最初の春が終わる 1
月曜日の朝。昇降口を抜けて教室に入った瞬間、凪を待っていたのは、想像もしていなかった冒険の痕跡への指摘だった。
「あれ、青山さん。なんか……焼けた?」
クラスの女子グループの一人にそう声をかけられ、凪は思わず自分の両腕を見つめた。福井の強い日差しと、海面からの照り返し。夢中になりすぎて、日焼け止めを塗り直すことすら忘れていた代償だ。
「えっ、まじ? やばい?」
「いいじゃん。どこか遊びに行ったの?」
「あ、ええと……ちょっと福井まで」
適当に言葉を濁しながら、凪は内心で激しく後悔していた。恥ずかしさが込み上げ、自分の席に着くなり、後から登校してきた美央に詰め寄る。
「ねえ、美央! 私、焼けちゃったかな? 結構目立つ?」
「そお? 私は全然気にならないけどー。」
「えー! よく見てよ、ここ! 境目できちゃってるし!」
駄々をこねる子どもみたいだ、と思いながらも、つい絡んでしまう。そんな自分に苦笑する凪の肩を、美央はケラケラと笑いながら叩いた。
「そんなことよりさ! 凪ちゃん、作戦会議だよ。バーベキュー! 早く玲ちゃんを誘い出さないと!」
「ちょっと待って、美央。バーベキューをやるにしても、まず私たちには圧倒的に『軍資金』が足りないよ! バイト探しが先決だってば」
午前の授業を終え、みどりを含めた三人は示し合わせたように弁当を持って中庭へと向かった。
初夏の陽光が降り注ぐ中庭のベンチ。そこが、今日のダイビング部(仮)の作戦本部に指定された。
「よし、現状を確認しよう」
みどりが弁当の蓋を開けながら、冷静なトーンで切り出した。
「部活として認めてもらうには、部員4人以上と、顧問の先生が必要。瑞稀先生は外部の人だからやっぱり無理だった。他に引き受けてくれる先生を探さないといけない」
「顧問の先生は、後回しでもなんとかなるとして……問題はメンバーだよね。」
凪が卵焼きを口に運ぶ手を止めて言うと、三人の視線が自然と重なった。
「玲……だよね。」
「異議なし!」
美央が力強く手を挙げる。けれど、その勢いも、すぐに凪の溜息にかき消された。
「でも、今の関係のまま『ダイビング部に入って』なんて言っても、100パーセント断られるよ。玲は水が怖いんだし、そもそも……今の私たち、まともに会話もできてないんだもん」
三人は、玲を仲間に引き入れること、そして「凪と玲の距離を元に戻すこと」を最優先ミッションとして掲げた。瑞稀先生が提案したバーベキューは確かに名案だったが、交通費や食材費を計算すると、今の彼女たちの財布事情では首が回らなくなる。
「お金をかけるイベントは、ここぞという時の『最終兵器』として温存しよう。」
みどりの鋭い指摘に、美央が「そっか、お金のかからないイベント……あ!」と言いかけたところで、みどりの「待て」がかかった。
「まず美央は、しばらく凪に、接触禁止。」
「ええっ!?」
美央が目に見えて青ざめ、ガックリと肩を落とす。
「……やっぱり私が原因……だよね?」
「違うってば。今は凪と玲が『二人きり』になれる時間を作らなきゃいけないって意味。そこに美央が頻繁にいたら、玲は一歩引いたままっしょ?」
すごく残念そうで、反省のような悲しげの表情を浮かべる美央。そんな彼女の頭をなでなでしながら、みどりは凪に会話を続ける。
「まずは二人で一緒に帰る、とか。そこからじゃない?」
「ええ……無理だよ……。」
凪は途端に弱気になった。断られるのが怖い。あの冷たい沈黙をもう一度味わうくらいなら、今のまま「なんとなく気まずい」関係を維持している方が楽かもしれない――そんな逃げ腰な自分が顔を出す。
「凪ちゃん、今まで玲ちゃんと喧嘩したことないの?」
