水族館の魔法 4
巨大な水槽の中にいたダイバーが、レギュレーターからエアを「ガボガボッ」と派手に吐き出した。それは銀色の巨大なクラゲのような塊となって水面へ駆け上がり、ダイバーの顔のあたりを白く染める。分厚いアクリルガラスの向こう側、気泡の乱舞に包まれたダイバーは、まるで見えない糸で引き上げられるように、一気に浮上していった。
やがて、水族館の重厚なバックヤードの向こうから、Tシャツに短パン姿の女性が姿を現した。湿った髪を無造作にまとめたその姿は、紛れもなく、彼女たちを海へと連れ出したあのダイバーだった。
「やっぱり瑞稀先生だった!」
美央が弾かれたように駆け寄る。
「いや~、まさかこんなところで会うとはね。みんな、今日は遊びに来たのー?」
瑞稀は驚きを見せつつも、トレードマークの細い目をさらに細めて、快活な笑顔を浮かべた。
「はい!安くなるチケットをもらって。 瑞稀先生こそ、ここで何してたんですか?」
「私、ここで時々バイトしてるんだー」
「バイト、ですか?」
凪が不思議そうに問い返す。
「うん。水槽の掃除とか、岩の苔落とし、あとは魚たちの体調チェックを兼ねたお世話とかね。潜る練習にもなるし、一石二鳥なんだよね」
瑞稀を囲むようにして身を乗り出す凪と美央。その少し後ろで、緊張した面持ちで立ち尽くしている一人の少女がいた。美央はそれに気づくと、パッと玲の腕を引いて瑞稀の前に立たせた。
「瑞稀先生! 友達の玲ちゃんです! 玲ちゃん、この人がこの前一緒に、ダイビングに連れて行ってくれた瑞稀先生だよ!」
「はじめまして……。黒川玲といいます」
玲は少し上目遣い気味に、壊れ物を扱うような慎重さで頭を下げた。普段のクールな彼女からは想像もつかないほど、その態度は初々しく、緊張に強張っている。
「はじめまして、西島瑞稀です。よろしくね。」
「玲ちゃんは、凪ちゃんの親友で、三人同じクラスなんです!」
美央が自分のことのように鼻を高くして紹介を続ける。瑞稀は、その圧倒的なエネルギーに少し圧倒されたように「そうなんだ、相変わらず元気だね、美央ちゃんは」と苦笑いした。
「会わせるって約束、もう叶っちゃったね」
凪が玲の耳元でそっと囁く。しかし、玲は「……心の準備が」と蚊の鳴くような声でしりごんだ。
その小さなやり取りに気づいたのか、瑞稀が優しい笑顔で首を傾げる。長年人と接してきた教師らしい柔らかな勘の鋭さだった。瑞稀は興味深げに目を細める。
「ん? 約束って?」
「あ、えっと……さっき、玲を瑞稀先生に会わせるって約束をしてたんです」
凪が少し照れくさそうに説明すると、瑞稀の表情がパッと明るくなった。
「そうなの? ふふふ、会えて嬉しいよ、玲ちゃん……って呼んでもいいのかな?」
「あ、はい! もちろんです! よろしくお願いします!」
「うん、よろしくね。……そういえば二人とも、ライセンスの教材はもう届いた?」
瑞稀が唐突に切り出した話題に、凪と美央は顔を見合わせた。
「へ? まだですけど。」
「あれー? おかしいなぁ。そろそろ届く頃なんだけど……」
瑞稀は空を見上げながら頭の後ろに左手を当てる。凪と美央はお互いに思い当たることがないかを確認しあい、その様子を玲は不思議そうな表情で見守っている。
「え、あの……勉強、難しいですか?」
「んー、まぁ、それなりに? 専門知識は勉強しないとね。」
ふと湧いて出た質問に対して、軽く脅されたことに、凪の顔に軽く不安の色が広がっていく。楽しみであることが半分と緊張に似た不安が半分といった具合だ。「レジャー」ではなく「ラインセンス」としてのダイビングの言葉の響きは、彼女の胸を揺さぶる。
(大丈夫かな……みどりなんて、勉強しながら発狂したりしないだろうか……)
