稲の青い匂い 3
テストという名の巨大な山を無事に越え、玲との約束も取り付けた日の夜、すっかり安心しきって自宅のベッドに倒れ込んだ凪の手の中で、スマートフォンが小刻みに震えた。画面を点灯させると、そこにはすでに見慣れたグループトークのタイトルが表示されていた。
「ダイビング部(仮)」
美央が勝手に書き換えたそのタイトルも、今やこの三人の間ではすっかり公認の、切っても切れないアイデンティティとして定着していた。
『バイト終わったー! 疲れたよー(泣)』
美央からのメッセージには、白目をむいて魂が口から飛び出しているキャラクターのスタンプが添えられていた。試験最終日の放課後、解放感に浸る間もなく引越し業者の過酷な現場へと向かった彼女のバイタリティには、呆れを通り越して畏敬の念すら覚える。
すかさず、みどりが返信を叩き込んだ。
『テスト直後にガッツリとシフトを入れる美央が自業自得だわ』
画面に表示される「既読」の数字が瞬時に「2」に変わる。このスピード感。物理的な距離は離れていても、今、この瞬間に三人が同じ画面を見つめ、指を動かしている。そのタイミングの重なりが、凪にはなんだか無性に面白く、そして温かく感じられた。
凪も同じリズムで会話に加わる。
『美央、お疲れ! 本当にタフだね。……あ、それと。みどり、チケット本当にありがとう』
『いいってことよ。有効に使えよ』
『早速、今週使わせてもらいます!』
『お! 誘えたんだな。よかったじゃん! 楽しみだね』
みどりの返信はいつも簡潔だが、その裏側にある「作戦成功」を祝うような空気感が伝わってくる。みどりは本当にすごい。ただクールなだけじゃなく、いつも先を見た行動を起こせて、全体を一番いい形にまとめ上げる術を知っている。まさに、チームにとっては優秀な司令塔だ。
そこへ、事情を把握していない美央が、画面を埋め尽くさんばかりの勢いで食いついてきた。
『なになに!? チケットって何の話!?』
『のとじま水族館のチケットを、凪にあげたんだよ』
『えー! 水族館! いいなー! 私も行きたい! ペンギン見たい! ジンベエザメと泳ぎたい!』
画面越しでも、美央が鼻息を荒くして身を乗り出しているのが手に取るようにわかる。彼女の言葉はいつも体温を持っていて、部屋の空気を一気に真夏のように変えてしまう。
『ごめん。今回は、玲と二人で行ってくるよ』
『美央ー、また今度、みんなで行こうぜ。今回は二人にしてあげよう』
凪が申し訳なさを込めて送ると、間髪入れずにみどりからの援護射撃が入った。
今回のイベントが、凪と玲の距離を修復するための極めて繊細なミッションであること。第三者の介入は、化学反応を阻害する不純物でしかないこと。そして、美央は大人しくバイトに励み、軍資金を稼ぐことに専念せよという冷徹な指示。美央は反撃も空しく、白旗を掲げるしかなかった。
文字だけでこれほどまでの圧をかけられるのは、みどりの才能だろう。
美央は分かりやすく意気消沈したのか、画面の中では体育座りをしてうなだれる熊のスタンプが、ぽつんと1つだけ送られてきた。
しかし、美央の落ち込みは長くは続かない。彼女がこのチームの「心臓」であることを証明するかのように、次に送られてきたメッセージが、凪の胸を激しく高鳴らせた。
『それはそうと! 本題だよ! 瑞稀先生から連絡きた!』
凪は思わずベッドから体を起こし、画面を凝視した。
『8月4日〜7日で予約押さえてもらったよ! 台風とか、よっぽどのことが来ない限り、ここで確定だって!』
カレンダーの数字として提示された、具体的な四日間。
文字としてその日程を見た瞬間、やる気と楽しみが心の底からマグマのように吹き出してきた。
『OK! 了解。こっちもバイト、いよいよ大詰めやちゃ』
「大詰めやちゃ」と、つい口調までも、美央の熱量に引きずられる。書店での品出し、レジ打ち。足のむくみも、労働の疲れも、すべてはこの四日間のためにある。そう思うと、体の奥から新しい力がみなぎってくるのを感じた。
