水族館の魔法 1
二人での帰り道に「またね」と手を振るあの三差路。見慣れたはずのその場所が、今日は特別な約束の場所に変わっていた。
凪は少し早めに到着して、ガードレールに軽く腰をかけていた。凪にとって、玲と一緒に遊びに出かけるというのは、一体いつ以来のことだろう。中学の時の小さな外出が最後だったか、あるいはそれよりも前だったか。記憶の引き出しをどれだけひっくり返しても、今のこの期待と不安が混ざり合った高揚感に合致する思い出が見当たらない。
(なんか……変に緊張するな)
手のひらに少しだけ滲んだ汗を今日の私服のデニムで拭う。約束の時間が近づくにつれ、心臓の鼓動が耳の奥まで響いてくるようだった。
その時、緩やかな坂道の向こうから、一台の自転車が猛烈な勢いでこちらに向かってくるのが見えた。立ち漕ぎで必死にペダルを回し、長い髪を後ろになびかせている。玲だ。
その姿を見つけた瞬間、凪の胸の内にあった硬い緊張の氷が、パキリと音を立てて解けていった。自然と頬が緩み、抑えきれない笑みがこぼれ落ちる。
玲は凪の目の前で音を立てて自転車のブレーキをかけると、肩で大きく息を切らしながら地面に足を突いた。
「……はぁ、はぁっ!……おはよ、凪!」
「おはよ。そんなに急がなくても、まだ時間ちょうどだよ?」
「だって、待たせたら悪いかなって思って。」
改めて言葉を交わし、二人の視線が真っ直ぐにぶつかる。
そこで凪は、ハッとした。
制服という記号を脱ぎ捨てた玲を見るのは、本当に久しぶりだった。淡いパステルカラーのブラウスに、少し暗めの色の大人びたパンツスタイル。綺麗な長い黒髪が風に揺れるたびに、彼女の大人びた佇まいへ、静かに色気が重なっていく。
「今日、めっちゃ楽しみにしてた。」
凪が今度は弾むような声で返すと、玲は満足そうに微笑んだ。
「ふふっ。……行こ」
玲の背中を追うように自転車を漕ぎ出すと、不思議なことにさっきまでの緊張はどこかへ消え去っていた。玲の隣にいると、変に背伸びをする必要がない。飾らない自分でいられるその空気感が、たまらなく心地よかった。
二人は自転車を駅の駐輪場に預けると、まずは最寄駅から金沢駅へと向かった。行きの電車内では、学校の先生のモノマネや、最近ハマっている動画の話など、たわいもない話題で途切れることなく盛り上がった。中学時代に戻ったかのような無邪気な時間が流れる。
金沢駅で七尾線に乗り換え、目指すは能登の奥座敷、和倉温泉駅だ。ホームで電車を待っている間、屋根を突き抜けてくるような強烈な日差しが二人を襲った。
「暑っ……!これ溶けるよね?」
玲が手で顔を扇ぎながら眉根を寄せる。
ジリジリと肌を焼くような感覚。首元からは、はっきりと汗が伝い落ちるのがわかる。
「最近の夏って、ちょっと異常だよね」
凪はハンカチで額を拭いながら、ふと遠い未来に思考を飛ばした。
「毎年最高気温を更新してるし?私たちが社会人になってる頃には……日本の夏ってどうなっちゃうんだろう」
「40度超えが当たり前、とか?」
「うーん、それどころか45度を軽々と超えてるかも。外に出るだけで危険、みたいな。」
「そしたら私、家から出ないで本読んでるなー」
玲の呑気な返答に、凪は思わず吹き出し、じっとりと肌にまとわりつく暑さの中にも、ほんの少しだけ涼しい笑いが生まれた。
和倉温泉駅に到着すると、駅前には潮の香りが微かに混じった風が吹いていた。
「バスって、あれじゃない?」
玲が指さした先には、ジンベイザメとイルカのイラストが大きくラッピングされた、なんとも可愛らしいシャトルバスが停まっていた。のとじま水族館行きの直通バスだ。
改札を抜けて、吸い込まれるようにバスに乗り込む。他に乗客の姿はなく、図らずも貸切状態となった車内に、二人のテンションはさらに跳ね上がった。
「なんか、小学校の遠足みたい!」
そんな会話をしながら、バスは市街地を抜け、いよいよ能登島大橋へと差し掛かる。
車窓いっぱいに、ダイナミックな七尾湾の景観が飛び込んできた。
