稲の青い匂い 1
カレンダーの数字を塗りつぶす暇もないほど、怒涛の勢いで駆け抜けた数週間だった。
気づけば、教室の窓から差し込む陽光は一段と強まり、湿り気を帯びた風が夏の本格的な到来を告げている。石川県の短い梅雨が明けようとする7月。ついに、凪たちの運命を左右する期末テスト当日がやってきた。
この一ヶ月弱、凪の生活は一変していた。かつての「なんとなく学校へ行き、なんとなく家に帰る」という平穏なルーチンは消え去り、分刻みのスケジュールをこなすサバイバルのような日々へと変わったのだ。
両親の前で「これは私の挑戦だ」と大見えを切ったあの夜。口にした言葉の重みは、翌日からさっそく凪の肩にのしかかった。
まずは、駅前の地元書店でのアルバイト。接客と品出し、そしてレジ打ち。慣れない立ち仕事は想像以上に体力を削り、帰宅する頃には足が棒のようになっていた。新刊の重い束を運ぶたびに、瑞稀先生が言っていた「ダイビングには体力も必要」という言葉を思い出し、自分を鼓舞した。
朝、5時半に起きて、まだ静まり返った自分の部屋で教科書を開く。昨晩の疲れが残る頭に、無理やり公式や英単語を詰め込む。
登校して授業を受け、休み時間はみどりや美央と「ここの解き方わかる?」と教え合う。
放課後は、真っ先に駅前の書店へ向かう。制服からエプロンに着替え、3時間から4時間のシフトをこなす。
夜、21時過ぎに帰宅し、夕飯をかき込んでから翌日の予習と復習。
土日はさらに過酷だった。日中はフルタイムでバイトを入れ、夜に死に物狂いで勉強する。流石に土日の朝だけは、泥のように眠ってしまい起き上がることができなかったが、それでも自分を甘やかす時間は一分もなかった。
「……まじで、死ぬかと思ったわ」
一度だけ日曜日に行った、美央とみどりとの勉強会。駅前の喫茶店でノートを広げた三人は、再会を喜ぶ余裕すらなく、ただひたすらにペンを走らせた。みどりは「レジやってる最中も、心の中で元素記号を復唱してる」と目が血走った状態で語り、美央は「引越しの荷物運びで筋肉痛がやばいけど、これ、タンク運ぶ時に効きそうじゃない?」と相変わらずのポジティブさを見せていた。
三人とも、それぞれの場所で戦っていた。帰り道がバラバラになる日が増え、孤独を感じることもあったけれど、スマホに届く「今日もお疲れ!」というメッセージが、凪の唯一の支えだった。
そして、何よりも凪の心を支えたのは、一度だけ作ることができた「玲と一緒に帰る時間」だった。
その日の玲は、どこか吹っ切れたような、凪を受け入れてくれるような柔らかい空気を持っていた。話題はもっぱら、期末テストのこと。
「日本史、ここがどうしても覚えられないんだよね……」
凪が弱音を吐くと、玲は少しだけ得意げに、けれど丁寧に教えてくれた。
「日本史は流れで覚えるんだよ。」
帰り道、夕暮れに染まる犀川の堤防を歩きながら、玲が一問一答形式で、テスト範囲のクイズを出す。
「1185年、平氏が滅亡した戦いは?」
「壇ノ浦の戦い!」
玲は相変わらず勉強家で、ノートの取り方も、知識の深さも、凪とは比べものにならないほど抜け目がなかった。頭が良く、自分の決めた道を静かに進む彼女の姿を、凪は心の底から尊敬した。かつては近すぎて見えなかった彼女の凄さを、少し離れた場所にいたからこそ、今ははっきりと理解することができた。
(……負けられない。玲に褒めてもらえる私でいたい)
そして今、凪は自分の席に座っている。
机の上には、使い慣れたシャーペンと、角が丸くなった消しゴム。
教室を見渡すと、みんなが集中をしている。背中からは、美央の気合いが伝わってくるようだ。みどりは緊張を隠すように静かに目を閉じている。玲はいつも通り凛とした背筋で前を見据えていた。