『詳しいことは学校で説明するね! 瑞稀先生も、凪ちゃんに会えるの楽しみにしてるって!』
美央は、過酷なバイト終わりに、一人で瑞稀先生と連絡を取り合い、私たちの未来を形にしてくれていた。自分が玲との関係に悩み、テストに追われていた裏で、彼女が黙って準備を進めてくれていたのだ。その献身的な明るさに、凪は胸が熱くなった。
『ありがとう、美央。本当にありがとう』
感情が溢れて、シンプルな言葉しか出てこなかった。けれど、それが今の凪の精一杯の、そして最大限の感謝だった。
画面の向こうで、美央もきっと笑っている。
すぐに、親指を力強く立てた「GOOD」マークのスタンプが返ってきた。
凪はスマートフォンを胸に抱き、天井を見上げた。
「頑張らなきゃ……」
独り言は、心地よい夜の静寂に吸い込まれていった。
期末テストという嵐が過ぎ去った翌日の学校は、どこか現実味のない、ふわふわとした熱気に包まれていた。
セミの声が混じり始めた窓の外からは、湿り気を帯びた夏の色が忍び寄っている。教室の中では、答案用紙の返却を待つ生徒たちが浮き足立ち、教壇に立つ先生たちもまた、採点業務の山を前に心ここにあらずといった様子だ。学校全体が、夏休みという巨大な祝祭を前にした、独特の「待ち」の状態にあった。
そんな中、凪、美央、みどりの三人は、中庭のベンチに集まっていた。彼女たちにとっての「夏」は、単なる休暇ではない。それは、自分たちの力で掴み取ろうとしている「冒険」の始まりを意味していた。
「はい、これ。瑞稀先生から預かってきたよ」
美央がカバンから取り出したのは、体験ダイビングの時にも目にした、見覚えのある書類だった。講習申込書、そして健康状態に関する質問票と同意書。けれど、あの時とは重みが違う。これは「お客様」として海を覗くためのチケットではなく、自分の意志で海へ潜るための、「ダイバー」としてのパスポートを申請する書類だ。
「とりあえず、これを速攻で出す必要があるみたい。八月四日にはもう講習が始まるから、逆算してすぐに教材を手配しないと間に合わないらしい」
美央の言葉に、凪はゴクリと唾を飲み込んだ。
「お金は……どうすればいいの?」
「七月末までに、ここの口座に振り込みだって。講習費、教材代、それから申請料。全部まとめて」
三人は顔を見合わせ、言葉ではなく視線で、互いの覚悟を再確認した。
7万円。
高校生にとって、それは決して「なんとかなる」金額ではない。これまでの数週間、放課後の時間を削り、足のむくみに耐え、眠気と戦いながら積み上げてきた労働の結晶だ。その重みを知っているからこそ、交わす視線には静かな熱が宿っていた。
書類は今日中にそれぞれが保護者のサインをもらい、翌日、学校で美央が三人分をまとめて瑞樹先生のもとへ持っていくことになった。
「……いよいよ、始まるね」
凪が呟くと、みどりが手元の書類を指先でなぞりながら、自分に言い聞かせるように続けた。
「とにかく、ライセンスを取ることが第一優先。スケジュールが関わるからな。部活の立ち上げとかは、全部その後だな」
「うん。まずは『ダイバー』になってからだね」
凪は手元のスマートフォンを開き、カレンダーを確認した。
「あと二週間ちょっとか。テキスト、いつ届くかな?」
その言葉に、みどりの表情がピクリと強張った。
「……ねえ、それ。やっぱり、事前に勉強しなきゃいけないんだよね?」
「んー、わかんない。でも、瑞稀先生は『テストもある』って言ってた……。」
ライセンス。響きは華やかだが、実態は「Cカード」と呼ばれる技能認定証だ。車やバイクの免許と同じように、そこには専門的な知識を問う筆記試験が待ち構えている。水圧の影響、浮力の計算、減圧症のメカニズム。何の知識もなしに、ただ海に飛び込めばいいというわけではない。
「やばい。……私ら、まだ実質テスト終わってないじゃん!なんか、期末より緊張してきたんだけど」
