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さわせん(金沢栄高校潜水部)  作者: うきわまん


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18/40

塩素の海

 *


 土曜日の朝。いつもなら、部屋の隅で大好きなファンタジー小説のページをめくっているか、リビングで流行りの映画やドラマを見ようとテレビのスイッチを入れに行くはずの時間。

 玲は、自室の姿鏡の前に立ち尽くしていた。


 鏡の中に映っているのは、どこか落ち着かない表情をした自分自身だ。

 そもそも、学校以外の場所へ行くための服なんて、数えるほどしか持っていない。クローゼットの奥から引っ張り出してきたのは、できるだけ街の景色に溶け込み、誰の視線も惹きつけないような、黒と茶色でまとめた地味なコーディネートだった。


(これでいい……。目立たないのが一番。)


 スカートなんて選択肢は最初からない。動きやすさと防御力を重視したパンツスタイル。仕上げに、顔の半分を隠すように深いツバの帽子を被る。鏡の中の自分は、まるでお忍びで歩く何かの調査員のようで、玲は小さく「よし」と自分に言い聞かせた。

 

 部屋を出てリビングの前を通ると、母親が土曜日のワイドショーをぼんやりと眺めていた。


「お母さん、ちょっと出かけてくる」


 玲が背後から声をかけると、母親は画面から視線を外し、玲のほうへ振り返った。


「あら、珍しいね。どこまで行くが?」

「……金沢駅のほう」

「凪ちゃんと?」


 その確認に、心をちくりと刺された。だが想定していた質問だったため、玲は「うーん」と曖昧に返してやり過ごした。

 

「そう。気をつけてね。」


 母親はひらりと手を一度上げただけで、すぐにまたテレビの話題へと関心を戻した。玲の家のこういう「深追いをしない距離感」は、今の彼女にとっては救いだった。もし根掘り葉掘り聞かれていたら、きっと玄関を出る前に気力を使い果たしていただろう。

 家を出ると、五月の爽やかな風というにはまだ少し早い、夏のような熱気が玲を包み込んだ。金沢特有のぐずついた空模様はどこへやら。雲一つない青空から降り注ぐ太陽の光が、久しぶりに外へ出た玲の白い肌をじりじりと焼く。


(日傘……持ってくればよかったかな)


 そんな後悔が頭をよぎるが、今さら引き返す勇気はない。玲は少し俯き加減のまま、それでも目的地へ急ぐように足早に金沢駅へと向かった。

 

 駅に到着すると、土曜日ということもあり、観光客や買い物客で溢れかえっていた。今の凪ならきっと、この人混みさえも「冒険の始まり」として楽しむのかもしれない。けれど玲は、帽子のツバをさらに深く直し、逃げ込むようにして路線バスの列に並んだ。


 揺られること十数分。バスが停車したのは、磯部町にある大きなスポーツ施設の前だった。

 バスのタラップを降りると、視界に飛び込んできたのは『石川県高等学校選手権水泳競技大会』と大書された立て看板だった。


 玲の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。

 親しくなったばかりの、まだ友達と呼べるかどうかも分からない別のクラスの子。その子のために、今の自分は、自分の意志でこの場所へ向かってきた。

 しかも「水泳部」だ。

 玲にとってそれは、縁遠いどころか、水が嫌いな自分にとってのほとんど禁域のような場所だった。


(……ほんとに、来てしまった。)


 会場の前まで来ておきながら、足がわずかに止まる。

 このまま引き返すことだって、まだできる。けれど――。

 胸の奥で、もう一度、心臓が重く鳴った。


 先日、理科室で百瀬から聞いた一言。

「こ、今度の土曜日、大会があって……。それに出るつもり。」


 言い淀みながらも告げた百瀬の、あの真っ直ぐで力強い瞳が忘れられなかった。

 凪が「海」という未知の場所へ飛び込んでいったように、自分も何か、一歩だけ踏み出してみたかったのかもしれない。

 あるいは、これまでとは違う何かを、自分の中に見つけたかったのかもしれない。

 

