冒険に出る準備はいいか 1
*
海から上がり、重力という名の重圧に耐えながらようやくプールサイドに辿り着いた後、三人は思い思いの感想をぶつけあっていた。そんな中、端っこで使い終えた機材を手入れしていた瑞稀が声を張る。
「三人ともお疲れさま! それじゃ、機材はそのままでいいから。スーツ脱いで、ゆっくり着替えてきなよー。あ、シャワー浴びながら脱ぐと、スルッと脱ぎやすいからね。」
その言葉を聞いた瞬間、美央が我慢しきれないといった様子で叫び声を上げた。
「瑞稀先生! もう一回、もう一回だけやりたいです! まだ帰りたくない!」
全力で両手を振り回す美央に、瑞稀は苦笑いしながら人差し指を立ててみせる。
「残念だけど、体験ダイビングは今日はここまで。もし二回目、もっと自由に潜りたいって思うなら、もう、ライセンス取っちゃうのが一番だよ。」
「ライセンス……。」
凪はその響きを、心の中でそっと繰り返した。
ライセンス。それは単なる「免許」という無機質な言葉以上の、特別な響きを持って凪の胸に届いた。あの青い、言葉の届かない、けれど圧倒的に美しい世界へ自由に出入りするための「特別なパスポート」。
もしそれを持っていたら、自分はあの銀色の魚たちの輪の中へ、もっと深く、もっと自然に溶け込めるのだろうか。凪の胸の奥で、どうしようもなく純粋な「欲しい」という欲求が、静かに、けれど熱く燃え上がり始めた。
「瑞稀先生、それって難しいんですか?」
みどりが、濡れた前髪をかき上げながら、現実的な質問を投げかける。
「うーん、今日やったことをもっと細かく勉強して、海でのトラブルへの対処とか、機材のセッティングとか。一人で全部できるようになるための修行だね」
「へー、そんなの余裕じゃん?」
美央はすでに自分がライセンスを手にしている姿を想像しているのか、鼻息も荒い。
「実技試験……。」
凪が少し不安げに呟くと、瑞稀は三人の顔を順に見渡して、太鼓判を押すように頷いた。
「大丈夫! 今日の三人の様子を見てたら、実技はまず問題ないと思うよ。センスあるもん。」
「やった!」とハイタッチを交わす美央とみどり。凪も二人に釣られて笑いながら、促されるようにシャワーへと向かった。
屋外に設置されたシャワーブース。温かいお湯を頭から浴びた瞬間、鼻の奥に残っていた潮の香りが、無味無臭の水道水の匂いへと上書きされていく。瑞稀のアドバイス通り、スーツの中に水を通すと、あれほど強固に肌に張り付いていたネオプレン素材が嘘のように滑り落ちた。
重り。そして締め付け。海に入る前から自分を縛り付けていたすべての圧迫から解放された瞬間、凪は思わず「ふぅ……」と長い吐息を漏らした。
「はい、シャンプー。海水流すのに使って」
瑞稀から手渡されたシャンプーを手に取り、指の腹で頭皮を揉みほぐす。脱ぎ捨てたウェットスーツは、体を伝って落ちた水でびしょ濡れになっていた。拾い上げて、瑞稀の指示どおり横のステンレスパイプに掛ける。それはまるで、今日の冒険を終えた戦士が脱ぎ捨てた鎧というより、使い果たされてへたり込んだ抜け殻のように見えた。
「なんか、でかい昆布みたい」
美央がそんなことを言うものだから、思わずくすっと笑ってしまう。
シャワーから滴る水音に混じって、瑞稀と藤田さんが話している声が聞こえてくる。
「瑞稀、機材は置いていくのか?」
藤田さんの野太い声が響く。
「うん。今日はこれから金沢に帰るけど、来週またここに来るから。来週はビーチじゃなくてボートね。」
二人のやり取りを聞きながら、凪はタオルで顔を拭い、更衣室へ向かおうとして足を止めた。
自分でも不思議だった。いつもなら、目立たないようにやり過ごすのが凪の処世術だ。けれど今は、どうしても自分の言葉で直接「御礼」を伝えなければいけない、そんな強い衝動に駆られていた。
ダイビングの最中、自分たちはただ楽しんでいただけだったのかもしれない。けれど思い返してみれば、瑞稀はいつでも手を差し伸べられるように自分たちに気を配り、藤田さんはダイビング中に異変がないか、後ろからずっと見守ってくれていた。