美央が不思議そうに、とても静かに尋ねる。
「ないこともないけど……。でも、家も近所だし、いつもいつの間にか、なんとなく仲直りしてたんだよね」
「んー。それを待っててもいいけどさ、早いに越したことはないっしょ? 今回は、凪の方から積極的に行こうぜ。」
みどりが、これでもかというくらい凪の背中をぐいぐい押してくる。
「……まじか。」
卵焼きを頬張る凪に、みどりは唐揚げをかじりながら、遠慮なく切り込んできた。
「何? 嫌なの?」
「違うよ。ただ、喧嘩したわけでもないし……これって“仲直り”っていうのか、わかんなくて」
みどりと美央も、そろって考え込む。
「でもさ、今の微妙な距離感は変わってないんだよな」
「……なんかさ、一瞬で気まずさ消せる方法とかないかな?」
「ごはん食べに行くとか?」
美央が提案するが、凪は首をかしげた。
「いや、もっと前の段階から。朝『おはよう』って言っても、返事はあるけど、そっけないし……」
「知るか! ぶつかっていけ! 彼氏作るんじゃないんだから!」
みどりの男前な一喝に、美央の目が怪しく光った。
「え? 何? 凪ちゃん、好きな人いるの? 誰だれ!?」
「はぁっ!? ちょ、話飛びすぎ!」
「いーじゃん、ゲロっちまいなよ。同じクラスか?」
みどりがニヤニヤしながら、肘を机につく。
「そんなんおらんって! それより、夏休みの計画! ライセンス取るんやろ!?」
凪は顔を真っ赤にしながら、強引に話題を戻した。こういうとき、つい方言が出てしまう。これ以上「恋バナ」に引き込まれたら、玲へのアプローチどころではなくなってしまう。
「そうだよ。もう6月も半分過ぎてるし。」
美央が、すっと表情を引き締める。頭の中でカレンダーをめくる。夏休みが始まるのは7月末。ライセンス費用の7万円を貯めるには、今すぐバイトを始めて、7月分の給料日までに目処を立てなければならない。
――つまり、ダイビング合宿に行けるのは8月。
「予約、8月に入れといたほうがいいよね。4日連続って言ってたから、瑞稀先生のスケジュールも抑えないといけないし。……美央、瑞稀先生に連絡入れといて」
みどりの指示は的確だった。
「ラジャー! 熱烈ラブコール送っとく!」
「普通に連絡してよね……」
みどりの機転の良さと決断力。彼女はきっと、将来どんな場所でも活躍できる人になるのだろう。凪はそんな友人を頼もしく思いながら、自分たちの「やるべきこと」を頭の中で整理し、みどりの提案で、昼休みのうちに申請書をもらいに職員室へ向かうことにした。
昼間の職員室は、午後の授業に向けた準備で出入りする生徒や、赤ペンを走らせる教師たちの熱気に満ち、どこか息苦しさを帯びていた。
「バイト? なんだ、急に働きたくなったのか?」
担任の松本先生が、目を細めて凪たち三人を問い詰める。その低く響く声に、凪は思わず肩をすくめた。石川県の公立高校において、アルバイトは原則禁止ではないものの、しっかりとした理由と家庭の事情、そして何より「学業への専念」が条件となる。適当な理由では門前払いされるのがオチだ。
「いえ、先生。実は私たち、ダイビング部を立ち上げたくて。そのライセンスを取るための費用が必要なんです。」
横から凛とした声で助け舟を出したのは、みどりだった。こういう時、学級委員長も務める彼女が隣にいてくれるのは、嵐の中の灯台を見つけるような安心感がある。
「ダイビング? また随分と変わった挑戦を始めたもんだな。」
松本先生の眉がピクリと跳ねる。
「はい! 本気です!」
美央が、一点の曇りもない満面の笑みで食い気味に答えた。その、大人を懐柔するような天性の処世術と、真っ直ぐなエネルギー。凪は隣で「すごいな……」と素直に関心してしまう。自分には到底真似できない、光のような強引さだ。
