水族館の魔法 3
重なり合った感情を屋上の風に預け、ようやく落ち着きを取り戻した二人は、不意に強烈な空腹を覚えた。極限まで張り詰めていた緊張が解けると、胃袋が正直に活動を再開したらしい。
「なんか……急にお腹空かない?」
「……うん。なんか食べよう。」
二人は連れ立って、館内のレストランへと足を向けた。
大きな窓の外には、穏やかな波を湛えた七尾湾がパノラマ状に広がっている。青い海を背景に、二人はカレーライスを注文した。スパイシーな香りが、疲れた脳を心地よく刺激する。空腹の時に香るレストランのカレーの匂いは、その他のメニューを選ぶことを許してはくれないほどに支配的だ。
レストランで昼食を取りながら、凪は玲の近況を聞いていた。
玲の話によると、テスト後から百瀬とよく話すようになったらしい。今の水泳部には百瀬しか部員がおらず、放課後になると、広いプールで一人黙々と泳ぎ続けているのだという。
最初はただ気になって見に行っただけだった。けれど、一人でも真っ直ぐに練習を続ける百瀬の姿を見ているうちに、自然と応援したくなったらしい。水の中にいる時の百瀬は驚くほど自由そうで、その姿を見ていると、自分まで背筋が伸びるような気持ちになるのだと玲は少し照れくさそうに話した。
凪は意外に思いながら、静かにその話を聞いていた。玲から聞く話の中に、自分の姿がないなんて、少し前までは想像もできなかったからだ。
一方で、凪もこの夏の出来事を玲に話した。ダイビングショップでのこと。インストラクターの瑞稀と出会ったこと。そして、安宅みどりが新しく仲間に加わったこと。けれど、話しているうちに、一番強く胸に浮かんできたのは、やはり海の中で見たあの景色だった。
白銀のイワシの群れ。光を反射しながら一斉に舞うその光景は、思い出すだけで今でも胸が熱くなる。凪が夢中になって話している間、玲は静かに耳を傾けていた。
そして、ふと小さく息を漏らすように呟く。
——みんな、それぞれ前に進んでたんだね。
その言葉を聞いた瞬間、凪の胸の奥にずっと引っかかっていた疑問が、再び静かに浮かび上がってきた。
「ねぇ、玲。……やっぱり、美央のこと、苦手?」
玲は食べる手を止め、窓の外の海に視線を投げた。少しの沈黙の後、彼女は穏やかに首を振った。
「ううん。最初は、美央のことがよく分からなかっただけ。……あの子ね、私の知らないところで、クラスの子たちに聞いて回ってたみたいだよ。『玲ちゃんは、私のことどう思ってるかな?』って。私と凪の間を裂くようなことしたんじゃないかって、すごく気にしてたみたい」
「えっ、そうなの!?」
凪は思わず声を上げた。美央といえば、常に明るいエネルギーを振りまき、猪突猛進で突き進むイメージしかない。そんな彼女が、影でそこまで繊細に人間関係に頭を悩ませていたなんて。
「うん。きっと、すごく繊細で、優しい子なんだろうなって今は思ってる。……ただ、あの勢いと強引さは、時々ちょっと引いちゃうけどね」
「はは……それは、ちょっと分かるかも」
凪は、美央が自分の知らないところで親友との仲を修復しようと奔走していた事実に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「私と凪が、もし本当に離れ離れになっちゃったら、あの子、きっと泣いちゃうよ。それくらい、人の気持ちを自分のことみたいに汲み取れる子だと思う」
玲の言葉に、凪はいつかの駐輪場での出来事を思い出した。あの時、美央は確かに泣いていた。自分の不甲斐なさと、大切な友達の間の不協和音に、誰よりも心を痛めていたのは彼女だったのだ。
もうすぐ夏休み。午前授業ばかりの今、学校でお弁当を囲む時間はしばらく持てそうにない。けれど、二学期を待つ必要はない。この夏休みのどこかで、三人で心から笑い合える時間を、今度は自分が作ろうと凪は心に決めた。
レストランを出る頃には、日差しは今日一番の強さに達していた。入館した時よりもさらに来客数が増え、ロビーは家族連れや観光客で賑わいを見せている。
「お土産見た後、どうしよっかー?」