凪の脳裏には、教科書を放り出して「うわぁぁぁ!」と叫ぶ友達の姿が容易に想像できた。しかし、瑞稀はそんな彼女たちの不安を吹き飛ばすように、力強く肩を叩いた。
「でも大丈夫。勉強も大事だけど、ダイビングはやっぱり実技だよ! 机の上で悩むより、体を動かしながら覚える知識の方が多いから。実践あるのみ!」
「私たち、もう1回潜れてるんだもん! 絶対大丈夫だよ!」
前向きな性格の美央が、いつもの調子で根拠のない自信を胸いっぱいに張る。その勢いに乗っかるように、瑞稀もぱっと顔を輝かせた。
「そうそう! いつも言ってるでしょ! 『経験に勝る学問なし!』ってね!」
「……いや、はじめて聞きましたよ」
凪のツッコミが、ほとんど反射の速度で飛ぶ。
瑞稀は「あれぇ?」とでも言いたげに目を丸くしたあと、全く気にした様子もなく豪快に笑った。
こういう瞬間、彼女の中の“元教師感”がふっと顔を出す。
たぶん、生徒の話を聞くより先に「とりあえずやってみよう!」で校外学習を決めるタイプだ。しかも勢いで話を進めたあと、職員室で他の先生に頭を抱えられるまでがセットである。
きっと体育教師だったに違いない――と、凪は半ば本気で思っていた。
今も、水槽から飛び出してきた勢いそのままに喋っているが、これがジャージ姿でホイッスルを首から下げて校庭を走っていても、まったく違和感がない。むしろそっちが本業ですと言われたほうが納得できるくらいだった。
「さてと。私はもうバイト上がって、これから帰るところだけど、もしよかったら車乗ってく? 金沢方面でしょ?」
瑞稀は車の鍵を指先でくるくると回しながら、三人の顔を覗き込んだ。
時間も15時を回ろうとしていてそろそろ帰ろうとしていたタイミングだった。瑞稀の願ってもない提案に、三人の目は輝いてしまう。水族館で起きた魔法の余韻も、まだ胸の奥で静かに波打っていた。
「いいんですか!?」
美央がパッと顔を輝かせ、凪も驚きと喜びが混ざったような表情で瑞稀を見つめた。遊び疲れた体には、この上ない提案だった。しかし、真面目な玲だけは、瑞稀が差し出した車のキーを一度見つめ、申し訳なさそうに視線を落とした。
「あの……交通費、お支払いした方がいいですよね?」
その言葉に、瑞稀はふっと表情を和らげ、まるで年の離れた妹を慈しむような目で見つめた。
「いいって、いいって。気にしないで。私が自分の家に帰るついでに、たまたま同じ方向の玲ちゃんたちを乗せていくだけなんだから。」
「でも……」
「そんなに気を遣わなくて大丈夫よ。」
瑞稀の飾らない優しさに包まれ、玲は頬を少し赤くして「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。その仕草は、どこか照れくさそうで、それでいて嬉しさを隠しきれていない。
その隣で、凪はそっと視線を落とした。自分では思い至らなかった玲の気遣いに、胸の奥が少しだけちくりとする。気が利くな、と素直に思う反面、そんな玲との差を見せつけられた気がして、なんとなく気恥ずかしかった。
けれど、そんな空気を吹き飛ばしたのは、やはり美央だった。彼女は、もう我慢できないといった様子で夏の日差しみたいに真っ直ぐな声を弾ませた。
「瑞稀先生! 私たち、最後にショップ見ていっていいですか!」
「はいはい、わかったよ。いってきなー。私はその間に車ちょっと片付けてくるから。終わったら入り口のロータリー集合ね」
「やったー! 二人とも、行こう!」
はしゃぎながら駆け出していく美央の背中を、その勢いに引っぱられるように、凪も思わず肩の力を抜いて追いかけていく。その後ろ姿を、瑞稀と玲は少し離れた場所で、並んで見送る形になった。瑞稀は玲が一緒に行かないことに気づき、不思議そうに問いかける。
「玲ちゃんは行かなくていいの?」
「あ、あの。私……」
玲はふいに立ち止まり、瑞稀を真っ直ぐに見上げた。