自分たちが気づかないところで、あの二人はどれだけの「安心」と「安全」を自分たちに注いでくれていたのだろう。
凪は更衣室への道を少し外れ、機材を片付けている二人のもとへと歩み寄った。
「あの……!」
瑞稀と藤田さんが、同時に顔を上げる。
凪は少しだけ緊張して肩をすくめたが、すぐにスッと背筋を伸ばした。
「今日は、本当にありがとうございました!」
最後は、学校の先生にもしたことがないほど、丁寧で深いお辞儀だった。
感謝の気持ちを、ただその一言に込めて。凪は顔を上げると、少し照れくさそうにして、先に行った二人の後を追うように小走りで更衣室へと駆けていった。
後に残されたのは、潮騒と静かな沈黙。
藤田さんは機材を手にしたまま、凪が消えていった建物のほうを、しばらく呆然と見つめていた。
「……ええ子やぁ」
二人は、ほとんど同時に、ハモるようにしてしみじみと呟いた。
優しい男の顔になっている藤田さんを見て、瑞稀はニヤリと、いたずらっぽく笑った。
「……女子高生だかんな?」
「どういう意味じゃい。」
「別に~。」
更衣室の中から聞こえてくる美央とみどりの賑やかな笑い声に混じるように、凪も中へと入っていく。シャワーの余韻でしっとりと濡れた髪を、大きめのバスタオルで丁寧に包みながら、凪は更衣室の中へ足を踏み入れた。
更衣室の床を踏みしめる感覚が、まだどこかふわふわとしていて心許ない。ついさっきまで無重力のような水の中にいた反動だろうか。それとも、重い器材から解放された反動だろうか。
凪は自分のロッカーを開け、朝、あんなに迷って選んだ私服へと袖を通した。肌に触れるコットンのやわらかな感触が、凪の体をゆっくりと陸の世界へ引き戻していく。それでも、髪の奥にはまだ、かすかに海の匂いが残っていた。
着替えを終えたころ、先に更衣室を出ていった美央とみどりと入れ替わるようにして、瑞稀が「おつかれー」と軽い足取りで入ってきた。
「あ。さっき二人にも言ったけど、少し自由にしてて。」
瑞稀の言葉に景気よく返事をしながら、凪は外へ出て、二人の姿を探した。
眩しい五月の西日が、視界を白く染める。
そこにいたのは、ウッドベンチに並んで座り、首を後ろに預けて目を閉じている美央とみどりだった。二人はまるで、日当たりのいい縁側で丸くなる猫のように、全身で陽の光を吸い込んでいる。
「二人とも、何してるの?」
凪の声に、美央が薄目を開けて「あ、凪ちゃん……」と、とろけるような声を漏らした。
「なんかね、あったかくて。海から上がったあとだと、太陽がすごく気持ちいいんだよ」
凪も誘われるように、二人の隣へ腰を下ろした。
ベンチには横一列。波の音が遠くで一定のリズムを刻み、潮の匂いを残した風が三人の濡れた髪をゆっくり揺らしている。
言葉は自然と途絶えた。
あらゆる緊張や水圧、機材の重み。そうしたものすべてから解き放たれたあとの、不思議な浮遊感が三人を包んでいた。潜っている最中には必死で気づかなかった「海に潜った」という事実の重みが、時間をかけて、じわじわと体温のように後から効いてくる。太陽に温められたベンチが、背中越しにじんわりと熱を伝えてくるのがとても心地よかった。
この静寂を破ったのは、空を見上げたままの美央の呟きだった。
「ねぇ。ライセンス、一緒に取らない?」
それは提案というよりは、確認に近い響きだった。
美央の中では、もう答えは出ているのだろう。彼女の瞳には、さっき見たあの銀色の群れがまだ鮮明に映っているのかもしれなかった。
「……私も、挑戦してみたいかも。」
凪の口から、驚くほど素直な言葉がこぼれ落ちた。
いつもなら、「え、でもお金かかるし」「勉強も大変そうだし」と、できない理由を探しては、自分の気持ちに蓋をしてしまう。けれど今は、やってみたいという思いが、自分の中心ではっきりと形を成していた。
何を決めるにも悩み抜き、悶々と結局一歩も踏み出せなかったこれまでの自分が、嘘のようだった。
もう一度、潜りたい。
あの静かな、けれど熱い生命の鼓動が聞こえる場所へ。