空の青をそのまま映したような深い紺碧の海。遠くに見える緑豊かな島々。橋の最高地点に差し掛かると、まるで海の上を飛んでいるような錯覚に陥る。
「「おおおおおーーーっ!!」」
二人の声が重なった。どちらからともなくスマホを取り出し、窓越しにシャッターを切りまくる。
「見て玲!海がキラキラしてる!」
「すごい、吸い込まれそう……!」
興奮冷めやらぬ車内。不意に玲が、窓の外をじっと見つめたまま、ポツリと呟いた。
「……イルカ、いるかな?」
一瞬、静寂が訪れた。
凪は、自分の耳を疑った。今、このおしゃれで可愛くも大人びた親友は、真面目な顔をして何を言ったのだろうか。
聞き間違いであろうという願いを込めて、凪は無言のまま、ゆっくりと玲の方を向いた。
玲は、自分の放った言葉の破壊力に数秒遅れて気づいたらしい。顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「ち、違うよ!凪!そういう意図じゃないから!今の!」
玲は両手をバタバタさせながら、必死に言葉を紡ぐ。
「能登島って、野生のイルカが住み着いてるんだよ!有名なの!だから、水族館じゃなくても海に顔を出すことがあるんだって!」
「……え、あ、そうなんだ?」
凪は納得した。納得はしたが、それ以上に「玲がベタなダジャレを口にした」という事実が、じわじわとおかしくなってくる。いつもはクールで、少し大人びて見える玲が、よりによってこんなタイミングで。
「……ふふっ。」
「ちょ、何ニヤニヤしてんのよ!」
「いや、だって……『イルカいるかな?』って、そんなベタな。……あははは!」
ついに凪の我慢が限界を迎えた。お腹を抱えて笑い転げる凪に、玲は顔を真っ赤にしたままプリプリという擬音が聞こえてきそうなほど怒り出した。
「うるさい!もう!そういうのは、聞こえなかったことにするのが、友達としてのマナーでしょ!?」
「ぷっはははは!そんなマナー知らないし!『イルカいるかな』……最高すぎる!」
「あーもう!忘れて!今すぐ脳内から消去して!」
誰もいないバスの中で、二人の笑い声が反響する。
呆れる玲と、笑いすぎて涙を浮かべる凪。窓の外には、穏やかな能登の海がどこまでも広がっている。
きっと、この先何度夏が来ても、気温が何度になろうとも。今日のこの「イルカ」の件だけは、一生擦り倒して笑い合える自信があった。
バスの扉が開いた瞬間、待ち構えていたかのような潮風が二人の髪を激しくなびかせた。
磯の香りと、どこか重みのある湿り気を帯びた空気。それが鼻腔を強く刺激し、「海に来たんだ」という実感を五感のすべてに刻み込んでくる。
凪は、友人であるみどりから譲り受けた割引チケットを二枚、財布の奥から慎重に取り出し、受付で学生証を提示する。窓口のスタッフから手渡された入場券は、少しだけ厚手の紙で、ジンベイザメが映った可愛いチケットだった。
「こういう観光地のチケットっていつまでも財布の中にしまっちゃうんだよね」
「あーちょっと分かる」
チケットの片方を手渡すと、玲はそれを大事そうに指先で挟んで、少しだけ子供のように跳ねる足取りで歩き出した。
自動ドアの向こう側へ足を踏み入れると、そこは外の酷暑とは切り離された、静謐で深い青の世界だった。
冷房の効いた空気に混じって、さらに凝縮された海水の匂いが立ち込める。その独特な香りは、より深く、より神秘的な海の底へと誘う合図のようだった。
通路は少し薄暗く、眼前に広がる水槽が青い光を放っている。その光に照らされて、無数の魚たちが銀色の鱗を輝かせながら、音もなく、優雅に舞っていた。
「おぉ……きれい……」
凪は、誘蛾灯に引き寄せられる虫のように、ふらふらと一番大きな水槽の窓へと歩み寄った。
分厚いアクリルガラスに、鼻先が触れんばかりに顔を寄せる。視界がすべて青一色に染まり、自分も水の中に溶け込んでしまったかのような錯覚。
その時だった。
水槽の上方、視界の端の死角から、巨大な影が「ぬうっ」という擬音が相応しい重厚感でそれは姿を現した。
