水族館の魔法 2
ウミガメが悠然と四肢を動かし、深い緑の甲羅をゆらりと揺らしながら水槽の奥へ泳ぎ去っていく。凪はその姿を最後まで目で追ってから、弾んだ声で玲の手を引いた。
「ねぇ、次行こ! こっち、アザラシいるって!」
ついさっきイルカショーを見終えたばかりだというのに、凪の興奮はまだ冷める気配がない。宝探しに夢中になった子どものように目を輝かせながら、軽やかな足取りで次の施設へ向かっていく。玲もそんな凪の後を、穏やかな足取りでついてきていた。
「……あ、うん。そうだね」
返事が、ほんの少しだけ遅れる。
凪は一瞬だけ足を止め、振り返った。玲はちゃんとこちらを見ている。けれど、その視線は凪を追いかけながらも、どこか別のものを探しているようにも見えた。人の流れる通路の向こうへ、一瞬だけ目を向けている。
「どうしたの?」
「ううん、何でもない!」
凪は深く考えないようにして、「ほら、あっち!」と玲を呼びながら、円柱形の水槽へ駆け寄る。中では丸々としたアザラシが、ユーモラスな動きで水の中を泳ぎ回っていた。
凪がガラスに顔を寄せ、アザラシのつぶらな瞳に夢中になっている間だった。
ふと気配が離れた気がして振り向くと、玲はいつの間にか少し先へ歩いていた。まるで何かに引き寄せられるように、ホールの中央に鎮座する巨大な水槽へ向かっていく。
そこには、数千、数万というイワシの群れがいた。それはもはや個々の魚の集まりではなく、オーケストラが壮大な交響曲を奏でるかのように、完璧な全体最適の動きを見せていた。一匹の意思が全体に伝播し、巨大な一つの生き物へと形を変えていく。上部から差し込む外光を浴びた銀色の体が、あらゆる方向に光を乱反射させ、水中を万華鏡のように彩る。その圧倒的な光の渦、命の躍動。
玲は立ち尽くし、その光景に心を、そして目を、完全に奪われていた。
アザラシの可愛らしさに満足した凪が目にしたのは、青い光に包まれて微動だにしない親友の背中だった。
凪は息を整え、ゆっくりと、彼女の孤独を邪魔しないように近づいていく。
「……綺麗だね」
「うん、すごく。綺麗。」
玲の声は震えていた。感嘆というよりも、何かに深く打ちのめされたような、切実な響き。
玲の少し後ろからイワシの水槽を見上げる凪の頭の中には、ある景色が鮮明に蘇っていた。
それは、福井の海の中で、肌に触れる水圧を感じながら見た「本物」の景色だ。
水族館という箱の中で見るこの光景が、見劣りすると言いたいわけではない。けれど、五感のすべてを動員して、冒険の末に出会ったあの奇跡のような瞬間。仲間と一緒に泡を吐き出し、ただ無心に見上げた銀色のカーテン。
人は経験がないと、本当の意味で知ることができない。あの肌感覚を伴った「本物」の感動は、ここにあるものとは全く別の、唯一無二の物語であることを、今の凪は知っている。
(この景色を、やっぱり玲と一緒に見たい。)
純粋で、あまりにも真っ直ぐな願いだった。
理由は単純だ。
玲が今「綺麗」と漏らした瞬間、凪には分かってしまった。この景色はきっと、玲の心のどこかがずっと求めていたものなのだと。
互いの好きな食べ物も、苦手な教科も、何に心を動かされるかも、知り尽くしてきた親友。玲の瞳の輝きを見れば、ただの興味なんかじゃないことも凪には分かってしまった。だからこそ、どうしても、自分が見たあの世界へ、彼女と一緒に踏み出したいと願わずにはいられない。
「あのさ、玲……。」
凪は、自分との約束を忘れ、思わず口を開いていた。ダイビングという言葉は、今日は出さないと決めていたはずなのに。その言葉を出した瞬間、きっと今の空気が変わってしまう気がしていたから。