あの景色を、もう一度。今度はもっと鮮明に、この目に焼き付けたい。
「案外、疲れたでしょー?」
不意に、後ろから柔らかな声がした。
振り向くと、相変わらず糸目で飄々とした表情の瑞稀が立っていた。
「そんなことないです! 全然元気!」
美央がバネのように跳ね起き、元気よく返事をする。瑞稀は「ははは、元気だねぇ」と笑いながら、三人の顔を覗き込んだ。
「楽しかった? 初めての海は」
瑞稀の質問に、美央は身を乗り出して「あの銀色の魚の群れが!」と興奮気味に話し出し、みどりは「海の中が静かで、とにかくすごかった」と、思い思いの感想を口にした。凪は二人の言葉に深く頷きながら、自分の胸に残っていた小さな引っ掛かりを、最後に一言だけ付け加えた。
「あの、途中で瑞稀先生が教えてくれた、小さい魚……。正直、よく分からなかったです」
瑞稀が「ああ、ダンゴウオ?」と目を細めた。
「そう。確かに、すごく小さかったよね」と、みどりも同意する。
美央だけは「えー!? 小さくて可愛かったよ! 必死に岩にしがみついてる感じが、最高にキュートだったじゃん!」と、一人で熱弁を振るっていた。
瑞稀は「ちょっと待っててね」と言い残し、建物の中へと消えていった。
数分後。
彼女の手には、一冊の厚みのあるバインダーが握られていた。
瑞稀はベンチに座る三人の真ん中に腰を下ろし、バインダーを広げた。
「この海で撮られた写真だよ。ここをホームにしてるダイバーたちの思い出。」
ページをめくるたびに、眩しい世界が目に飛び込んできた。
広大な海の中に差し込む光のカーテン、ボートの上で楽しそうに笑うダイバーたち。どの写真に写る人々も、心から笑い、驚き、この世界を愛していることが一目で伝わってくる。
やがて、瑞稀が「これ」と一枚の写真を指差した。
魚の接写ゾーン。そこに映し出されていた生き物を見て、凪は思わず椅子から立ち上がりそうになった。
「ええっ!? これが……あの魚?」
そこにいたのは、宝石のように艶やかな赤色をした、真ん丸で愛らしい生き物だった。
クリッとした大きな瞳、ちょこんとついたヒレ。海の中の岩場で見た、あの茶色っぽい小石のような姿とはまるで違う。鮮やかで、意志を持ってそこに存在している可愛らしい生き物がそこにいた。
「かわいい!!」
美央が歓声を上げ、身を乗り出す。
「これ、さっき見たのと同じなんですか?」
凪の問いに、瑞稀は優しく頷いた。
「うん。同じダンゴウオだよ。この子はね、ダイバーにとっての永遠のアイドルなんだ。ベテランダイバーでもね、自分で見つけるのは本当に難しい。今日は、藤田さんが事前に場所を特定してくれてたから会えたけど、本当はすごく貴重な出会いなんだよ。」
凪は、その写真をじっと見つめた。
今日、自分が水中であの小さな点を見つめたとき、「ふーん」で済ませてしまった自分を少しだけ恥じた。
茶色い小石だと思ったあの魚は、こんなにも鮮やかな色を纏い、懸命に、健気に海の中で生きていたのだ。
写真で見るそのギャップが、凪の好奇心に火をつけた。もう一度、自分の目でこの魚の姿を確認したい。次はもっとしっかりと観察したい。
「六月に入ると、シーズンはもう終わりがけでね。ギリギリ間に合って、見せてあげられて本当によかった。三人は、すごく運がいいね」
「運がいい……」
その言葉が、凪の心に温かく染み渡っていく。
自分は、ただ連れてこられただけじゃない。この広大な海に歓迎され、特別な瞬間に立ち会わせてもらったのだ。
三人はそれからも、バインダーのページをめくる手を止めなかった。
色とりどりのウミウシ。威風堂々としたマダイ。そして、どこまでも続く深い青の海。
ダイビングを楽しむ人たちの姿が写真の中に切り取られ、この体験がどれほど魅力的なものなのかを、静かに、けれど確かに伝えてくる。
一枚一枚の写真に刻まれたダイバーたちの物語が、凪たちの胸に芽生えた「ライセンス」への憧れを、やがて確かな決意へと変えていった。
凪は、写真の海の向こう側に、自分の未来が続いている気がした。