「うーん、金沢に戻ってからブラブラする?」
凪は軽食の売店を横切り、出口付近にある大きなショップへと向かおうとした。
しかし、数歩後ろを歩いていた玲が、不自然に足を止めた。
「……あなた。ここで、何してるの?」
玲の声は、クールなまでの冷静さと、わずかな呆れを含んでいた。
「どした?」
凪が振り返ると、玲は売店の外のテラス席にあるベンチを、いたずらした子をしかりつける親のような「ジト目」で見下ろしていた。
その視線の先には、一人の女の子が座っていた。
大きな黒いサングラスをかけ、頭には不釣り合いなほど立派な麦わら帽子。手には半分溶けかかったソフトクリームを持っている。彼女は、目の前に現れた玲と凪の姿を認めた瞬間、ピタリと動きを止めた。
「美央!?」
驚きのあまり声が裏返ってしまった凪の叫びに、サングラスの奥の瞳が泳いだ。
「……あ、あはは。わー、ぐうぜん。ですねぇ……」
麦わら帽子を脱ぎ、美央はぱたぱたと自分の顔をあおいだ。額には、隠しきれない冷や汗がうっすら滲んでいる。
そんな彼女に、玲がじりっと一歩詰め寄った。
「知ってて来たでしょ。っていうか、途中、尾行してなかった?」
「してないしてない! 断じて尾行なんてしてません!」
美央はぶんぶんと両手を振って否定したが、その必死さがかえって怪しい。
「なんでこんなとこいるの? 美央も誰かと来たの?」
凪が素直に首を傾げると、玲は今度は凪の方を見た。その視線には、「そうじゃないでしょ……」と言いたげな呆れがたっぷり滲んでいる。やがて玲は小さく息を吐き、諦めたように肩の力を抜いた。
「いや、あーっと、その……。つい、気になっちゃって。二人が。……気づいたら、チケット買って電車に乗ってました。……ごめんなさい」
軽さを含んだ声がだんだんと重くなっていき、やがてシュンと肩を落とし、小さな声で謝る美央。
サングラスを外したその瞳は、嘘をつけない真っ直ぐな反省の色に染まっていた。
そんな彼女を見て、凪は思わず素直な感想を口にする。
「えー、やば。ストーカーじゃん」
「おっふぅ!?そんなストレートに冷たいこと言わないでー!」
胸を押さえて大きくのけぞる美央。そのオーバーリアクションは相変わらずで、凪の冷ややかな反応とのコントラストがあまりに極端だった。
その様子を横で見ていた玲は、ついに堪えきれなくなった。
「ふっ……あはははは!ほらっ。アイス溶けてるよ!」
玲の笑い声が、夏の午後の空気にぱっと弾けた。
どこか呆れながらも世話を焼くような彼女の声は、張り詰めていた空気を優しく和らげていった。
慌てて指に垂れ落ちたソフトクリームに食らいつく美央。その様子は、先ほどまでの「繊細で優しい子」という評価を一瞬で上書きするほどにコミカルだった。
凪も、玲の笑顔を見てつられて笑い出した。
こうして、凪と玲の二人旅は、騒がしくも愛おしい「最初の三人」の風景へと塗り替えられてしまった。突き抜けるような青空の下、能登島の風は、これからの夏がとびきり熱く、そして騒がしいものになることを予感させた。
太陽の光を跳ね返す樹脂製の白いパラソルテーブルで、凪と玲も売店でアイスを買い足し、美央と三人で囲むようにして腰を下ろした。
「ふぅ……アイスうまー」
凪が冷たいバニラを口に運ぶと、熱を持っていた脳がようやくクールダウンしていく。
「本当。夏は冷たいものに限るよね。」
凪と玲が買ったばかりの形の整ったアイスを楽しんでいる横で、美央は溶けかけのアイスを必死に回収することに、一生懸命になっていた。
凪は、アイスの冷たさを喉に感じながら、不意に訪れたこの「三人」の時間に不思議な感慨を抱いていた。気まずくなってから、もう二度とこんな風に笑い合える日は来ないんじゃないかとさえ思っていた。それが、二学期どころか、夏休みが本格的に始まる前に、こうして実現してしまった。
「それにしても、まさかここまでついてくるなんて。もし会えなかったらどうするつもりだったの?」
「いや、会えちゃった時点で、作戦失敗なんじゃない?」