直接的な表現を避けようと、焦って脳内の回路を回すが、言葉がまとまらない。胸の奥にある気持ちばかりが先に溢れて、肝心の言葉だけが喉につかえてしまう。
沈黙が二人の間に落ちかけた、そのときだった。
「凪。……ごめんね」
先に口を開いたのは、玲だった。
「え?」
思わず聞き返すと、玲はゆっくりとこちらへ体を向ける。
水槽の光が、水面の揺らぎとともに玲の横顔を青く照らしていた。きらきらと反射する淡い光。その半分は光の中にあり、もう半分は深い影に沈んでいる。
玲はまっすぐ凪を見つめたまま、ずっと胸の奥に押し込めていた感情を、静かに吐き出した。
「私、たぶん……嫉妬してたんだ。」
その告白は、凪の想像もしなかった方向から飛んできた。
「最初はね、美央の明るさがちょっと苦手だったの。どう接したらいいのか分からなくて。なのに、気づいたら凪とすぐ仲良くなっててさ。二人で楽しそうに話してるのを見てたら、なんだか置いていかれたみたいな気持ちになって。」
ぽつり、ぽつりと、言葉がこぼれていく。そして少しだけ苦しそうに眉を寄せ、小さく息を漏らした。
「……凪を取られたみたいで、嫌だった。」
その言葉が、凪の胸をチクリと刺した。
「どうしたらいいか分からないまま時間だけ過ぎて、そのうち二人は『ダイビングを始めよう』って、新しい世界にどんどん進んでいって……。私、泳げないのに、って」
玲の声が、わずかに震える。
「置いていかれた気分になって、無性に腹が立って。……それなのに、勝手に寂しくなって。凪は、私の親友なのに、って。」
凪は何も言えなかった。
ただ、玲の言葉を一つも取りこぼさないように、黙って聞き続ける。
「ここ最近、二人を避けてたのも、何も言わずに態度悪くしてたのも、本当に反省してる。ごめんなさい」
玲は視線を落とし、自嘲するように小さく笑った。
「……前に百瀬さんと話したとき、初めて気づいたの。私の方が、凪に依存してたんだって」
青い水槽の光が、静かに玲の横顔を揺らしている。
「凪はただ、新しい世界に踏み出そうとしてただけなのに。私はそれを応援することもしないで、勝手に拗ねて、わがままに振る舞って……」
玲はそこで一度息を詰まらせ、それでも言葉を止めなかった。
「……たぶん、怖かったんだと思う。凪がどんどん前に進んで、自分だけ置いていかれるのが。もし凪が隣にいなくなったら、私には何も残らないんじゃないかって」
「そんな……」
凪が何かを返そうとした瞬間、その言葉を押し切るように玲は続ける。
「今日、久しぶりに凪と出かけられて、やっとちゃんと話せた。本当にごめん。……もう遅いかもしれないけど、今はちゃんと、二人のこと応援してるから」
「え……待って、玲」
胸の奥を、冷たいものが一気に駆け抜けた。
玲の言葉が、まるで別れを告げているみたいに聞こえたからだ。
玲は無理に笑おうとするように、かすかに口元を緩める。
「私も、何か始めてみるよ。一人でできること。そしたら……いつか凪も、私のことを応援してくれる?」
一人。
その言葉が、鋭く凪の胸に突き刺さる。せっかく取り戻しかけていた距離が、また離れていく。伸ばしかけた手のひらから、玲がするりとこぼれ落ちていく。そんな感覚がした。
嫌だ。頭の奥が熱くなる。胸が苦しい。
考えるより先に、体が動いていた。
凪はほとんど倒れ込むような勢いで玲に歩み寄り、その細い肩を強く抱きしめる。
壊れてしまいそうなくらい細いのに、離したくなくて、腕に力が入った。
「一人なんて言わないでよ!」
叫ぶように吐き出した瞬間、堰き止めていた感情が一気に溢れ出した。
涙が、止まらなかった。
「一緒にいよう。一人でなんて、そんなの寂しいよ……。一緒に、海に行こうよ!」
