすべてが、確かな証のように感じられた。
本当に、自分は海に潜ったのだ。
よろよろと歩きながら、凪たちはプールサイドへ向かう。
ほんのわずかな距離のはずなのに、その道のりはやけに長く感じられた。
そして、その一歩一歩のあいだに、海の光景が、ゆっくりと胸の奥に蘇ってくる。
青い水の広がり。
銀色の魚の群れ。
光に揺れる海の底。
あの世界が、本当にそこにあったという事実が、遅れて体の奥へ染み込んでくる。それは、まるで遅効性の毒のようでもあり、あるいは、極上の美酒のようでもあった。
凪は思わず立ち止まり、海を振り返る。胸の奥で、言葉にならない熱が静かに広がっていった。
終わってしまったというあっという間な感覚。
けれど、脳裏にはまだ、あの輝きが焼き付いて離れない。
見たこともない景色、そして、圧倒的な非日常への冒険。
凪はまだ、半分は水の中に心を残したまま、夢心地でプールサイドのベンチに辿り着いた。
機材を下ろし、ウェットスーツの背中のチャックを開けたとき、背後から感情が決壊したような声が響いた。
「やばい……っ!」
振り向くと、美央が興奮で顔を真っ赤にし、頂点に達した熱量を抑えきれない様子で声を漏らしていた。
「なんか、もう、うまく言えないけど……とにかくすごかった! 私、生きててよかったって本気で思った!」
美央の言葉に、いつもは冷静なみどりが、食い気味に呼応した。
「わかる!あんなに青いんだね、海の中って。外から見てるのと、全然違う。別の惑星に来たみたいだった!」
二人の会話に、凪もたまらず割り込んだ。心の中に溜まっていた言葉が、一気に溢れ出す。
「最後の魚の群れ、めっちゃきれいじゃなかった? あれ、現実なのかなって疑っちゃったよ!」
「やばかった! 光ってたよね! 鏡が何枚も浮いてるみたいで、万華鏡の中に入ったみたいだった!」
美央が手を振り回して、あの時の光景を必死に再現しようとする。
「ダンゴウオもかわいかったね!見てたらだんだん愛着湧いてきちゃった!」
みどりが笑いながら言うと、美央も「そうそう! すごい小さかったよね! よく見つけたよね、あんなの!」とはしゃいだ。
三人の会話は止まらなかった。
さっきまで水中で、目と目、手と手だけで必死に伝え合おうとしていた「もどかしさ」が、言葉という翼を得て、弾丸のように飛び交う。
「あんなに近くにお魚がいるなんて思わなかった……」
「耳抜き、最初は怖かったけど、できたらスッて沈んでいくの、気持ちよかったよね」
「瑞稀さん、かっこよすぎやろ。水の中だと人魚みたいだったわ」
三人が交互に、あるいは重なり合いながら喋り続けるのを、瑞稀は少し離れたところで、機材を片付けながら満足げに眺めていた。彼女の細い目が、慈しむように三人の笑顔をなぞっている。
凪は、火照った頬を撫でていく潮風を感じながら、ふと、昨日までの自分を思い出した。
どこかへ「冒険」に出たいと、理由もなく胸の奥でくすぶっていた自分。
何かを探すように、「青春」という言葉に手を伸ばしていた自分。
けれど今、凪の肌には北陸の海の塩が確かに残っている。そして肺は、本物の海の底で圧縮された空気を吸い込んだ記憶を、はっきりと刻んでいた。
この経験を、いったい誰に一番伝えたいのか。
答えは、最初から決まっていた。
美央やみどりとこうして盛り上がっている、この瞬間でさえ、凪の心の中心には、玲の姿があった。
「……玲にも見せたかったな」
ポツリと、誰にも聞こえない声で凪が呟いた。
けれど、その言葉はもう、悲しみだけの色ではなかった。
この感動を知ってしまった自分なら、きっといつか、玲をこの青い世界に連れてこられる。そんな根拠のない、けれど強い確信が、今の凪にはあった。
「凪ちゃん? 何か言った?」
美央が、屈託のない笑顔で覗き込んできた。
「ううん、なんでもない。……ねぇ、また行きたいね!」
「大賛成! 次はもっと深いところまで行きたい!」
プールサイドに響き渡る女子高生たちの声は、打ち寄せる波の音に負けないくらい力強く、そしてどこまでも突き抜けるように明るかった。
太陽は真上にあり、海面をますます眩しく照らしている。
凪たちの「冒険」は、まだ始まったばかりだった。