玲がすかさず突っ込んだことで、美央は椅子に深く沈み込むようにして「うぅ……」と唸った。
「……二人で水族館に行くって聞いてから、もう居ても立っても居られなくて。気づいたら財布持って駅にいたんだもん。」
「それで、どうするつもりだったのよ?」
「どうもできないけど! もし、もし二人が、本当に離れ離れになりそうだったら、飛び出してた、と思う。たぶん」
美央の言葉は、相変わらず無鉄砲で、論理的とは言い難い。考えるよりも先に体が動いてしまう彼女の性質は、時に周囲を振り回すが、そこにあるのは濁りのない純粋な「案じ」だった。凪と玲の関係が壊れることを、誰よりも恐れ、誰よりも杞憂していたのは美央自身だったのだ。
その真っ直ぐな思いに、凪は妙に悪い気がしなかった。むしろ、その無茶苦茶な行動力が、今のこの穏やかな空気を引き寄せてくれたのかもしれない。
「……まぁ、結果オーライ、なのかな」
玲が呆れたように、けれどどこか許すような口調でそう呟くと、美央の表情はぱあっと一気に明るくなった。まるで暗雲が去った後の青空のような、安心しきった笑顔。彼女は椅子から飛び出して、テーブルを飛び越えんばかりに身を乗り出す。
「ほんと!? よかったよぉ、二人ともー! 私、生きた心地がしてなかったんだから!」
「見失って諦めて、一人で優雅にアイス食べてた子のセリフとは思えないね」
「あ、それは、エネルギー補給っていうか、戦略的休息っていうかぁ……!」
玲がここぞとばかりにいじり倒し、美央が必死に弁明する。その光景を眺めながら、凪は心の底から込み上げてくる嬉しさを噛み締めていた。出会った頃よりも、もっと深く、もっと強い絆。雨降って地固まる、という言葉をこれほど実感することはないだろう。
「さ、アイスも食べたし、お土産見に行こ!」
美央が立ち上がり、案内役を自称するように指を差した。
「出口に向かうなら、あえて回遊魚のトンネルをもう一回抜けていこうよ! あそこの青い光、何回見てもテンション上がるもん!」
三人は連れ立って、再び館内へと戻った。薄暗い通路を抜け、頭上を魚たちが飛び交う「回遊魚のトンネル」へと足を踏み入れる。ドーナツの内側みたいなアクリル越しに見る海の世界は、さっきよりも少しだけ優しく見える気がした。
ふと、トンネルの中ほどで人だかりができているのが見えた。
「あ、掃除してる!」
子供たちが水槽の壁面に集まり、指を差してはしゃいでいる。その視線の先、巨大な水槽の中に、潜水用具を身につけた一人のダイバーの姿があった。
ウェットスーツを纏い、背中にはタンク。手には清掃用の道具を持ち、慣れた手つきでアクリル壁面を磨いている。
「わあ、かっこいいね」
美央が子供たちに混ざって、最前列までずいずいと進んでいく。彼女はそのまま、作業をしているダイバーを食い入るようにじっと見つめた。
凪と玲も、美央に引きずられるようにして水槽の前に立った。
(水族館のダイバーさんか……大変な仕事なんだろうな)
凪がそんなことを思いながら、ゆらゆらと水中に浮かぶその姿を目で追った、その時だった。
ダイバーがふと、こちらに気づいたように作業の手を止めた。
マスクとレギュレーターで顔の大半は隠れている。しかし、アクリル越しに目が合った瞬間、凪の脳内に電気が走った。
それは、海の中で自分たちを導いてくれた、あの力強くて温かい「目」だった。
「あぁーーーっ!!」
凪と美央が同時に、そして示し合わせたかのように、水槽に向かって指を差した。
それと同時に、水槽の中のダイバーも、泡をボコボコと出しながら、手に持っていたブラシを放り出さんばかりにこちらを指差した。
驚きで目を見開くダイバー。
間違いない。この能登島で、このダイビング技術で、そしてこの「何やってんの!」と言わんばかりの茶目っ気のあるジェスチャー。
凪と美央が叫んだ声は、分厚いアクリルの壁に跳ね返ったけれど、水中の「その人」には確かに届いていた。
偶然が重なり、運命が交差する。
水中の気泡がキラキラと光りながら、未来を祝福するように勢いよく水面へと昇っていった。