凪は涙混じりの声で、必死に言葉を絞り出した。
「バカ言わないで。……私には無理だよ。」
玲もまた、震える声でそう返す。
拒絶したいわけじゃない。けれど、自分には踏み出せないと、そう言い聞かせるように唇を強く結んでいた。
「違う!」
凪はさらに腕に力を込める。
「私が一緒にいたいの! 私が玲と一緒にあの景色を見たいんだよ! どうしても、玲を連れていきたいの!」
凪の真っ直ぐすぎる想いに、玲はもう何も言い返せなくなっていた。
奥歯を噛み締めるようにして涙をこらえ、それでも堪えきれなかった雫がぽろぽろと零れ落ちていく。
玲は凪の肩にそっと額を預けた。まるで、縋るみたいに。
巨大な水槽の中では、銀色のイワシたちが群れをなし、光を反射させながら激しく舞っている。
青く揺れる光の前で、二人は互いを抱きしめたまま、震える声で想いをぶつけ合っていた。
凪の涙は、もう止まらなかった。
玲もまた、唇を噛みながら、溢れそうになる感情に必死に耐えている。
——そのときだった。
ふと、周囲の視線に気づく。
静かな館内に、自分たちのすすり泣く声が思った以上に響いていた。通りがかった家族連れが、心配そうにこちらを見ている。小さな子どもが不思議そうに足を止め、母親に手を引かれて去っていく。
玲はハッとしたように顔を上げた。
「……っ、凪、場所変えよ。恥ずかしい……」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を隠すようにしながら、玲が小声で呟く。
その言葉に、凪もようやく我に返った。二人は慌てて互いから離れると、逃げるように展示エリアを抜け出し、そのまま屋上の展望広場へ向かって駆けていった。
屋上の扉を開けると、そこには遮るもののない能登の空と海が広がっていた。
さっきまでいた冷房の効いた空間とは一転して、熱を帯びた、けれど勢いのある海風が二人を包み込む。その風が、涙で濡れた凪の頬をつんと冷やし、高ぶっていた心拍数を少しずつ落ち着かせていく。
二人は並んで、白く塗られたベンチに腰を下ろした。
凪はカバンから取り出したハンカチで丁寧に目元を拭い、玲もまた、自身の長い髪を整えながら、遠く水平線を見つめている。
沈黙を破ったのは、凪だった。
「……ダイビングのことなんだけどね。この前、体験しに行った時に、瑞稀さんっていうインストラクターの先生に会ったんだ」
凪は言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。
「その瑞稀さんがね、『泳げなくてもダイビングはできる』って、教えてくれたんだ。」
玲は、凪の言葉を遮ることなく、黙って隣で聞いている。
「最初は信じられなかったの。水中であんなに自由に、飛び回ってるのを目にしたらね。でも、その瑞稀先生も、実は最初は水が怖かったんだって聞いて。」
凪はベンチの端をぎゅっと握りしめ、玲の方へ体を向けた。
「それが理由のすべてってわけじゃないけど……私は、玲の好きなもの、わかっているつもり。だから。さっき、あのイワシの水槽を見てた玲を見た瞬間、確信したんだ。海の中で私が見たあの景色は、本当に綺麗で、幻想的で……これは、絶対に玲が好きなものだって。だから、それを玲と一緒に見たいなって思っちゃったの」
「……そっか」
玲の返事は短く、温度を読み取れない。
「勝手なことだってわかってる。私のわがままだよ。でも、私はあの世界に、玲を連れていきたい。本物の海に。」
凪は、固まったまま動かない玲の表情を、恐る恐る伺った。
玲は口をつぐみ、ただ地面に落ちた自分の影を見つめている。
時間は残酷なほど静かに流れていった。
