冒険に出る準備はいいか 3
海の中には、陸では決して味わえない自由がある。
瑞稀が海に入る前に言ったあの言葉が、凪の心の中でふとよみがえる。
『ダイビングは、泳げなくてもできる。』
「うん。できるよ。泳げなくても、ダイビングは楽しめる。」
瑞稀の声は、騒がしい店内の喧騒をすり抜けて、凪の耳に真っ直ぐに届いた。その言葉は、凪が抱えていた先入観という分厚い壁を、いとも容易く、けれど優しく溶かしていくようだった。
「……本当ですか?」
凪は身を乗り出した。手元のコップの結露が指先に冷たく触れる。
「うん。水泳と違って、顔を上げて息継ぎをする必要がないからね。レギュレーターを咥えていれば、呼吸も確保されてるし。水の中で落ち着くことができれば、問題ない。」
真剣に聞く凪の顔色を見て、瑞稀は言葉を付け足していく。
「沈むのは、錘があるから簡単だし、浮き上がるのもBCDを使うから、実はそんなに泳ぐ力は必要じゃないのよ。私のお客さんにも、カナヅチのダイバーさんはたまにいるよ。」
美央とみどりも、凪の様子を見守るように口を閉ざしている。凪は、自分の胸の奥で燻っていた想いを、ようやく言葉の形にして吐き出した。
「親友が……カナヅチなんです。水が、本当に苦手で。……でも、私、その子と一緒に、何か新しいことを始めたくて。」
言葉に詰まりながらも、胸の奥に引っかかっていた想いを、ひとつずつすくい上げるようにして口にする。
瑞稀はそのすべてを、遮ることなく、まっすぐに受け止めようとしてくれていた。
「勝手ですけど……ダイビング、一緒にやりたいなって。今日見た景色を、あの子にも見せたいんです。」
その瞬間、隣にいた美央とみどりの表情が、すっと引き締まった。さっきまで「8番らーめん」の旨さに悶絶し、ダイビング部設立の野望に浮き足立っていた二人の空気が、一瞬で「真剣な仲間」のそれへと変わる。
二人の胸の内にも、きっと同じ名前が浮かんでいたはずだ。
残り一人の部員枠に、自然と重なったのは――あの物静かな少女、玲の姿だった。
「……そっか。」
瑞稀はしばらくのあいだ、凪の想いを受け止めるように静かに黙っていた。やがて、言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「ダイビングで一番大事なのは、”落ち着くこと”。感覚としては、お風呂に近いかな。顔に水がついてても、視界が水で覆われてても、パニックにならなければ大丈夫。機材がちゃんと助けてくれるから、安全に潜れるよ。……要は、水が怖いって気持ちさえ少しずつ手放せたら、一緒に潜れるよ。」
瑞稀の言葉は理にかなっていて、どこか希望を含んでいた。けれど凪の脳裏には、いつか玲がこぼした言葉が、はっきりと蘇っていた。
『顔に水つけるのも苦手』
水への恐怖を、隠すこともなく口にしていた玲。中学の夏のプールの授業でさえ、どこか怯えたような目をしていた、その姿。
(……やっぱり、難しいのかな。)
凪の胸に、じわりと暗い影が落ちる。
自分のエゴなのかもしれない。玲にとって、ダイビングはただの恐怖でしかないのではないか。二人のあいだに、無理やり「水」という彼女の苦手なものを持ち込むのは、ただの迷惑なのではないか。
それでも――。
喉の奥に刺さった小さな魚の骨のように、ちくりとした痛みが消えない。あの銀色にきらめくアジの群れを見たとき、真っ先に「玲に見せたい」と思ってしまった、その衝動が、諦めることを許してくれなかった。
顔を曇らせた凪の様子に気づき、瑞稀は包み込むような声で、静かに言った。
「……実はね、私も昔は、水が怖かったんだよ。」
「えっ!?」
三人の声が、重なる。あんなにも優雅に、人魚のように海を舞っていた彼女が――まさか。
