稲の青い匂い 2
凪が帰り支度を終える頃、一度教室を出たはずの玲が立っていた。忘れ物でもしたのだろうか、自分の席へ向かおうとする彼女に、凪の声が無意識に飛び出した。
「あ、玲ー! 一緒に帰ろー!」
テスト後の高揚感と、さっきもらったチケットの温かさが、凪の背中を強く押した。
玲はビクッと肩を揺らし、驚いたように顔を上げた。少しだけ気まずそうな色が混じる。
「……あ、凪。ごめん、今日はちょっと……」
「どうしたの? 用事?」
「ううん、用事っていうか。今日、一組の子と一緒に帰る予定だったんだけど……」
玲の口から出た言葉に、凪は一瞬、思考が止まった。
当たり前のようでいて、ここ数年の二人にとってはあり得なかった光景。玲が他のクラスに新しい友達を作っていたという事実に、凪の胸の奥がチクリと疼く。
それでも、玲が一人ではなかったことへの安堵と、彼女が選んだ友人への強い興味が、次第に胸の内に広がっていった。
「え、そうなの? 私はその人と一緒でも構わないけど……迷惑かな?」
「……迷惑じゃないと思うけど。」
玲が教室の入り口の方を振り返る。そこには、一人の女子生徒が遠慮がちに佇んでいた。
二人はその子に近づいていき、玲は凪を紹介した。
「もも、いきなりごめんね。彼女は凪。……前に話したことがあるかもしれないけど、私の幼馴染」
”もも”と呼ばれた少女は、凪の姿を見た瞬間、ぽかんと口を開けたまま固まってしまった。小柄で、どこか小動物のような愛らしさがあるけれど、その瞳には強い緊張が宿っている。
「こんにちは! 初めまして。青山凪です」
凪はなるべく元気よく、けれど威圧感を与えないように意識して挨拶した。美央のあの太陽のような明るさを少しだけイメージして、自分なりの親しみやすさを演出してみる。
「……百瀬、です。」
消え入りそうな声で、彼女――百瀬は答えた。その視線は泳ぎ、指先が制服のスカートをぎゅっと握りしめている。
「今日の帰り道、三人一緒でもいい?」
玲が問いかけると、百瀬は一瞬、言葉を詰まらせるようにして玲の顔を見た。それから、意を決したように小さく、本当に小さくコクりと頷いた。
(……あ、この子は美央やみどりとは全然違うタイプだ)
凪は直感的に察した。ぐいぐいと自分のペースに引き込むような接し方をすれば、この繊細な少女はすぐに殻に閉じこもってしまうだろう。凪は無意識に、自分の声のボリュームを一段階落とし、感情をぶつけすぎないように配慮した。
「よろしくね、百瀬さん」
凪が優しく微笑みかけると、百瀬は安心したように、ふわりと花が綻ぶような笑顔を見せた。そして、音を立てないように丁寧に会釈する。その仕草一つひとつに、彼女の控えめな性格が表れているようだった。
テストという名の重圧から解放された放課後。
三人は連れ立って校舎を出た。
傾き始めた西日が、金沢の街を濃いオレンジ色に染め上げている。
凪は、自転車を押しながら、少し前を歩く玲と百瀬の背中を見つめていた。
三人で並んで歩くには狭すぎる道が、自然と凪を一歩後ろへと下がらせていた。
「テスト、できた?」
玲の声が、前方の空間に溶け込むように響く。
「え……あんまり。数学が、全然ダメで……」
百瀬が消え入りそうな声で応じると、玲は優しく首を振った。
「そうなの? 私は、まあ、予定通りだったかな。物理以外は」
凪は、自転車のハンドルを握る手に、無意識に力がこもるのを感じた。
玲が、自分の知らない誰かと、あんなにも自然に言葉を交わしている。まるで、これまで見たことのない彼女の一面を覗き込んでいるようで、胸の奥に、くすぐったさにも似た寂しさがかすかに広がった。
それでも同時に、「玲はこんな表情もするんだ」と気づいた瞬間、その新しい発見は、温かな雫のように静かに心へと染み渡っていった。
「玲は、何が一番できた? やっぱり日本史?」
会話の輪に入りたくて、凪は後ろから声を張った。しかし、歩きながら背中に向かって話しかけるには、物理的な距離がありすぎた。
玲が半分だけ振り向いて「うん、日本史は余裕だったよ」と答えてくれたが、すぐに横の百瀬との会話に戻ってしまう。会話の糸が、ぷつりと途切れる。
その気配に、百瀬は気づいていたのだろう。
前を歩きながらも、ときおり不安げに、凪の方へとそっと視線を送ってくる。
目が合うことはない。けれど、その控えめなまなざしに触れるたび、凪の胸の内には、居心地の悪さにも似た感情が広がっていった。
――気を遣わせている。
そんな思いが、言葉になるよりも先に滲み出てくる。
「ごめんなさい」と、まだ何も起きていないはずなのに、先回りして謝りたくなるような、息苦しさ。
(……あ。)
ふいに、その感情が、別の記憶と重なった。
駐輪場で、玲が小さく「ごめん」と口にした、あのときの表情。
胸の奥で、何かが静かに噛み合う。
あのときの玲も――きっと同じだったのだ。