「……ふん。何かに挑戦するのは勝手だが、それよりお前ら、早く進路調査票を出せよ?」
松本先生は、最後に釘を刺すような捨て台詞を吐くと、職員室の入り口から自分のデスクへと戻っていった。キーボードを叩く乾いた音が響く中、凪と美央は「はっ」として顔を見合わせる。
「……まだ出してなかったのかよ。」
みどりが、ジト目という言葉がこれほど似合う表情はないという顔で二人を睨んだ。
「ほら、これだ」
先生がプリンターから吐き出されたばかりの申請用紙を三人の前に差し出す。
「この用紙に、目的と理由、勤務先。諸々細かく書いて、保護者のサインをもらってくるように。いいか、少しでも学業に支障が出たと判断した場合は、強制的に許可を取り下げるからな。そのつもりでいろ」
軽く、けれど重みのある脅し。
「はーい、分かってまーす」
みどりは三人分の書類をひょいとまとめ、流れるような動作で受け取った。「失礼しまーす!」と軽やかに退散する彼女の背中を追うように、凪と美央も慌てて頭を下げて職員室を後にした。
廊下に出た瞬間、みどりが勝利のポーズで用紙を掲げ、凪と美央にそれぞれ一枚ずつ申請用紙を手渡した。
「よっしゃ! あとはこれ書いて出すだけだね!」
「ありがとう、みどりちゃん! さすが我らが委員長!」
美央が抱きつかんばかりに喜ぶが、みどりは美央の額を指で小突いた。
「喜ぶのはいいけど、二人とも、早いとこ進路調査出しなよ? 進路が決まってないからバイトはダメなんて言われたら、目も当てられないよ?」
「ううっ……分かってるよ……。」
凪はうめいた。六月の初めにもらった進路調査の紙。自分の将来なんて、霧がかかった海みたいに何も見えていなくて、机の引き出しの奥に突っ込んだままだった。
進路調査、バイト許可証。玲との関係修復に、ライセンス取得の計画。
頭の芯がズキズキと痛み出す。
一歩踏み出したはずの「冒険」は、想像以上に現実的なタスクという重しを伴って、凪の肩にのしかかってきた。
放課後。
考えるべきこと、決めなければならないことが頭の中で膨れ上がり、凪は半ば上の空で駐輪場へと向かった。これ以上思考を続けることを身体が拒み、無意識のうちに、安全地帯である「家」へ帰ろうとしていたのだ。
まるで世界が、今日という一日の締めくくりに「一人で帰る時間」を自分に与えたかのような――そんな錯覚すら覚えながら、凪は無感情に自転車の鍵を外した。
サドルに腰を下ろし、校門へ向かおうとペダルに足をかけた、その瞬間。
「……あ」
駐輪場の出口、西日に伸びる影の先に、玲が立っていた。
目が合った、その一瞬で。
校庭から聞こえていた野球部の掛け声も、遠くを走る車の音も、不自然なほど遠のいていく。
空気が張りつめ、時間が、止まった。
玲が気まずそうに目を逸らし、逃げるようにその場を離れようとする。
けれど、それよりも早く、凪の口が勝手に動いた。
「玲!」
鋭く――けれど、どこか震えを含んだ声。
玲の肩が、びくりと大きく揺れた。足を止めたまま、俯いて動かない。
「……一緒に、帰らない?」
心臓の鼓動が、耳元で鳴り響く。喉は乾ききり、拒まれるかもしれない恐怖が、全身を駆け巡る。
さっきの呼び止める声とは裏腹に、その言葉は、自分でも驚くほどか細く、小さく、探るような響きになっていた。
数秒――永遠のように長い沈黙。
やがて玲は、ゆっくりと顔を上げる。凪の目をまっすぐに見ることは避けたまま、それでも、かすかな声で答えた。
「……いいよ」
その一言を聞いた瞬間、凪の胸の奥で張り詰めていた糸が、ふっと緩んだ。
金沢の夕暮れの街が、ほんの少しだけやさしく見えた。




