冒険に出る準備はいいか 2
ダイビングセンターを包んでいた午後の熱気が、ゆっくりと頂点に達しようとしていた頃。瑞稀は、手慣れた手つきで軽器材やウェットスーツが入ったメッシュバッグを、車のバックドアへ積み込み始めた。
「よし、これで全部かな。……三人とも、今日はこれから石川に帰るんでしょ? 金沢まで送ってあげるよ。」
その一言に、真っ先に反応したのはやはり美央だった。
「えっ、いいんですか!?やったー!」
みどりと凪も顔を見合わせ、思わず笑みをこぼす。慣れない冒険と水圧で、心地よい疲労が全身を包んでいた三人の足腰にとって、空調の整った車での移動は何よりも贅沢なご褒美に思えた。
「うん、私も今日は一旦あっちに帰るしね。……で、その前に。お腹空いたでしょ? 近くの『8番』行こっか」
「いいですね、大賛成です!おなかすいたー!」
みどりが食い気味に頷く。その迷いのない反応に、埼玉から転校してきたばかりの美央だけが、不思議そうに首をかしげた。
「……ハチバン? 何、その番号。」
「えっ!? 美央、8番知らないの?」
凪は、思わず美央の顔を覗き込んだ。石川、富山、そしてここ福井。北陸三県に住む者にとって「8番らーめん」を知らないというのは、空の色を知らないと言われるのに等しい。国道8号線沿いに広がる、北陸のソウルフードの代名詞。その存在は、あまりに当たり前すぎて、全国どこにでもあるものだと思い込んでいた。
「8番らーめんっていう、ラーメン屋さんのこと。北陸の遺伝子に刻み込まれてるラーメンだよ。」
凪の熱弁に、美央は「へぇー、ラーメン!?めっちゃ好き!」と目を輝かせた。
お世話になった藤田さんに、三人は改めて深々とお辞儀をして、ダイビングセンターを後にした。
バックミラー越しに小さくなっていく海とセンターの建物。気づけば、すべてがあっという間の出来事だった。
朝、緊張に震えながら金沢を出発してから、まだ半日と少ししか経っていない。それでも、肺に残る圧縮空気の感触や、網膜に焼き付いたダンゴウオ、そして無重力のような浮遊感。そのすべてが、凪の中に「昨日までの自分」とは違う、新しい地図を描き加えていた。
車が走り出し、海沿いの道を離れてしばらく。昼のピークを少し過ぎた頃、黄色い看板に赤い文字で「8」と書かれた、見慣れた店が視界に入ってきた。
「到着ー。」
車を降りるなり、三人の胃袋は香ばしい野菜炒めの匂いに反応して鳴り出した。
店内に入ると、お昼時を過ぎていたおかげですぐにテーブル席へ案内された。
メニューパネルを叩く凪とみどりの手には迷いがない。
「私は野菜こく旨らーめん」
「私は野菜らーめん塩で」
瑞稀も「私は醤油かな」と手慣れた様子で注文を決めていく。
その横で、美央だけがまるで高級フレンチのメニューでも選ぶかのように、真剣な眼差しでプラスチックのメニューのページをめくっていた。
「ほんとに『8番』だ!このかまぼこみたいなの、『8』って書いてある!」
美央の様子は、海に潜る直前のあの興奮状態と瓜二つだった。瞳をキラキラとさせ、次はどんな未知との遭遇が待っているのかと、全身からワクワクが溢れ出している。その様子が、凪にはたまらなく微笑ましく、そして可愛らしく見えた。
「美央……。ダイビングの前も、そんな感じだったよ。」
「そお? だって、ワクワクするの、好きなんだもん!」
美央はケラケラと笑いながら、ようやく「野菜らーめんの味噌」を注文した。
やがて、湯気を立てて運ばれてきた4つの丼。
その中心には、白いかまぼこに赤い数字の「8」がくっきりと描かれた、通称「ハチカマ」が誇らしげに鎮座していた。
「わあ……!!」
美央は思わずスマホを取り出し、色んな角度からラーメンの写真を撮り始めた。
「そんなに写真撮るほど珍しいもんじゃないよー。普通だよ、普通。」
みどりが思わずくすっと笑いながら、箸をとる。
「えー? だってこの『8』ってかわいくない? 縁起良さそうじゃん!」
美央の無邪気な言葉に、テーブルを囲む四人の間に穏やかな笑いが広がった。
凪は、レンゲでスープを一口啜る。
金沢の家の近くで食べるのと、変わらない、安心する味。
けれど今日、福井の海の底を潜り、限界まで体力を使い果たしたあとに口にするこの一杯は、これまでのどんな食事よりも、身体の隅々まで染み渡っていく気がした。
「うん、おいしい。」
凪が小さく呟くと、瑞稀は麺を啜る手を止め、やわらかく微笑んだ。
「海から上がったあとのご飯って、何でも美味しく感じるんだよね~。」
本当に、その通りだった。
窓の外には、のどかな北陸の風景が広がっている。
同じラーメンを囲み、同じ冒険を共有した四人。
店内に漂う、香ばしい野菜炒めの匂いと、どこか家庭的な喧騒。
食後の余韻に浸りながら、冷たい水を飲んで一息ついていた、そのときだった。自動ドアが開き、賑やかな声とともに数人の女子高生が入ってくる。
土曜日だというのに、彼女たちは学校の制服姿で、肩には運動具が詰まっていそうな大きなスポーツバッグを斜めにかけている。部活動の帰りなのだろうか。店員に案内され、少し離れたボックス席へと腰を下ろすその姿は、同じ高校生であるはずの凪たちの目に、隣の県の――どこか「別世界の同い年の子」のように映った。
