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さわせん(金沢栄高校潜水部)  作者: うきわまん


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23/40

最初の春が終わる 2

 二人は並んで、自転車を押し始めた。

 校門を出て、いつもの通学路を進む。


 アスファルトの上に、細長く伸びる二人の影。

 会話はない。それでも、靴が路面を蹴る音と、自転車のタイヤが転がるかすかな音が、不器用なリズムで重なり合っていた。


 凪は、ちらりと隣を歩く玲の横顔を見る。

 玲はまだ、どこか遠くを見つめるような、寂しげな表情をしていた。


 夕暮れの金沢。

 地面に伸びる影は、かつてのようにぴたりと重なることはなく、微妙な距離を保ったまま、並んで伸びている。


 玲とこうして帰るのは、いったい何日ぶりだろう。

 ほんの1か月前までは、放課後のチャイムが鳴れば自然と帰り支度を整え、どちらからともなく声をかけて校門を出ていた。


 それが当たり前だったのに。たった1か月で――。

 隣を歩く親友との「心の歩幅」を、どう合わせればいいのか、凪には分からなくなっていた。


 沈黙が重い。

 自転車のチェーンが刻む規則的な音だけが、気まずさを際立たせるように響く。


 凪は大きく息を吸い込み、夕方の冷えはじめた空気を肺いっぱいに取り込んだ。

 ハンドルを握る手に、自然と力がこもる。


 かつては当たり前だったこの「二人で帰る道」が、今は世界でいちばん難しくて、そしていちばん大切な道のように思えた。


 凪は必死に、地雷を踏まないように、それでいて他人行儀になりすぎない話題を探していた。


「……そういえば、進路調査、出した?」


 ようやく絞り出したのは、さっき職員室で松本先生に怒られたばかりの話題だった。


「出したよ。え、凪……まだ出してないの?」


 玲が、少し驚いたように、けれどどこか呆れたような目でこちらを見る。


「だって、何も考えてなかったんだもん。将来のことなんて、何も分かんないっていうか……。」

「提出、先週じゃなかった?」

「……えっ」


 凪は絶句した。先週?――嘘でしょ。

 松本先生の小言を「いつものこと」と聞き流していたツケが、こんなところでブーメランのように返ってくる。


「やばい。本当に先生の話、全然聞いてなかった……。これ、親にバレたら絶対怒られるやつだ」


 思わず頭を抱えそうになる凪を、玲はそれ以上追及しなかった。

 ふたたび、しんとした沈黙が降りてくる。


 六月の夕闇が迫る帰り道。ふと遠くに目をやると、白山連峰が初夏の瑞々しい青を湛え、雄大にそびえていた。

 雪解けを終え、力強く色づき始めたその姿は、迷いの中にいる二人を、静かに、そして厳かに見守っているようだった。


「……今日は、一緒じゃなかったの?」


 玲が、地面を見つめたまま、ぽつりと呟く。

 “ 一緒 ”が誰を指しているのか、凪にはすぐに分かった。美央のことだ。


「あー、うん。そうだね。なんか、今日は一人で考え事したくて。置いてきちゃった」

「……なにそれ。いいの?」

「うん」


 また、沈黙が落ちる。

 凪の脳裏には、中庭で「美央は接触禁止!」とはしゃいでいた三人の姿と、今、隣でどこか寂しげに歩く玲の姿が、交互に浮かんでいた。


(やっぱり、玲は美央が苦手なのかな……)


 もしそうだとしたら――今、自分が考えている「ダイビング部」という輪の中に、彼女を無理に引き込むのは、救いどころか、ただの酷な押し付けになってしまうのではないか。


 聞きたいことは、山ほどあった。

 最近はお昼、誰とどこで食べてるの?

 いつも一人で家に帰っていたの?

 昔から水が怖いのは、何か理由があるの?


