最初の春が終わる 4
六月の熱気が、教室の窓から忍び寄っていた。
夏休みまで、あと少し。彼女たちの冒険は、まだ始まったばかりだ。
学校からの帰り道、凪は自分のカバンに手を伸ばした。中に入った一枚のプリントが、まるで重い鉄板のように感じられる。
――「アルバイト許可申請書」。
その白い紙に、保護者の署名をもらう。ただそれだけのことが、今の凪にとっては、エベレストの頂に旗を立てるのと同じくらい、高く険しいハードルに思えた。
自分の部屋に戻ると、カバンから教科書を取り出し、机に向かう。背筋を伸ばし、静かに前を見据えた。
テスト勉強も両立する――そう腹をくくる。
「赤点は取れない。絶対に。」
凪は心の中でそう繰り返した。
それは、皆と一緒にあの青い海へ行くための、避けては通れない、けれど最初の大切な試練だった。
教科書と一緒に取り出したアルバイト許可申請書を手に、凪はリビングへ降りていく。
夕食を終え、リビングに漂う焼き魚の残り香が、淹れたての加賀棒茶の香ばしい香りに上書きされる頃。父はソファで新聞を広げ、母はキッチンでふきんを畳んでいた。テレビからは、明日も石川県内は穏やかな晴天になるという気象予報士の声が淡々と流れている。
いつも通りの、平和で、退屈で、温かい、金沢の日常。
凪は、湯呑みから立ち上る真っ白な湯気をじっと見つめ、熱くなった陶器の感触を両手で確かめた。心臓の鼓動が、耳の奥でドクンドクンと早鐘を打つ。
「……あのさ、ちょっと話があるんだけど」
意を決して投げた言葉は、自分でも驚くほど硬かった。
父が新聞の端を少し下げ、母が手を止めてこちらを見る。
「何? 改まって。」
母の鋭いツッコミに、凪は一瞬たじろいだが、すぐに首を振った。
「……こないだ、福井でやったダイビング。あれが、本当に楽しくて。それで、学校の友達と一緒に、本格的に資格を取って始めてみようと思うんだ」
「へぇ〜、そうなん。ダイビングねぇ」
母の反応は案外、軽かった。
「楽しかったんや? よかったやん。なぎがそんなに何かにハマるなんて珍しいね」
父も、新聞を畳んで穏やかに微笑む。
(よし、いけるかも)
凪は少しだけ肩の力を抜いて、本題を切り出した。
「それで……その資格を取るのにお金がかかるから、バイトしようと思って」
その瞬間、リビングの空気がピリリと凍りついた。
「バイト? 何するが?」
父の眉が少しだけ上がる。
「いくらするん? どんな資格なんけ? それ、今どうしても必要なん?」
案の定、母からの質問攻めが始まった。
「バイト先は……これから探す。資格は、オープンウォーターっていう名前で、一度取れば一生使えるし、これから海に潜るには絶対に必要になるものなの。でも、講習費とか機材代とかで、全部で7万円かかるんや」
「ななまん!?」
母の声が裏返った。金沢の女子高生にとって、7万円という数字は、現実味を帯びた「大金」だ。
「それで、学校に許可をもらうための書類にサインが欲しいの」
凪は、ダイニングテーブルの上に、四つ折りにしていた申請書をそっと広げた。
父が眼鏡を掛け直し、差し出された書類に視線を落とす。沈黙が痛い。
「……それより、なーちゃん。期末テスト、もうすぐなんじゃないがけ? 勉強、ちゃんとしとるん?」
来た。
凪は奥歯を噛み締めた。
絶対に突っ込まれると思っていた、最大の急所。
「うん……先生にも、勉強と両立せぇって言われとる」
「ほら、やっぱり。バイトなんて、テスト終わってからにしなさいよ。今始めんでもいいがいね」
母が食い気味に言葉をかぶせてくる。論理的で、親としては至極まっとうな正論だった。
いつもなら、凪はここで「そうだよね」と引き下がっていた。
波風を立てるのが怖くて、自分の気持ちに蓋をして、また「いつもの日常」に戻っていく。
「テスト終わってからやと、間に合わんの!」
珍しく声を荒げた自分に、凪自身が一番驚いた。