廊下から試験監督の教師が入ってくる。
カサカサと、問題用紙の配られる音が室内に響く。
凪は、大きく深呼吸をした。肺の中に、少し湿った教室の空気が入り込む。
バイトで疲れてペンを持つ手が震えた夜。
眠気に負けそうになって、冷たい水で顔を洗った朝。
「冒険に出たい」という純粋な願いを、「挑戦」という言葉に変えて両親に誓ったあのリビング。
すべてが、この一瞬に繋がっている。
「よし、始め。」
先生の合図とともに、一斉にテスト用紙がめくられた。
静かな教室に、シャーペンが紙の上を走る、激しく、けれど心地よいリズムが充満する。
頭の中に、玲とクイズを出し合ったあの帰り道の景色が、鮮明に蘇る。
覚えたはずの単語、何度も解き直した公式、みどりと議論した化学反応式。
それらが、指先を通じて回答欄を埋めていく。
不安は、まだ完全には拭えない。けれど、今の凪には、それをねじ伏せるだけの「熱」があった。
これは、ただのテストじゃない。
夏休みの、あの深い青の底へ行くための、自分自身との、そして新しい仲間たちとの約束を果たすための戦いだ。
シャーペンの芯が折れる音。消しゴムのカスを払う音。
凪は、一瞬たりともペンを止めなかった。
誰かに与えられた課題じゃない。自分が選んだ、自分のための挑戦。
時計の針が重なり、12時を指した瞬間。
キーンコーンカーンコーン……と、静まり返っていた教室に終止符を打つチャイムが鳴り響いた。
「よし、そこまで。やめ!」
試験監督の太い声が合図となり、張り詰めていた空気が一気に霧散する。カチャリと一斉にペンを置く音が、戦いの終わりを告げる儀式のように教室内を満たした。
解答用紙が前から順に回収されていく。白地の紙を埋めた自分の筆跡が、手元を離れて先生の腕の中に消えていくのを見送る。その後の、採点スケジュールや結果発表に関する事務的なアナウンスは、凪の耳を素通りしていった。
終わった。ようやく、終わったのだ。
テスト期間の三日間。
始まってしまえば、怒涛のような勢いで時間は過ぎ去っていった。あんなに何週間も前から準備を重ね、睡眠時間を削り、バイトの合間にボロボロの単語帳を捲り続けてきたというのに。終わる瞬間は、拍子抜けするほどあっけなかった。
けれど、その「あっけなさ」こそが、凪にとっては最高に甘美な「解放」の味だった。
「終わったーーーっ!」
「お疲れ! マジで死ぬかと思ったわ……」
クラスのあちこちで、堰を切ったように労いと自虐の声が上がる。重い重圧から解き放たれた同級生たちの顔は、誰もが憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「凪ちゃん! テスト、どうだった?」
後ろから声をかけてきたのは、美央だった。彼女もまた、使い古した消しゴムのカスを払いながら、晴れ晴れとした顔をしている。
「……手応えは、正直低め。」
凪が正直な感想を漏らすと、美央はケラケラと笑って彼女の肩を掴みその体を揺する。
「そっか!私もギリギリだった。 でも、ようやく終わったね。」
「ほんと。乗り切ったー……って感じ。ここ数週間、マジでしんどかったもん」
「だよね! 私も、脳みそが筋肉痛になりそう」
美央はそう言いながら、手際よくカバンに筆記用具を詰め込み、帰り支度を整える。その動作には、いつにも増してスピード感があった。
「美央、今日バイト?」
「うん! テスト前、あんまりシフト入れられなかったからね。今日から追い込みかけるよ。あ、ライセンスの予約の件とか、また明日作戦会議しよ! じゃあね!」