 ここ1か月の玲の空白を、凪は何ひとつ知らない。

 知りたい――けれど、この繊細な距離の中で、土足で踏み込むような問いかけは許されない気がした。


 とくに「ダイビング」や「新しい友達」という話題は、今の玲にとっては拒絶反応を引き起こしかねない、触れてはいけない領域のように思える。


 そのことを胸に刻むほど、言葉は慎重になりすぎていく。

 そして結局、何も言えなくなる――そんな悪循環に、凪は陥っていた。


 二人はそれぞれ自転車のハンドルを握り、ゆっくりと歩いていた。

 足元のマンホールや、道端に咲く名もなき花。そんなものばかりに目を落とし、肝心の相手の顔を見られない。


 それでも、無情に道は続いていく。

 じわじわと、家路が分かれる「あの分岐点」が近づいてきた。


(このまま、何も言わずに別れちゃダメだ。また明日から、あの気まずい朝に戻っちゃう)


 視界の端に、見慣れた三差路が映る。

 凪は、息をひとつ整えた。


 理屈も作戦も、もうどうでもいい。

 ただ――今の自分の、生身の気持ちをぶつけるしかなかった。


「玲」

「なに?」


 玲は、立ち止まった凪に向き直る。


「今度、どっか遊びに行こ」

「え? どっかって、どこ?」

「どっかは、どっか! 普段あんまり行かないようなところ。二人でさ」


 一瞬だけ、玲の瞳が揺れたように見えた。

 けれど、返ってきたのは予想外の「現実」だった。


「……いいけど、期末終わったらね」


「へ? き、きまつ?」

「……うん。期末テスト」


 凪の顔から、一気に血の気が引いた。

 そうだ。来月――七月はテストの月だ。

 バイトの許可証、進路調査、ライセンスのための貯金……。そこへ追い打ちをかけるように、「期末テスト」という巨大な存在が、ずしりと降ってくる。


 あまりの動揺に、凪の表情が引きつる。

 それを見た玲が、今日初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「……忘れてたんでしょ」

「……はい。完全に、記憶の彼方でした」

「うちの学校、期末は順位も出るし。そんな状態じゃ、またお母さんに……」


 玲が言い切るよりも早く、凪は白山連峰がそびえ立つ、広い空に向かって頭を抱えた。


「もうこれ以上、私をいじめないでくれぇぇぇーーー!!」


 その絶叫が、静かな住宅街に響き渡った。

 思わず手を離した自転車はバランスを崩し、がしゃりと音を立てて倒れた。

 

 一瞬の静寂のあと。


「ふっ……くくっ、ははははは!」


 玲が、こぼれるように笑い出した。

 お腹を抱え、肩を震わせる。その表情は、さっきまでの頑なさが嘘のように、あっという間にほどけていく。

 その笑い声を聞いた瞬間、凪の胸の奥にあった重たいしこりが、すっと霧のように消えていくのを感じた。緊張がほどけ、圧倒的な安心感が押し寄せてくる。


「ちょ、笑いすぎだってば、玲!」


 凪もつられるように笑い出した。

 

 気づけば、分かれ道にたどり着いていた。

 夕日は田畑の道を赤く染め、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。


「じゃあ、玲! テスト頑張って終わらせたら、絶対お出かけしようね!」

「うん。わかった」


 玲が、はっきりと笑顔を向けてくれる。

 二人はそれぞれの家へ向かい、自転車にまたがると、背中合わせにペダルを踏み出した。


 凪の背中を、爽やかな夜風が追い越していく。


 進路調査も、バイトも、テストも、ダイビングも。

 課題は山積みで、頭はパンクしそうだ。


 それでも――いちばん重かった「玲との距離」という壁に、小さな、けれど確かな風穴が開いた。


 ペダルを踏む足が、驚くほど軽い。

 凪は、昼と夜のあわいに沈みゆく街の静けさを切り裂くように、勢いよく帰り道を駆けていった。

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