 玲は案内表示に従い、一般観覧席への階段を上った。入り口の受付で配られていたプログラムを一枚、震える手で受け取る。通路を抜け、観覧席の重い扉を開けた瞬間――。

 独特の、鼻を突く塩素の匂い。そして、湿り気を帯びた熱気と、何百人もの熱狂が混じり合った重厚な空気が、一気に玲の肺を満たした。


『ビィー!』


 独特のレーザー音のような号砲が響き、大きな歓声がドーム状の天井に反響する。

 目の前には、眩しい照明に照らされた、青く澄んだ五十メートルプールが広がっていた。水面は激しく波立ち、選手たちの力強いストロークが白い飛沫を上げる。


 玲は、眩暈(めまい)に似た感覚を覚えながら、空いている席の端に腰を下ろした。


 手元のプログラムを開く。女子百メートル自由形。その出場者一覧の行を、目で上からなぞる。


 あった。

『第4レーン 金沢栄高校 百瀬恵子』


 その文字を目にした瞬間、玲の胸の奥で、じわじわと何かが熱を帯びていくのがわかった。

 自分は泳げない。水が怖いからだ。

 けれど、昼休みのプールで。

 あの理科室で。

 静かに、けれど熱く闘志を燃やしていた百瀬は、今、この巨大な「青」の中で、たった一人で戦おうとしている。


 自分は、この湿った空気の中で、その戦いを見届けようとしている。

 一人で戦う彼女に、ほんの少しでも寄り添っていたかった。

 

 玲は、帽子のツバを少しだけ上げた。

 水面の反射が瞳を刺すが、もう目を逸らしたくはなかった。


 自分の選んだ一番目立たない服は、この熱気の中ではあまりにも無力に見えた。けれど、手元のプログラムごと握りしめた拳には、確かな自分の意志が宿っていた。


 競技開始のアナウンスが流れる。

 玲は、肺に満ちた塩素の匂いをゆっくりと吐き出し、第4レーンのスタート台へと向かう、一人の少女の姿をじっと待ち構えた。


 観覧席の硬い椅子の上で、玲は腰掛ける位置を浅く直しながら、手元のプログラムを何度も見返していた。

 かつて金沢栄高校の水泳部は、県内でも屈指の強豪として名を馳せていたという。廊下の掲示板に埃をかぶって飾られた古い賞状や、隅に追いやられたトロフィーが、その「過去の栄光」を静かに物語っていた。

 けれど部員は減り続け、今ではその伝統という名の重圧を、あの小柄な少女一人が背負っている。その事実が、緊張感をより一層強めていく。

 

 周りを見渡せば、他校の応援席は華やかだった。学校のロゴが入った揃いのジャージを身に纏い、メガホンを叩き、巨大な横断幕を掲げて、選手の名前を叫んでいる。その騒乱のような熱気の中で、玲が座る場所だけが、ぽっかりと空白のように静かだった。

 金沢栄の応援は、地味な服で身を隠すように座っている自分、ただ一人。


 やがて、場内に選手紹介のアナウンスが響き渡った。

「第4レーン、百瀬恵子さん、金沢栄高校」


 プールサイドの奥から、百瀬が出てきた。

 学校の指定ジャージを脱ぎ、黒い競泳水着姿になった彼女は、理科室で見るよりもさらに小さく見えた。けれど、その背筋は凛と伸び、一点を見据える瞳には、孤独な戦士だけが持つ鋭い光が宿っている。


 玲は、立ち上がりたかった。身を乗り出して、彼女の名前を思い切り叫びたかった。

 けれど、喉の奥が熱く引き攣(つ)り、どうしても声が出ない。周囲の喧騒に気圧され、自分の声が場違いなものに思えて、ただ膝の上で拳を握りしめることしかできなかった。

 

(頑張って……百瀬さん、頑張って!)

 心の中で、ちぎれんばかりに祈る。その祈りが届くことを、ただ切望した。


 競技者がスタート台に足をかける。会場に静寂が訪れ、張り詰めた緊張感が水面を走った。


『ビィッ――!』


 またあの電子音が空気を切り裂き、選手たちが一斉に青い水の中へと突き刺さった。

 女子百メートル自由形。

 百瀬の腕が、力強く、そして正確に水を捉える。彼女が進むたびに、白い飛沫が彼女の背負っている「学校の歴史」を洗い流していくように見えた。五十メートルを折り返したとき、彼女はまだ集団の真ん中にいた。


「……。」


 玲は息をすることさえ忘れていた。ものの一分、あるいは一分強。それだけの時間のために、彼女はどれほど孤独に耐え、この日のためにどれほど水を掻き続けてきたのだろうか。

 最後、壁に向かって選手たちが最後のスパートをかける。百瀬も必死に腕を伸ばしたが、一番最初に壁を叩くことはできなかった。


 競技が終わり、電光掲示板にタイムが躍る。


 『1:10.48』

 