みどりの不安が、震える声となって凪にも伝染してきた。勉強が苦手な学級委員長にとって、「未知の試験」は期末テスト以上のプレッシャーなのだろう。三人で教科書を囲んだ時に元素記号を復唱していた彼女の努力が、また別の形での闘いを強いられようとしていた。
「大丈夫だよ! 瑞稀先生、すぐできるようになるって言ってたし!」
美央が、太陽のような明るさでみどりの肩を叩く。根拠のあるのかないのか分からないそのポジティブさに、みどりは縋りたい気持ちと呆れが入り混じった複雑な眼差しを美央に向けた。
「そういえば、二人とも。合宿当日まで、バイト入れてるの?」
凪が尋ねると、みどりは反射的に答えた。
「うん、まぁまぁがっつり。合宿でもお金いるし、その後の活動資金も必要だしな」
「私も、それなりに。ダイビングって、ライセンス取った後も何かとお金かかりそうだし?使えるお金は多いに越したことないかなって」
凪も同じだった。本屋のシフトは、夏休みに入ればさらに増える。学校で顔を合わせることはあっても、目の前に控える長い休日に「遊びに行く」という選択肢は、今の彼女たちにはもうなかった。
次にこの三人で、全力で笑い、遊び、そして挑戦できるのは、もうあの青い海の上なのだ。凪は、その事実を静かに悟った。
「……あっという間だけど。がんばろうね」
それを見た美央が明るく凪に微笑みかける。
「じゃぁ、今日の放課後、3人でカラオケ行こ」
「お、いいねー!」
みどりが賛成する。
「凪ちゃんも行くでしょ? めっちゃ遊びたそうにしてたから」
美央にしっかり心を読まれて、顔を少し赤らめて慌てふためく凪。たとえ友達の前といえど、歌を歌うのは恥ずかしすぎる。友達とカラオケなんて行ったこともない。歌に自信もない。中学の音楽の授業の時も、クラスメイトの目の前で歌わされた時は死にたくなるほど上がってしまって、心の底から嫌いな時間だった。
「凪ちゃん、今日バイト?」
三人で出かけられる時間ができたのは嬉しい。ただ、さすがに行き先は変えてほしくて、凪はおそるおそる口を開いた。
「ううん。違うよ。……あのさ、カラオケ以外にしない?」
「え?カラオケ嫌いなん?」
今度は、みどりに図星を突かれたように返される。
「……行ったことない」
「まじ!?」
「じゃ、カラオケだな。」
即決だった。
磁石が反発するみたいに、思わず体をのけ反らせて焦る凪。その様子を見て、みどりはニヤリと笑う。
「何事も挑戦だよ、青春少女」
そう言うみどりに、美央もくすくす笑いながら続けた。
「絶対楽しいよ」
気がつけば、半ば巻き込まれる形で、放課後の約束はカラオケに決まっていた。
カラオケに入ると、美央もみどりも、最初から全力だった。喉が枯れるんじゃないかと思うくらい、思いきり声を張り上げて歌っている。その勢いに圧倒されながらも、凪はその空気がやけに楽しく感じられた。
サビだけなら聞いたことのある曲もいくつかあったが、ほとんどは知らない曲ばかりだ。それでも二人は次から次へと入れては歌いこなしていて、よくそんなに知っているなと感心する。
終盤になって、「凪は何か歌わないの?」と半ば強引に聞かれ、しぶしぶ思い出したのは、昔好きだったアニメのオープニングだった。小さな声でタイトルを口にすると、
「それ知ってる!」
「私も好きだった!」
二人はすぐに食いつき、嬉しそうに曲を入れる。
流れ出したイントロに背中を押されるようにして、三人で声を合わせて歌った。最初はぎこちなかった凪も、気づけば一緒になって声を張り上げている。
初めてのカラオケは新鮮で、思っていたよりずっと面白かった。歌い終えたあと、胸の奥に溜まっていたものがすっと抜けていくようで、気づけば気分も軽くなっていた。
終了の時間を迎えて店を出ると、喉の奥に残るかすかな熱と、耳に残る余韻がすごい。胸の中に、小さな灯りがともったような感覚がある。それを確かめるように、凪は一度だけ空を見上げた。
今日という時間が、ゆっくりと、自分の中に沈んでいく。そんな気がした。