「ねえ、あの子たちも同じ高校生かな?」
美央が、スープを啜っていたレンゲを置いて、興味深げに視線を向ける。
「うーん、どうだろ。制服の襟の形、見たことないかも」
凪が答える。
隣の県とはいえ、ここは福井。自分たちが通う石川の高校からは、物理的にも、そして心の上でも、わずかに距離のある場所だ。同い年に見えるはずなのに、部活に打ち込み、仲間とラーメンを囲む彼女たちは、どこか自分たちとは違う時間の流れの中にいるようで、不思議な遠さを感じさせた。
「何部かな? 吹奏楽とか?」
美央がなおも推測を続ける。
「うーん、あのバッグの形ならバスケとかじゃない?」
「えー、私はバレー部だと思うな。あの子、背が高いし。」
瑞稀を含めた四人は、レジの向こう側で笑い合う彼女たちを、どこかぼんやりと眺めていた。
その時だった。
それまで静かにコップを回していたみどりが、独り言のように、けれど明瞭な声で呟いた。
「ねえ……。『ダイビング部』って、どうかな?」
一瞬、テーブルの上の時間が完全に静止した。
「ダイビング……部?」
凪は、その言葉を脳内で咀嚼するのに数秒を要した。
部。
部活。
それは、放課後のチャイムとともに始まり、同じ目的を持った仲間が集まり、切磋琢磨する場所。
「それって、学校の部活にするってこと?」
凪が言葉をなぞり終わるか終わらないかのうちに、美央が弾かれたように動いた。
「やる!!」
ガタッ! と激しい音を立てて、机が揺れる。
美央は立ち上がる勢いのまま、机を乗り越えそうなほど身を乗り出し、みどりに顔を近づけた。
あまりの音と気迫に、店員や周囲の客の視線が、一斉にこちらのテーブルへと集まる。
「お、落ち着けって、美央。」
みどりが苦笑いしながら美央の肩をなだめ、瑞稀が慌てて周囲の客に「すみません、お騒がせして」と小さく頭を下げる。
美央は「あ、ごめんなさい……」と赤くなって座り直したが、その瞳に灯った炎は消えるどころか、いよいよ激しく燃え上がっていた。
「いいじゃん! ダイビング部! 最高だよ、やろうよ!」
「……新しく部活を立ち上げるってこと?」
凪がもう一度尋ねると、美央は力強く何度も頷くようにみどりを見つめる。
「そう! 人数を集めて、学校に申請してさ。新しい部活を作って、またこのメンバーで、もっともっとたくさん潜りに行こうよ!」
瑞稀は、箸を置いて優しい笑顔で三人のやり取りを見守っている。その眼差しは、新しい遊びを思いついた子供を見るような、温かな慈愛に満ちていた。
「やば! めっちゃ楽しそう。すぐやろうよ、みどりちゃん、凪ちゃん!」
美央の興奮は、今日一日のどの瞬間よりも高いピークに達していた。
「部活にできればさ、学校から多少なりとも部費とか出るかもしれないし。遠征費とか、レンタル代とか……」
みどりが冷静に、けれど確かなメリットを挙げると、凪の心の中にもワクワクとした高揚感が広がっていく。
「部活を作るのって、何人からだっけ?」
凪の現実的な問いに、みどりは記憶を探るように、天井を見上げた。
「確か、学校の規定だと、最低四人。同好会なら三人でもいけるかもしれないけど、部にするなら四人は必要だね。」
「じゃあ……あと一人だ。あと一人いれば、『部』にできるんだね。」
その言葉が、静かに胸の奥へと落ちていく。自分たちで部活をつくる――そんな選択肢があるなんて、これまで考えたこともなかった。
けれど今、その可能性に触れた瞬間、世界の輪郭がほんの少しだけ変わった気がした。
やりたいことが形を持ち始めるとき、未来はこんなにも鮮やかに見えるのかと、凪ははじめて知った。
美央の視線が、ちょうどコップの水を口に運んでいた瑞稀に突き刺さる。
「決まりだね。あと一人集めて、部活を作る! 顧問は瑞稀先生にお願いしよう!」
「ブフッ……!」
瑞稀が思わず水を吹き出し、激しくむせ返る。
「ちょっ……ゲホッ、ゲホッ! 何言ってんの。私、外部の人間よ? 無理に決まってるでしょ」
「えー? だって瑞稀先生、教員免許持ってるんですよね? 最初に言ってたじゃないですか。」
美央は何故か引かない。瑞稀を完全に自分たちの「仲間」の勘定に入れているのだ。
「いや、持ってるけどさ……。」
瑞稀は、顔やテーブルに吹き出してしまった水を紙ナプキンで拭いながら、美央に視線を向ける。
「さすがにうちの学校の先生じゃないと、顧問は無理だと思うけど。」
凪もみどりも、その突拍子もない発想に、思わず苦笑いを浮かべた。
「い、一応、規定は調べてみるけど……。」
「じゃあ、特別顧問! あるいは専属コーチ! 瑞稀先生抜きなんて考えられないもん!」
美央の不満げな、けれど瑞稀を頼りにしきった言葉に、瑞稀は奥の目を細め、「ありがとう」とだけ小さく口にして微笑んだ。
「とりあえずは、人数集めからだね。」
みどりが話を本筋に戻すと、凪の脳裏に、玲の顔が浮かび上がる。
「……そうだ、瑞稀先生。」
凪は、真剣な眼差しを瑞稀へと向けた。
瑞稀は、凪の纏う空気がふっと変わったのを感じ取り、姿勢を正した。
「泳げなくても、ダイビングって本当にできるんですか?」