「なによ、間に合わないって。海は逃げんがいね」
母が少しヒートアップしてくる。
この、正論で追い詰められる感じが昔から苦手だった。
でも、今回ばかりは、絶対に折れるわけにはいかなかった。
「8月の夏休みに、取りに行きたいの。それには、7月から働き始めんと間に合わんって、みんなで決めたの!」
「みんなと決めたって……。なーちゃん、あんたまた流されとるだけじゃないの? 周りに無理やり合わせとるだけなんやろ?」
胸の奥が、カッと熱くなる。
違う。
そうじゃない。
凪は、ゆっくりと、けれど力強く首を振った。
「今がいいんだ」
言葉にしたその瞬間、胸の奥で何かがかちりと噛み合った。
流されていたわけじゃない。瑞稀先生に導かれ、美央に手を引かれ、みどりに背中を押された。
それでも――その先の一歩を踏み出すと決めたのは、他でもない自分自身だ。
「今、ここで、始めるって……私が決めたの」
言葉は拙く、論理的でもなかった。けれど、その一言には一点の曇りもない真実が宿っていた。
リビングが、しんと静まり返る。
時計の秒針が、やけにゆっくり動いているように見えた。本当は音なんてしないはずなのに、「カチ、カチ」と、想像の音だけが胸の中に大きく響いていた。
母が困ったように父を見た。
「お父さん、何とか言ってよ。」
少しの間をおいて、父がゆっくりと口を開いた。
「……お金の問題なら、お父さんが立て替えようか?」
父は優しい。
波風を立てず、物事を穏やかに解決しようとする。
けれど、今の凪が求めているのは、そんな「親切な近道」ではなかった。
「違う。そういう話じゃないの! お金の問題じゃない……これは、私の『挑戦』の話なの!」
自分で言っておきながら、顔が赤くなるのを感じた。柄にもない。恥ずかしい。けれど、この青臭い言葉こそが、今の自分を突き動かしている正体だった。
「……自分でやらなきゃ、意味がない。って思ってる」
父はしばらく黙ったまま、凪の顔と、テーブルの上の紙をじっと見つめていた。
やがて静かに立ち上がると、チェストの中から一本の黒いボールペンを取り出してくる。
「ちょっと、あなた!」
母が慌てて声を上げる。
父はそれを制するように軽く手を上げ、ペン先を書類へと向けた。
「……条件だ」
父の低い声が、静まり返った部屋に落ちる。
「期末、絶対に落とすな。」
「……うん」
「それから、バイトの時間は自分で決めて、自分で守れ」
ペン先が紙に触れ、カリカリという乾いた音が響く。
凪は、息をするのも忘れてその手元を見つめていた。
母も大きく息を吐くと、もう何も言わない。
祈るように。あるいは覚悟を決めたように。
凪と同じ眼差しで、父の筆致をじっと見つめている。
ただの紙。ただの署名。
けれど、そのインクの跡は、凪にとって世界で一番重い「信頼の証」だった。
これだけのこと。けれど、これだけのことが、自分の人生の新しい章をめくる合図になった。
これから始まるのは、これまでの「守られた日常」ではない。自分の力で泳ぎ、自分の力で呼吸し、自分の力で目的地を目指す、本当の意味での冒険だ。
「……ありがとう、お父さん。お母さん」
凪が言い終えると、母が小さく溜息をつき、お茶を注ぎ足した。
「言い出したら聞かんところ、本当にお父さんそっくり。……ちゃんと勉強しなさいよ。」
「わかっとる。絶対、やってみせる」
凪の胸の奥で、激しい鼓動が鳴り響いていた。
それは、未知への不安ではない。
新しい自分に出会うための、まっすぐな青春の鼓動だった。
自分の部屋に戻り、窓を開ける。金沢の夜風が、そっとカーテンを揺らした。
遠くに見える街の灯りが、海に浮かぶ漁火のように瞬いている。
凪は、父から返された書類をカバンにしまい、すぐに参考書を開いた。
挑戦は、もう始まっている。
夏休み――あの青い海の底で、自分はどんな景色に出会うのだろう。
その答えに手を伸ばすように、凪は最初の一文字をノートに刻んだ。