 百瀬はプールサイドに上がり、その数字を一瞥(いちべつ)した。表情は崩さない。悔しがる素振りも、安堵する様子も見せず、ただ淡々と、二階の観覧席からは見えない影の部分へと消えていった。


 それが、彼女の最初で最後の出番だった。

 その後も競技は続いていったが、準決勝、決勝のリストに彼女の名前が載ることはなかった。予選敗退。駒を進めることは、できなかったのだ。


 玲はしばらくの間、空になったプールの水面を眺めるようにボーっとしていた。水面は、次の競技者のためにすでに穏やかさを取り戻している。


(……会いに行かなきゃ)


 塩素の匂いが立ち込める会場を後にし、玲は迷路のようなスポーツ施設の裏手へと向かった。関係者以外立ち入り禁止の看板に怯(ひる)みながらも、彼女の姿を探して歩き回る。

 けれど、どこにもいない。自動販売機の前も、バス停へと続くスロープも、人影は疎(まば)らだった。


(やっぱり帰ろうかな……)


 少しだけ肩を落とし、自分もバス停に向かおうとしたときだった。建物の裏手にある、あまり人の通らない通用口から、リュックを背負った百瀬がひょっこりと現れた。


「あ。」


 玲と目が合った瞬間、百瀬は文字通り、固まった。

 まだ少し湿った髪を大雑把にひとつにまとめて、眼鏡の奥の瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれる。


「み、み、み、見に、来たの……!?」


 理科室で話したときよりもさらに動揺し、どもりながら百瀬の顔がみるみると赤く染まっていく。耳の先までリンゴのように真っ赤になり、彼女は持っていた水泳バッグの行き場を失って、胸元でぎゅっと握りしめた。


「……応援しに来てたの。すごかったね、百瀬さん」


 玲は努めて優しく、それでいて真っ直ぐに彼女の目を見て言った。

 嘘ではない。一番にはなれなかったけれど、あの大歓声の中でたった一人、スタート台に立っていた彼女の姿は、玲にとって何よりも気高く、美しく見えたのだ。

 そして、応援に来たのなら、本当は競技の前に会うべきだったのだと――。

 玲はそのことに、この瞬間になって初めて気づき、胸の奥で小さく後悔した。


「あ、あ……。」


 百瀬は言葉を失い、口をパクパクとさせていた。まさか本当に玲が来るとは思っていなかったのだろう。眼鏡のレンズが、彼女の激しい鼓動を物語るように、ほんの少し曇っていた。

 そんな彼女の動揺が、玲にはたまらなく愛おしく、そして尊く感じられた。


「一人であんなに大きな場所で、泳ぐなんて、私には想像もできない。……本当にかっこよかったよ。」


 玲の紡いだ言葉は、湿った初夏の風に溶けるようにして、百瀬のもとへ届いた。

 百瀬は顔を伏せ、真っ赤なままの頬で、小さく、けれど深く頷いた。

 その姿を見て、玲は、この場所へ来て彼女の戦いを見届けることができて、本当によかったのだと実感した。


 「とにかく、お疲れ様。百瀬さん。」


 玲の言葉に、百瀬はまだ火照りが引かない顔をさらに赤くして、消え入りそうな声で「あ、ありがとう……。」と返した。

 プールの裏手、少し湿ったようなアスファルトの上で、二人の間に形容しがたい沈黙が流れた。遠くで別の競技のアナウンスが響き、乾いた風が百瀬の髪を揺らす。


「……もう、帰り?」

 玲が問いかけると、百瀬はこくっと深く、首を縦に振った。彼女はバッグのストラップを、指先でぎゅっと握りしめている。


「一緒に帰らない?」

「うん」


 短いやり取りの後、二人はバス停へと向かった。ちょうど滑り込んできたバスに乗り込むと、一番後ろの座席に向かう。玲は窓側に座り、その隣に百瀬が並んで腰を下ろす。

 バスがゆっくりと動き出す。玲は、自分がさっきまで彼女の姿を必死に探していたことを思い返していた。会って、声をかけたいという一心だったが、いざ隣に座ってみると、何を話せばいいのか分からなくなってしまう。労いの言葉は伝えたけれど、その先が見つからない。


(私、無計画すぎるな……。)