「本当だよ。足がつかない場所なんて、想像するだけで震えてた。でもやっぱり、海は綺麗だったし……なにより、お店に来てくれるお客さんたちが、みんな本当に楽しそうに笑ってて。それが、たまらなく羨ましかったの。」
瑞稀は、少し遠くを見るように目をさらに細める。
「その輪の中に入りたい。みんなが見ている景色を、自分も知りたい。そんな気持ちが、少しずつ、怖さを追い越していったんだよね。」
瑞稀は凪の目をまっすぐ見つめ、やさしく微笑んだ。
「もし、その子がどうしても『水が怖い』って言うなら、いきなりは無理だろうから。まずは、海っていう場所に慣れるところから始めてみない? 海際で、みんなでバーベキューしたり、波打ち際で足を浸すだけもでいいし。楽しい思い出の中に『海』があれば、その子の心の鍵も開くかもしれないよ。」
瑞稀の提案は、凪の硬く閉じていた心に、やわらかな光を差し込んだ。
「海で、バーベキュー……。」
「いいじゃん! それなら玲ちゃんも来やすいよね!」
美央が、花が咲いたような笑顔で凪の肩を叩く。みどりも「そうだよ。まずは“楽しい場所”として上書きしていこう」と、力強く頷いた。
凪は、温かくなった胸の鼓動を感じていた。
玲を仲間に誘うこと。それを「厚かましい」と拒まれるかもしれない。けれど、何もしないまま諦めて、このまま離れていってしまうのは、もっと嫌だった。
店を出ると、北陸の午後の空は、すでにやわらかな夕暮れの色へと傾きはじめていた。
これからの決意を胸に、一行を乗せた瑞稀の車は海沿いの道を離れ、ほどなくして近くの温泉施設へと滑り込む。
潮風に吹かれ、波に揺られ、自分たちでも気づかないうちに体は芯から冷えていたのだろう。暖簾をくぐった瞬間、温く湿った香りが鼻をくすぐり、凪の強張っていた肩がふっとほどけた。
脱衣所で手早く着替えを済ませ、大浴場へ足を踏み入れる。広々とした湯船を満たす琥珀色の湯に、爪先からゆっくりと身を沈めていく。
熱い。だが、その熱はすぐに心地よさへと変わり、じわじわと皮膚の表面から奥へと染み込んでいく。
まるで、深い海の底で凍りついていた骨が、一本ずつほどけていくような、静かな至福だった。
隣では、美央とみどりも同時に長い吐息を漏らす。瑞稀もまた、三人のそばで首まで湯に浸かり、気持ちよさそうに目を細めていた。
お湯の熱で思考がとろけそうになる中、みどりが、水面にゆらゆらと反射する光を見つめながら切り出した。
「……そういえば、瑞稀先生。ライセンスって、取得するのにどれくらいかかるんですか?」
「んー、お金? それとも時間のことかな?」
瑞稀が湯気に煙る顔をこちらに向け、悪戯っぽく微笑む。
「あ、ええと……できれば、どっちも知りたいです。」
みどりが真剣なトーンで返すと、隣で目を閉じていた美央もパチリと目を開け、凪も耳を澄ませるように体を乗り出した。
「そうだね。まず、最初に取ってもらうのは『オープンウォーター・ダイバー』っていうランクになる。これは大体、最短で4日間くらいかな。学科講習と、プールでの実習、それから実際の海での海洋実習を組み合わせて進めていく感じ。費用は、教材代、実技の講習費、器材のレンタル代、全部込み込みで……だいたい7万円くらいかな」
「7万円……。」
みどりが、お湯の中で小さく呟いた。
「高校生のお小遣いとしては、結構な大金ですね。」
凪の頭に、お金という現実が重くのしかかる。
「そうだね。最初はどうしてもね。でも、一生モノの『海へのパスポート』を手に入れるためだと思えば、早ければ早いほどオススメかな。世界中どこでも潜れるようになるし。」
瑞稀は優しくフォローを入れるように続ける。
「テストとか、あるんですか?」
美央が、少し不安そうに尋ねる。
「もちろんあるよ。でも、そんなに難しいものじゃないかな。家でテキストを読んだり、動画を見たりして、普通に勉強すれば受かるレベル。簡単だよ。」
