最初の春が終わる 2
二人は並んで、自転車を押し始めた。
校門を出て、いつもの通学路を進む。
アスファルトの上に、細長く伸びる二人の影。
会話はない。それでも、靴が路面を蹴る音と、自転車のタイヤが転がるかすかな音が、不器用なリズムで重なり合っていた。
凪は、ちらりと隣を歩く玲の横顔を見る。
玲はまだ、どこか遠くを見つめるような、寂しげな表情をしていた。
夕暮れの金沢。
地面に伸びる影は、かつてのようにぴたりと重なることはなく、微妙な距離を保ったまま、並んで伸びている。
玲とこうして帰るのは、いったい何日ぶりだろう。
ほんの1か月前までは、放課後のチャイムが鳴れば自然と帰り支度を整え、どちらからともなく声をかけて校門を出ていた。
それが当たり前だったのに。たった1か月で――。
隣を歩く親友との「心の歩幅」を、どう合わせればいいのか、凪には分からなくなっていた。
沈黙が重い。
自転車のチェーンが刻む規則的な音だけが、気まずさを際立たせるように響く。
凪は大きく息を吸い込み、夕方の冷えはじめた空気を肺いっぱいに取り込んだ。
ハンドルを握る手に、自然と力がこもる。
かつては当たり前だったこの「二人で帰る道」が、今は世界でいちばん難しくて、そしていちばん大切な道のように思えた。
凪は必死に、地雷を踏まないように、それでいて他人行儀になりすぎない話題を探していた。
「……そういえば、進路調査、出した?」
ようやく絞り出したのは、さっき職員室で松本先生に怒られたばかりの話題だった。
「出したよ。え、凪……まだ出してないの?」
玲が、少し驚いたように、けれどどこか呆れたような目でこちらを見る。
「だって、何も考えてなかったんだもん。将来のことなんて、何も分かんないっていうか……。」
「提出、先週じゃなかった?」
「……えっ」
凪は絶句した。先週?――嘘でしょ。
松本先生の小言を「いつものこと」と聞き流していたツケが、こんなところでブーメランのように返ってくる。
「やばい。本当に先生の話、全然聞いてなかった……。これ、親にバレたら絶対怒られるやつだ」
思わず頭を抱えそうになる凪を、玲はそれ以上追及しなかった。
ふたたび、しんとした沈黙が降りてくる。
六月の夕闇が迫る帰り道。ふと遠くに目をやると、白山連峰が初夏の瑞々しい青を湛え、雄大にそびえていた。
雪解けを終え、力強く色づき始めたその姿は、迷いの中にいる二人を、静かに、そして厳かに見守っているようだった。
「……今日は、一緒じゃなかったの?」
玲が、地面を見つめたまま、ぽつりと呟く。
“ 一緒 ”が誰を指しているのか、凪にはすぐに分かった。美央のことだ。
「あー、うん。そうだね。なんか、今日は一人で考え事したくて。置いてきちゃった」
「……なにそれ。いいの?」
「うん」
また、沈黙が落ちる。
凪の脳裏には、中庭で「美央は接触禁止!」とはしゃいでいた三人の姿と、今、隣でどこか寂しげに歩く玲の姿が、交互に浮かんでいた。
(やっぱり、玲は美央が苦手なのかな……)
もしそうだとしたら――今、自分が考えている「ダイビング部」という輪の中に、彼女を無理に引き込むのは、救いどころか、ただの酷な押し付けになってしまうのではないか。
聞きたいことは、山ほどあった。
最近はお昼、誰とどこで食べてるの?
いつも一人で家に帰っていたの?
昔から水が怖いのは、何か理由があるの?
ここ1か月の玲の空白を、凪は何ひとつ知らない。
知りたい――けれど、この繊細な距離の中で、土足で踏み込むような問いかけは許されない気がした。
とくに「ダイビング」や「新しい友達」という話題は、今の玲にとっては拒絶反応を引き起こしかねない、触れてはいけない領域のように思える。
そのことを胸に刻むほど、言葉は慎重になりすぎていく。
そして結局、何も言えなくなる――そんな悪循環に、凪は陥っていた。
二人はそれぞれ自転車のハンドルを握り、ゆっくりと歩いていた。
足元のマンホールや、道端に咲く名もなき花。そんなものばかりに目を落とし、肝心の相手の顔を見られない。
それでも、無情に道は続いていく。
じわじわと、家路が分かれる「あの分岐点」が近づいてきた。
(このまま、何も言わずに別れちゃダメだ。また明日から、あの気まずい朝に戻っちゃう)
視界の端に、見慣れた三差路が映る。
凪は、息をひとつ整えた。
理屈も作戦も、もうどうでもいい。
ただ――今の自分の、生身の気持ちをぶつけるしかなかった。
「玲」
「なに?」
玲は、立ち止まった凪に向き直る。
「今度、どっか遊びに行こ」
「え? どっかって、どこ?」
「どっかは、どっか! 普段あんまり行かないようなところ。二人でさ」
一瞬だけ、玲の瞳が揺れたように見えた。
けれど、返ってきたのは予想外の「現実」だった。
「……いいけど、期末終わったらね」
「へ? き、きまつ?」
「……うん。期末テスト」
凪の顔から、一気に血の気が引いた。
そうだ。来月――七月はテストの月だ。
バイトの許可証、進路調査、ライセンスのための貯金……。そこへ追い打ちをかけるように、「期末テスト」という巨大な存在が、ずしりと降ってくる。
あまりの動揺に、凪の表情が引きつる。
それを見た玲が、今日初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……忘れてたんでしょ」
「……はい。完全に、記憶の彼方でした」
「うちの学校、期末は順位も出るし。そんな状態じゃ、またお母さんに……」
玲が言い切るよりも早く、凪は白山連峰がそびえ立つ、広い空に向かって頭を抱えた。
「もうこれ以上、私をいじめないでくれぇぇぇーーー!!」
その絶叫が、静かな住宅街に響き渡った。
思わず手を離した自転車はバランスを崩し、がしゃりと音を立てて倒れた。
一瞬の静寂のあと。
「ふっ……くくっ、ははははは!」
玲が、こぼれるように笑い出した。
お腹を抱え、肩を震わせる。その表情は、さっきまでの頑なさが嘘のように、あっという間にほどけていく。
その笑い声を聞いた瞬間、凪の胸の奥にあった重たいしこりが、すっと霧のように消えていくのを感じた。緊張がほどけ、圧倒的な安心感が押し寄せてくる。
「ちょ、笑いすぎだってば、玲!」
凪もつられるように笑い出した。
気づけば、分かれ道にたどり着いていた。
夕日は田畑の道を赤く染め、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。
「じゃあ、玲! テスト頑張って終わらせたら、絶対お出かけしようね!」
「うん。わかった」
玲が、はっきりと笑顔を向けてくれる。
二人はそれぞれの家へ向かい、自転車にまたがると、背中合わせにペダルを踏み出した。
凪の背中を、爽やかな夜風が追い越していく。
進路調査も、バイトも、テストも、ダイビングも。
課題は山積みで、頭はパンクしそうだ。
それでも――いちばん重かった「玲との距離」という壁に、小さな、けれど確かな風穴が開いた。
ペダルを踏む足が、驚くほど軽い。
凪は、昼と夜のあわいに沈みゆく街の静けさを切り裂くように、勢いよく帰り道を駆けていった。




