最初の春が終わる 3
玲との関係に、ようやく一筋の光が見えた。
昨日の帰り道、背中合わせに漕ぎ出した自転車の感触を思い出すだけで、凪の心には春の終わりのような穏やかな風が吹いていた。あんなに笑い合えたのはいつぶりだろう。
少しだけ足取りを軽くして登校した翌日。午前中の授業が終わり、チャイムが鳴り響くと同時に、教室内は一気にお昼休みの喧騒に包まれた。凪は真っ先に、玲の背中を追った。
けれど、彼女は手慣れた動作で小さな弁当袋を掴むと、誰とも目を合わせることなく、風のように教室を去っていった。
(……どこに行ってるんだろう、玲)
ここ最近、玲は昼休みになると忽然と姿を消す。行先は全く見当もつかない。かつては二人で机を並べて、他愛もないお喋りに花を咲かせていた時間が、今は遠い砂漠の蜃気楼のように思えた。
(ま、いっか。今は焦っちゃダメだよね)
自分に言い聞かせ、玲との和解の兆しを報告しようと、美央とみどりの姿を探した。すると、前方の扉から二人が連れ立って足早に出ていくのが見えた。その手には、何やら白い紙が握られている。
「二人とも、待って!」
弁当袋を机に置いたまま、凪は二人の後を追った。廊下の曲がり角で追いつき、二人が持っていた「それ」を間近で見た瞬間。凪の胸を、驚きと焦燥が津波のように襲った。
「ええっ!? 二人とも、もうバイト決めたの!?」
凪の声が、静かな廊下に響いた。
二人が手にしていたのは、昨日、職員室でもらったばかりの「アルバイト許可申請書」だった。しかもそこには、すでに具体的な勤務先と、保護者の鮮やかな印鑑が押されている。
「ごめん、凪ちゃん! 昨日の帰り、駅前でちょうど貼り紙を見つけてさ」
美央が、気まずそうに笑いながら、ぽつりと打ち明ける。
「なんでよ……誘ってくれればよかったのに。寂しいじゃん、私だけ取り残されて」
――置いてけぼり。
その言葉が、凪の胸にぽつりと冷たい影を落とした。
昨日、自分が玲と帰っているあいだに、この二人は着実に「夏休みへの切符」を手にしていたのだ。
「ごめんって。帰り道、凪のこと探したんだけど見つからなくてさ。そのあと二人で帰ってたら、“バイト募集”って書いてあるの見つけて、思いきって入ってみたんだ」
「それで……二人とも受かったの?」
美央とみどりは、顔を見合わせてから、小さくうなずいた。
凪は、二人の要領のよさに、素直に感心する。
思い返せば――もし昨日、この二人に誘われていたら、玲と一緒に帰ることはできなかっただろう。
そう思うと、諦めと焦りが入り混じった、どこか煮え切らない気持ちが胸に残った。
「……すご。まぁ、おめでとう。あとで私のバイト先探しも、手伝ってよね」
二人は「もちろん!」と声をそろえる。
「じゃあ、これから先生にこれ出してくるわ。凪は先にお昼食べてて」
二人の背中を見送りながら、凪はとぼとぼと教室へ戻った。
自分の机と美央の机を勝手にくっつけ、小さな「島」を作る。ひとりで弁当の蓋を開け、冷めた卵焼きを口に運んだ。
美味しいはずなのに、どこか味気ない。
自分だけがまだ、スタートラインで靴紐を結び直している――そんな焦燥感が、じわじわと胸の内に広がっていく。
しばらくして、二人が教室に戻ってきた。
けれど、さっきまでの“採用を勝ち取った余韻”は、もうどこにもない。
特にみどりは――顔色が明らかにおかしい。まるで暗雲が立ち込めたように、血の気が引いていた。
「どうしたの? 先生に何か言われた?」
凪が尋ねると、みどりは幽霊のようにふらふらと歩き、椅子に崩れ込むように座った。
「……やばい。期末テストのこと、完全に忘れてた」
そのひと言で、凪は「ああ、そのことか」と腑に落ちた。
昨日の自分も、玲に言われるまでまったく同じ状態だったのだから。
「一応、申請書は受理してもらえたんだけどさ……」
美央が、珍しく覇気のない声で言う。
そのあとを引き取るように、みどりが口を開いた。
「先生に釘刺された。『期末テストでひとつでも赤点を取ったら、その時点で許可は取り消し。即日で辞めてもらう』って。超マジなトーンで」
「……まじか」
凪は思わず、鞄の中にある、まだ白紙の申請書を思い浮かべた。
――きっと、自分も同じ条件を突きつけられる。
赤点は、絶対に許されない。
それは学校だけの問題じゃない。バイトの許可をもらうための、親への「絶対条件」にもなるはずだ。
「まあ、勉強も頑張っていかなきゃだよね。」
美央が、自分を鼓舞するように、そして具合の悪そうなみどりを励ますように言った。
けれど、みどりは机に突っ伏したまま動かない。あの、何事も完璧にこなしそうな学級委員長が、ここまでボロボロになるなんて。
「……みどりちゃんって、勉強苦手なの?」
美央がふと疑問をぶつけると、みどりは突っ伏したままぼそりと答えかけ、やがて諦めたように顔を上げて天を仰いだ。
「全然ダメ。最悪。無理。委員長なんてやってるのもさ、ぶっちゃけ内申点を稼いで成績の悪さをごまかすためだし」
これは意外だった。冷静沈黙で、計画的。そんな彼女なら、テスト勉強もルーチンワークのようにこなすのだと勝手に決めつけていた。
「そうなの? まったく見えないんだけど」
「マジで勉強は無理。特に数学と化学。あの記号の羅列を見てると、悪魔に襲われてるみたいな気分になるんだよ……」
再び机に突っ伏したみどりの頭を、美央が「よしよし」と優しく撫でている。
「美央は、余裕そうだね」
「ん? うーん、私も結構やばめだよ。でも、なんとか両立させないと、楽しみが遠のいちゃうからね」
みどりが、今度はバネが弾けたように顔を上げた。
「あーっ! まじで、いつ勉強すりゃいいんだよ!」
その叫びは、凪自身の不安とも共鳴した。
バイト、玲の勧誘、部活設立、そしてダイビングライセンス。そのすべてを支える土台は、皮肉にも今自分たちがもっとも遠ざけたい「学校の成績」なのだ。
「……なら、勉強会とか、する?」
凪が提案した。一人で悶々と教科書を開くよりは、この三人で集まった方が、まだ救いがある気がした。
「いいね! それ! やろう! 凪、数学教えてよ!」
食い気味に賛成したみどりの目は、もはや必死を通り越して、獲物を狙うハンターのようになっていた。
「え、私? 私も教えられるほど得意じゃないけど……」
「いいの! 一人で死ぬより、みんなで足掻く方がマシだから!」
お昼休みの教室に、予鈴のチャイムが響く。
ダイビング部の最初の「海洋実習」は、皮肉にも教科書の海へと潜ることになりそうだった。