「わかった! 美央も気をつけてね!」
嵐のように元気よく手を振り、美央は教室を飛び出していった。引越し業者のバイトでさらに体力をつけるつもりなのだろうか、その後ろ姿には一点の迷いもなかった。凪はその背中を見送ると、ふと教室内を見渡した。
探したのは、玲の姿だ。
けれど、彼女の席はすでに空っぽだった。いつの間に教室を出たのか、あるいはどこか別の場所へ移動したのか。テストが終わった解放感の中で、彼女に「お疲れ様」の一言だけでも言いたかったのに、その機会は指の間をすり抜けるように消えてしまった。
少しだけ肩を落として、自分の荷物をまとめようとした時。
「おつかれー。やっと終わったな、地獄の三日間」
不意に後ろから声をかけられ、凪は「わっ」と小さく飛び跳ねた。振り返ると、そこにはみどりが立っていた。相変わらずクールな表情を崩さない彼女だが、その瞳にはどことなく安堵の色が混じっている。
「あぁ、みどり! お疲れ様。……テスト、どうだった?」
「意外に余裕だったぜ。数学は凪に教えてもらったところ、バッチリ出たしな。」
「それはよかった……。私、教え方下手じゃなかったかなって心配だったんだ」
「全然。おかげで首の皮一枚繋がったわ。恩に着るよ、部長」
みどりは茶目っ気たっぷりに片目を瞑ると、制服のポケットから一枚の紙を取り出した。
「それでさ、これ。あげるよ」
凪の前に差し出されたのは、色鮮やかなデザインのチケットだった。そこには大きく『のとじま水族館』の文字が躍っている。
「えっ……これ、どうしたの?」
「うちのお母さんからもらったんだよ。会社で福利厚生?……で、もらうらしくてさ。ペアの割引チケット」
「へぇ~、いいね。……あ、もしかして誘ってくれるの?」
水族館。
能登半島の先端近くにある、石川県民なら誰もが一度は行ったことのある場所。ジンベエザメが泳ぐ巨大な水槽や、イルカショー。凪が最後に行ったのは、まだ玲と手を繋いで走り回っていた小学生の頃だっただろうか。
けれど、みどりは予想外にも、ゆっくりと首を横に振った。
「いや。2人分だからさ。……黒川さんと行けそうなら、使ってよ」
「え……?」
凪は固まった。
「これで、ちゃんと黒川さんをダイビング部に引き入れてこいよ!って、エール? まぁ、仲直りのいい口実になったらいいなって思って?」
「いや、でも、悪いよ! せっかくお母さんからもらったのに」
凪が慌てて突き返そうとするが、みどりはそれを手で制した。
「大丈夫だって。もし断られちゃったら、その時は私と美央を誘え。三人で割り勘で行こ」
みどりの言葉は、ぶっきらぼうだけれど、どこまでも優しかった。
彼女は凪がどれほど玲との関係を気に病んでいたか、そして帰り道にようやく少しだけ笑い合えたことをどれほど喜んでいたかを、全部見抜いているのだ。
「……いいの? 本当に」
まっすぐ自分を見るみどりの熱視線に、凪は彼女の手からそっとチケットを受け取った。
手に伝わる紙の感触が、なんだかとても重く、温かかった。
「わかった。……玲を、誘ってみる」
「期待してるぜ。じゃあ、私は別の友達と約束あるから。また明日!」
みどりはひらひらと手を振ると、教室の外で待っていた他のグループの中へ、軽やかな足取りで混ざっていった。
一人残された教室。夕方の西日が、凪の机の上を長く照らしている。
手元にあるのは、のとじま水族館のペアチケット。
それは、みどりが届けてくれた「きっかけ」という名のプレゼントだった。
(テストが終わった。バイトも頑張った。……あとは、私次第だ)
凪はチケットを大切にカバンにしまうと、大きく一つ、深呼吸をした。