「……わぁっ、大きい!」
思わず声を上げて後ずさりした凪の目の前を、ジンベイザメがゆっくりと通過していく。
それは、重力から完全に解放された巨大な飛行船のようだった。大きな体躯に散りばめられた白い斑点模様が、水槽の照明を反射して星屑のように瞬く。ゆったりと尾ひれをくゆらせ、悠然と水を捉えて進むその姿には、言葉を失わせるほどの神聖さが宿っていた。
「凪、ちょっとそのまま動かないで」
背後で玲の声がした。振り返ると、玲はいつの間にかリュックから重厚な一眼レフカメラを取り出し、レンズを構えていた。
カシャ、カシャッ、と軽快なシャッター音が、静かな館内に響く。
ファインダー越しにジンベイザメを見つめる玲の瞳は、真剣そのものだった。
「……すごいね、この迫力。」
玲が吐息をもらすように呟く。
ジンベイザメの姿を見て、凪の胸の奥には、ある熱い感情が込み上げてきた。
(この景色を、もっと近くで……ガラス越しじゃなくて、同じ水の中で一緒に見てみたい)
凪の脳裏には、ダイビングで潜った時の、あの静寂と躍動が同居する世界が浮かんでいた。自分の吐き出す泡の音だけが聞こえる、深く、自由な蒼。そこで出会う魚たちとの、境界線のない対峙。
玲をダイビングに誘いたい。けれど、凪はそれをぐっと胸の奥にしまい込んだ。
今日の凪には、自分自身に課した「禁句」があった。それは「ダイビング」という言葉だ。
玲を誘いたいのは本心だ。けれど、今ここで「ダイビングしたら、もっと近くで見れるんだよ」なんて言ってしまったら、それは一方的に自分の世界に玲を引っ張り込もうとしているだけのように思えた。
今の二人が共存していない世界――つまり、ダイビングを「やっている側」と「やっていない側」という対比を軸に話を広げてしまったら、彼女は疎外感を感じて、かえって心のシャッターを閉ざしてしまうのではないか。そんな直感があった。
今はただ、同じ高さの目線で、同じガラス越しに、この感動を共有したい。無理に手を引くのではなく、玲が自ら「あっち側に行ってみたい」と思うその瞬間まで、凪は待つつもりだった。
二人はその後も、迷路のような館内を隅々まで歩き回った。
回遊魚のトンネルでは、プロジェクションマッピングでカラフルに彩られたトンネルを、ハイスピードで駆け抜けるブリやタイの大群に圧倒された。玲は何度もシャッターを切り続け、目の前の光景を必死に切り取っていく。
水槽全体を覆ってしまうくらいに巨大なミズダコに驚き、水槽の底でじっとしている不器用そうなカニの動きにツッコミを入れる。体験コーナーではナマコを触ったり、ドクターフィッシュにも挑戦した。
恐る恐る手を入れると、小さな魚たちが一斉に指先に群がってくる。
「きゃっ! くすぐったい!」
「うわっ、やばい!これ変な感じ!」
顔を見合わせて爆笑する二人の姿は、あの頃の親友同士の姿そのものだった。
いつの間にか、朝に感じていたような妙な緊張感や気恥ずかしさは消え失せていた。
屋外のエリアに出ると、ちょうどペンギンのお散歩タイムが始まっていた。
飼育員さんの後を、短い足を精一杯動かして「よちよち」と、あるいは「ペタペタ」と歩くマゼランペンギンたち。
「見て、あの右から二番目の子、サボろうとしてない?」
「あはは、本当だ。お腹が重いのかも」
平和な会話と平和な時間。二人はかわいいペンギンの群れをそっと後ろから追いかける。
その後のイルカ・アシカショーは、この日のハイライトだった。
音楽に合わせて力強く水面を跳ね、空中で美しい放物線を描くイルカたち。そして、鼻先で器用にボールのバランスを取りながら、客席に向かって愛嬌を振りまくアシカ。一糸乱れぬパフォーマンスと、トレーナーとの信頼関係を目の当たりにして、二人は何度も「すごいね!」と拳を握りしめて歓声を上げた。会場を包む拍手の中で、凪はふと玲を見た。玲の瞳はキラキラと輝き、頬は高揚で赤らんでいる。
ショーが終わる頃には、二人の距離はすっかり「親友」のそれに戻っていた。