「勉強かぁ……。」
今度は勉学という現実がのしかかり、凪は肩を落とした。
「ふふふ。うちのショップに来てくれれば、私がマンツーマンで教えてあげることもできるし。」
瑞稀は三人の様子を楽しそうに眺めながら、手のひらでお湯を掬い、「ライセンス講座」を始めた。
「ダイビングのライセンス……正確には、認定証(Cカード)って言うんだけど、これは大きく分けて4段階のステップがあるんだ。
まず一番最初が、さっき言った『オープンウォーター・ダイバー』。いわばダイバーの登竜門で、バディと一緒に水深18メートルまで潜れるようになる、基礎のランクだね。ここで潜水計画の立て方とか、海の状況判断、トラブルの回避なんかをしっかり身につけるの。
その次が『アドバンスド・オープンウォーター・ダイバー』。ここまで来ると、水深30メートルまで潜れるようになって、もっと深くて、暗くて、神秘的な世界に行ける。水中写真の撮り方とか、魚の見分け方、夜の海をライト1つで潜るナイトダイビングなんかも、この段階で覚えていくんだよ。」
「30メートル……。」
三人とも、その数字を聞いても、それがどんな世界なのか想像がつかない。日常では決して触れることのない、深い青の世界。
「それから三段階目が『レスキュー・ダイバー』。ここまで来ると、水中で起こりうるトラブルを未然に防ぐ知識や、いざというときに自分や仲間を助けるスキルが身について、“水中のスペシャリスト”って呼ばれるレベルになる。自分の潜りにも余裕が出てきて、海を心から楽しめるようになる。
最後が『ダイブマスター』。これはプロコースの入り口で、水中ガイドをしたり、インストラクターの補佐をしたりできるようになる。……つまり、私と同じランクだね。」
瑞稀は誇らしげに、けれど気負わない様子で語った。彼女が海の中で見せてくれた、あの圧倒的な余裕と優雅さ。その裏には、こうした積み重ねがあったのだと凪は痛感した。
「私としてはね、まずは『アドバンス』まで取るのがオススメかな。そこまで持っていれば、世界中のほとんどのダイビングポイントに潜りに行けるようになるから。普通じゃ見られない景色とか、信じられないような生き物に出会えるとか、世界が、ぐっと広がるよ」
三人は、ちょうどいいお湯に浸かりながら、瑞稀の言葉をひとつも逃すまいと聞き入っていた。
温泉の熱は内側までじんわりと行き渡り、体の芯に残っていた冷えは、もうすっかり消えている。代わりに、胸の奥には別の種類の「熱」が、静かに灯り始めていた。
「アドバンス……。なんだか、本当の冒険者みたいだね」
美央の言葉に、思わず笑みがこぼれる。
琥珀色の湯面に揺れる光をぼんやりと眺めながら、美央は上気した顔で、もう一度瑞稀に視線を向けた。
「その最初のライセンス……オープンウォーターっていうのは、いつでも取れるんですか?」
瑞稀は、くつろいだ様子で頷いた。
「うん、講習自体は一年中やってるよ。ただ、学科と実習で4日間は必要だから、ちょっとした合宿みたいな感じになるかな。高校生なら、やっぱり夏休みが一番おすすめだね。海も温かくなってくるし」
夏休みなら、今からでも準備する時間は十分にある。けれど、避けては通れない現実がある。
7万円。
高校生の自分にとって、それは気軽に出せる金額ではない。親に頼ることもできるかもしれない。けれど、あの青い世界への切符は、自分の力で手に入れたい。そんな、少し意地のような想いが、胸の奥に芽生えていた。
「まずはバイト探さなきゃ。やっぱり駅前のほうかな?」
凪が真剣な面持ちでみどりに尋ねると、肩まで湯に浸かっていた彼女は、静かに頷いた。その瞳には、凪と同じ熱が宿っている。