自分と、目の前に広がる新しい世界とのあいだで立ち尽くし、どちらにも踏み出せずに、ただ戸惑っていた。
誰かを傷つけたくなくて、けれどどう振る舞えばいいのかも分からなくて、行き場のない想いだけが胸の中に溜まっていく。
その果てにこぼれたのが、あの「ごめん」だったのかもしれない。
言葉にするには、あまりにも曖昧で、不確かな感情だった。
それでも、心臓がひとつ、大きく脈打つ。
凪はその瞬間、ほんのわずかに――けれど確かに、あのときの玲の痛みにそっと触れた気がした。
「ごめんね、百瀬さん。変に気を使わせちゃって」
心の中でそう呟きながら、凪はあえて一歩引いて歩くことにした。前の二人がどんな会話をしていたか、後で思い出そうとしても霧がかかったように不鮮明なほど、凪はただ静かに、二人の背中を守るようにしてついていった。
「じゃあ、私、ここだから……」
住宅街の角で、百瀬が立ち止まった。彼女は小さく手を振り、凪と玲に丁寧にお辞儀をする。
「うん。またね、もも」
玲も小さく手を振り返す。
二人のあいだに流れる、気負いのないやわらかな空気に、凪の胸の奥がじんわりと温まった。
やがて百瀬の背中が人波に紛れ、見えなくなる。
その余韻をなぞるように、ほんのわずかな静けさが二人のあいだに落ちた。
「行こ」
玲のその一言で、いつもの二人だけの時間が始まった。
「……いい子だね、百瀬さん」
「うん」
「いつ知り合ったの?」
「ちょっと前かな」
歩き出して数分。会話がぶつ切りになり、沈黙が降りてくる。
さっきまで百瀬と弾ませていた会話の風景を思い返すと、今ここに流れている空気だけが、妙に重く、まとわりつくように感じられた。
これはいけない。
かつての「なんとなく」に甘えていては、またあの息苦しい沈黙に引き戻される。
凪は足を止めた。
自転車も、その場でブレーキをかけ、スタンドを立てる。
「ね、玲」
呼びかけると同時に、カバンの中から、大切に仕舞い込んでいたあのチケットを引き抜いた。
みどりが、二人の距離が少しでも近づくようにと、そっと託してくれた「きっかけ」。
凪はその小さな紙切れに、今この瞬間のすべてを任せた。
「これ……テストも終わったことだし、二人で行かない?」
「なに?」
玲が怪訝そうにチケットを覗き込む。
「水族館?」
「うん。2枚あるから。今週にでも、一緒に行かないかなって」
口に出した瞬間、「唐突すぎたかな」という後悔が襲ってきた。
なんだか、物で玲のご機嫌を取りに行っているようで、心がざわつく。
喧嘩をしているわけでもないのに、顔色を伺っている自分が少しだけ恥ずかしかった。
「へぇ……。私、水族館なんて小学生以来かも」
玲は受け取ったチケットを顔に近づけてじっくり見ながら、独り言のように漏らした。
「……私も、それくらい前かも。」
「いいよ。……今週?」
あっけないほど簡単に、玲は頷いた。
「へ? いいの?」
拍子抜けして、凪は間抜けな声を上げてしまった。
「え? 誘ったの凪じゃん。なんで驚いてるの」
玲がふっと、今日一番自然な笑みを浮かべた。
一瞬、時が止まったように感じた。
それから遅れて、玲が頷いてくれたという事実が、じわじわと胸の奥へ染み込んでいく。
次の瞬間、心の中のメーターが、一気に振り切れた。
「やった! 行こう行こう! 私、ペンギン見たい!」
「えっ、お魚じゃないの? 水族館なのに」
「魚見るとさ、お腹空いてこない?」
「……はは。凪は、生け簀と水族館を一緒だと思ってるよね、昔から」
「そんなことないし!」
ほんの少しの勇気を振り絞って差し出したその一言に、玲は思いのほかあっさりと頷いた。拍子抜けするほど簡単に、「約束」は形になった。
玲とお出かけの約束。ただそれだけのことなのに、凪の胸の内では、世界の輪郭がふっと明るく塗り替わっていくような感覚が広がっていった。
前の関係に戻れた。いや、きっと前よりも少しだけ深く、お互いの輪郭を知った上での「新しい関係」が始まろうとしている。
胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、目頭がじわじわと熱くなる。
でも、ここで泣くわけにはいかない。
そんなの、今の自分には恥ずかしすぎる。凪はわざと明るい声を作り、溢れそうになるものをごまかすように、早口に言葉を重ねる。
「玲は何が好き? 何が見たい?」
「え……魚? 全然知らないよ、名前とか」
期末テストという重荷から解放され、玲との絆を取り戻せたように感じた凪の心は、清々しい夏の風に満たされていた。
この瞬間だけは、ダイビング部のメンバー集めの難しさも、明日からびっしり入ったバイトのシフトも、これから取得を目指すライセンスのことさえ、すべて頭の隅へと追いやられていた。
二人は、すっかり日が長くなった、蒸し暑いいつもの帰り道を歩いていく。
田んぼからは稲の青い匂いが立ちのぼり、初夏のぬるい空気が、二人をやわらかく包み込んでいた。