 窓の外を流れる金沢の街並みを眺めながら、玲が焦燥感に近いものを感じていた、その時だった。


「……今日、来てくれてありがとう。本当に、うれしかった。」


 不意に、百瀬の方から静かな声が届いた。玲が驚いて隣を見ると、百瀬は膝の上で両手を揃え、自分のつま先の方を見つめていた。

 「うん」とだけ言って、玲は彼女の横顔を見つめ返す。


「今日のタイム……自己ベストだったんだ。でも、勝てるタイムじゃなかった。」


 その一言に、玲は胸が詰まる思いがした。

 『1:10.48』。あの電光掲示板に刻まれた数字が、彼女にとっての「最高」だったのだ。一人きりの水泳部として、誰からの声援も届かないあの静寂の中で、彼女は自分自身の限界を塗り替えていた。


「すごいじゃん! ベスト出したんでしょ!?」


 玲が思わず声を弾ませると、百瀬は力なく、小さく首を横に振った。

「石川県は、競合揃いで、人数も多いから……。私のタイムじゃ、上には行けない。」


 百瀬の言葉には、冷徹な現実が混じっていた。彼女はただ記念に参加していたわけではない。あの一本に、本気で勝利への渇望を込めていたのだ。その熱量を知って、玲は改めて彼女という存在に圧倒された。

 玲の目には、百瀬が戦いを終えて傷だらけで街に帰ってきた戦士のように、どうしようもなく気高く、かっこよく見えていた。


「ううん。それでも一人であの舞台に立って、挑戦して、ベストまで出したんだもん。本当にかっこいいよ、百瀬さん。」


 百瀬はあまり感情を表に出すタイプではないと思っていた。けれど、玲の言葉が染み込んだ瞬間、彼女の頬がふんわりと緩んだ。わかりやすく恥ずかしそうに、けれど隠しきれない喜びが、小さな笑顔となって零れ落ちる。


 しかし、その幸福な表情は長くは続かなかった。ふっと、百瀬の顔に濃い影が差し込む。


「……水泳部、やめるか迷ってる」

「えっ、どうして……?」


 玲の問いかけに、百瀬はもうどもることはなかった。眼鏡の奥の瞳が、どこか遠くを見つめるように透き通る。


「泳ぐのは好き。大好き。でも、競争は、あんまり好きじゃない……。タイムをコンマ一秒追いかけるのも一つの道だけど、私はもっと、自由に泳ぎたい気持ちが強い。」


 流暢に紡がれるその言葉を聞いて、玲の脳裏にお昼休み、誰もいないプールで泳いでいた彼女の姿が蘇った。あの時、水面を滑るように進んでいた彼女は、重圧からも、時計の針からも解放されて、ただ水と溶け合っていた。あの生き生きとした美しさこそが、百瀬恵子の真の姿だったのだ。


「……でも、先生に、や、やめるって、言いづらい。私がやめたら、金沢栄高校(うち)の水泳部、本当になくなっちゃうから」


 最後の一人。その言葉の重みが、彼女の小さな背中にのしかかっている。


「そっか……」

 

 玲はそれ以上、言葉を継ぐことができなかった。

 一分前まで「かっこいい」と尊敬の眼差しを向けていたその相手が、今、伝統という名の鎖に縛られて苦しんでいるように見えた。水泳部として学校の名前を背負ってスタート台に立った彼女の勇姿を知っているからこそ、玲は安易に「やめちゃいなよ」とも「頑張って続けなよ」とも言えなかった。


 バスは静かに、夕暮れ前の金沢駅へと近づいていく。

 二人の間に、今度は重たい、けれど確かな信頼の混じった沈黙が流れた。


 玲は、ポケットの中で自分のスマホの感触を確かめた。

 凪から来た最後の連絡を思い出す。既読だけ付けて返してない、親友からのメッセージ。


 玲は、隣で眠そうにうつむく百瀬の肩に、そっと触れたい衝動をこらえた。

 泳ぐ場所は違っても、凪も、百瀬も、そして自分も。

 それぞれの境界線の上で、必死に自分自身の居場所を探しているのだ。


 バスが駅前のロータリーに入り、大きく揺れた。


「ねぇ、百瀬さん」

「……なに?」

「今日、私が見た百瀬さん、すごく綺麗だったよ。でも……」


 玲はそこで言葉を切り、窓の外に広がる大きな空を見上げてから、百瀬と目を合わせた。


「百瀬さんが一番笑える場所で、泳いでほしいなって思う」


 それが、玲にできる精一杯の答えだった。

 百瀬は驚いたように玲を見つめ、それからまた、少しだけ頬を赤くして、小さく「うん……」と頷いた。

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