「そうだね。駅前のカフェとか、単発のイベントスタッフなら、効率よく稼げるかも。私も探すよ。夏までに絶対お金貯めて、みんなで一緒に潜りたいし」
三人の意思は、このとき、湯の熱とともに溶け合い、ひとつの形を成していた。
『夏休みにダイビングライセンスを取る』――その目標に向かって、迷いなく踏み出す準備は、もう整っている。
いや、きっともう走り出しているのだ。
新しいことを始めようとしている、その感覚が、胸の奥を満たしていく。嬉しくて、なにより、ただただ楽しかった。
「私も働く! 夏休み、絶対目標だね!」
美央が意気揚々と宣言する。その鼻の頭に汗が浮かび、顔が真っ赤になっているのを見て、凪は「のぼせる前に出よう」と苦笑しながら大浴場から上がった。
脱衣所で火照った身体を冷ましながら、着替えを終えて、凪はそっとスマホを手に取った。
画面をスワイプすると、メッセージアプリを無意識に開く。
出発前夜に送った、玲宛てのメッセージ。
そこには、はっきりと「既読」の二文字がついていた。
返信はまだない。けれど、その二文字を見た瞬間、凪の胸の奥に温かな、そして泣き出しそうなほどの安堵が広がった。
玲は、私のメッセージを受け取ってくれている。
たったそれだけのことが、今の凪にとっては、世界中の何よりも強い「友達の証」に思えた。温泉で温まった身体が、内側からさらに熱を帯びる。視界が少し潤むのを、凪はタオルで顔を拭うフリをして誤魔化した。
帰りの車内、瑞稀の運転するミニバンは、暮れなずむ北陸道を金沢へと向かって滑るように走っていた。
心地よい揺れ、適温の車内、そして一日中全身を使い果たした心地よい疲労。
助手席で美央が小さくいびきをかき始め、隣のみどりもいつの間にか首を傾けて眠りに落ちていた。凪もまた、窓の外を流れる防音壁のライトを追いかけているうちに、意識が深い眠りの底へと沈んでいった。
「みんなー、ついたよー。」
瑞稀の穏やかな声で目が覚めたとき、視界に入ってきたのは、夜の帳が半分降りた金沢駅の西側のロータリーだった。
「……んぁ、ついた?」
目をこすりながら起き上がる美央。凪も大きく伸びをして、現実の世界へと意識を引き戻す。
「瑞稀さん、今日は本当にありがとうございました」
凪が代表して礼を言うと、瑞稀は車内に忘れ物がないかひと通り目を走らせてから、振り返り、やさしく微笑んだ。
「ううん、こっちこそ楽しかったよ。またいつでも気軽に遊びにおいで。部活の話、楽しみにしてるね」
去りゆくミニバンに、三人は並んで手を振った。
駅前は、土曜の夜を楽しむ観光客や、仕事帰りの人々であふれている。眩しい街灯の光、都会的な喧騒。つい数時間前まで、静かな波の音と潮の香りに包まれていたのが、嘘のようだった。
「……なんか、夢みたいだったね」
美央がぽつりと呟く。
「めっちゃ楽しかったわー!二人とも、誘ってくれてありがとう!」
みどりが笑いながら礼を言い、凪と美央も、つられるように言葉を返し合う。
金沢駅のホームへと向かうエスカレーター。三人は、それぞれの帰路につくため、同じ電車に乗り込んだ。
見慣れた車内の、いつもの匂い。
「じゃあ、また学校でね!」
「うん、また月曜日!」
電車を降りた凪を迎えたのは、見慣れた駐輪場と、自分の古い自転車だった。
夜風に乗って、ふと寂しさが胸に忍び寄る。
それでも――その寂しさを打ち消すほどの充実感が、凪を支えていた。満足感、疲労、そして名残惜しさ。それらすべてを抱えたまま、凪は自転車のペダルに足をかける。
立ち漕ぎで、勢いよく踏み出す。
街灯の下を駆け抜ける風は、海の中で感じた水の抵抗とはまるで違う、軽やかさを帯びていた。
一歩踏み出した今日の冒険が、凪の日常を、確かに変え始めている。
家まで、あと少し。
凪の心は、すでに初夏の青い海へと飛んでいた。