太陽は真上で燦々と輝き、海面はキラキラと無数のダイヤを散りばめたように晴れやかだ。景色はこれほどまでに開放的なのに、二人が座っているベンチの周りだけは、まるで真空地帯のように時が止まってしまったように感じられる。
(……言い過ぎちゃったかな。玲にとっては、水に飛び込むなんて、ものすごく勇気がいることだってわかってたのに)
感情が先行してしまった後悔が、じわじわと凪の心を支配し始める。断られたらどうしよう。今のこの「親友」の関係さえ、無理に誘うことで壊してしまったのではないか。下唇が不安で引きつりそうになる。けれど、凪には他に切り札がなかった。とにかく、今この瞬間、玲と繋がっているかすかな感触を、絶対に離してはいけないと必死だった。
「あのさ、……始めるか始めないかを決める前にさ、一度、瑞稀先生たちと会ってみない? 今度、海でバーベキューに誘われてるんだ。」
記憶の片隅からなんとか絞り出した凪の必死な提案に、玲がゆっくりと顔を上げた。
そこには、拒絶の色はなかった。むしろ、凪が息を呑むほど穏やかで、優しい眼差しがあった。
「……そんなに、綺麗だった?」
玲の声は、風に溶けてしまいそうなほど静かだったけれど、確かな好奇心が宿っていた。
凪はハッとしたように顔を上げる。胸の奥で、消えかけていた火が一気に灯る。
反射的に、勢いよく強くうなずいていた。
「うん。もう忘れられないくらい!本当に綺麗だったよ!」
言葉にするほど、あの海の景色が鮮明に蘇る。
光が差し込む青い水の中。
無重力みたいに漂う感覚。
息を呑むほど静かな世界。
そして何より——
その景色を、玲と見たいと思った気持ち。
凪の熱を帯びた言葉を受け止めながら、玲は静かに目を細めた。
「……そっか」
その声は、どこか遠くを見つめるように柔らかかった。
潮風が髪を揺らす。
玲はゆっくりと空を仰ぎ、大きく息を吸い込む。そして肺の奥に溜め込んでいた迷いを吐き出すみたいに、大きく短く息を吐いた。その横顔が、少しだけ変わった気がした。何かを恐れて立ち止まっていた表情ではなく、自分の足で前を向こうとしている顔。
玲は、すくっとベンチから立ち上がる。
「玲?」
凪もつられるように顔を上げた。
玲はそのまま、遠くの水平線を見つめていた。
夏の光を受けて輝く海。どこまでも続いていく青。その景色を見つめたまま、玲はぽつりと呟く。
「その瑞稀先生って人、今度会わせて。……一回、ちゃんと話してみたい」
その瞬間、凪の視界がぱあっと開け、心臓が大きく跳ねた。
胸の奥に重たく居座っていた不安や焦りが、夏の強い陽射しに焼かれるみたいに、音もなく溶けていく。
嬉しい。ただ、それだけで胸がいっぱいになる。
気づけば凪は、泣きそうになるくらいの笑顔を浮かべていた。太陽の光さえ霞んで見えるほど、世界が明るく見えた。
「本当!? 会ってくれる!?」
感情が爆発し、凪は勢いよくベンチから飛び上がった。
「うん。」
玲が静かに答えると、凪は思わず玲の手を握りしめた。
「っ……時間作る!約束する!」
声が弾む。胸の奥から、抑えきれない嬉しさが次々と溢れてくる。
玲が今、確かに一歩を踏み出してくれたのだと。
立ち止まっていた玲が、自分の意思で、凪のいる方へ手を伸ばしてくれた。
潮風が二人の間を吹き抜けていった。
屋上から見える能登の海は、初夏の陽射しを受けてきらきらと光っている。どこまでも続いていく青い水面が、空の境界線と溶け合うように広がっていた。
すっかり高くなった太陽は肌を焼くように照りつけている。潮風もどこか熱を帯びていて、額にはじっとりと汗が滲んでいた。それなのに、不思議と暑さなんて気にならなかった。