その視線を受けた瑞稀も、先ほどまでの快活なお姉さんらしい表情を静かに和らげる。そこに浮かんでいたのは、教え子の言葉を急かすことなく待つ教師のような、穏やかで深い眼差しだった。
玲は小さく息を飲んだ。
唇がかすかに震えている。何かを伝えたいのだと、その場の誰にも分かった。
胸の奥には、確かに言葉になりかけている想いがある。玲はそれを必死に掬い上げようとするが、真正面から向けられる瑞稀の優しく澄んだ視線に触れるたび、胸がいっぱいになってしまう。
喉元まで込み上げた言葉は、とうとう声になることなく、静かに溶けて消えていった。
「……ごめんなさい! やっぱり、なんでもないです!」
結局、玲はそれだけを絞り出すと、逃げるように凪たちの後を追って走り出した。瑞稀は、その小さくなっていく後ろ姿を、大人の余裕と、少しの切なさを孕んだ瞳で見送っていた。
「……めっちゃいい子やな。」
瑞稀はぽつりと独り言を漏らすと、瑞稀はすぐに気持ちを切り替え、駐車場へと足を向けた。
一方、水族館のショップ内では、美央のテンションが完全に振り切れていた。
色とりどりの魚のストラップや、海モチーフの文房具が並ぶ店内を、目を輝かせながら見て回る美央。その勢いのまま彼女がぴたりと足を止めたのは、巨大ぬいぐるみコーナーだった。
「ねぇ、これ可愛くない!? 見てよ、このフォルム!」
そう言って美央が抱え上げたのは、ずんぐりとした体型のサメのぬいぐるみだった。丸っこい頭に、つぶらな目。妙に愛嬌のある顔をしている。
凪は値札を見て、思わず眉をひそめた。
「可愛いけど……お値段が可愛くない」
さすがに「欲しいなー」くらいのノリだろう。そう思っていた凪だったが、レジを終えてショップから出てきた美央の両腕には、抱えるだけで精一杯な巨大サメがしっかり収まっていた。
「まじで買ったの!?」
美央は満面の笑みでサメをぎゅっと抱き締める。
「うん、可愛すぎて我慢できなかった! 今日からこの子と一緒に寝る!」
その頭をよしよしと撫でる姿は、完全に飼い主だった。すると隣で見ていた玲が、ふと不思議そうに首を傾げる。
「……そこはジンベエザメじゃないんだね。」
「ジンベエもいいけど、普通のサメの方が可愛くない?」
美央はサメの顔をぐいっと持ち上げ、熱弁を始めた。
「ほら、目もクリクリしてるし、口も大きくて、牙もたくさんあるし! 強くて可愛いとか最強でしょ」
三人でサメの魅力を議論(主に美央の熱弁)していると、ロータリーに一台の車が滑り込んできた。前回の海で乗せてもらったあの大きな白いバンではなく、落ち着いたネイビーの乗用車だ。運転席から瑞稀が顔を出す。
「お待たせー! ……って、すごいもの抱えてるね。……サメ、買ったの?」
「先生も、可愛いと思いますよね!?」
美央が期待に満ちた目で詰め寄るが、瑞稀はあっさりと肩をすくめた。
「うーん、私はだんぜんペンギン派だわー。あのヨチヨチ歩きがたまらないじゃない?」
「うう……。お前を愛してるのは、私だけだよ」
世界中に否定されたかのように、美央は項垂れながら巨大なサメのぬいぐるみに顔をうずめ、ぎゅっと抱き締めた。そのあまりにもシュールな姿に、凪と瑞稀は何事もなかったかのように、美央を置いてしれっと車へと向かった。
サメを抱えたまま立ち止まってる美央を横目に、玲はそっと輪から一歩前へ出る。そして、瑞稀に向かって丁寧に頭を下げた。
「すみません、お世話になります」
「いいって、いいって。ほら、遠慮なく乗っちゃって。」
「あの……」
玲が少しためらうように視線を上げる。
「私、ちょっと車に酔いやすくて。助手席、座ってもいいですか?」
「もちろん!」
瑞稀は快く頷くと、自ら助手席のドアを開けた。玲は恐縮したように「ありがとうございます」と小さく会釈しながら車へ乗り込む。
「ほら、そこのサメのお嬢さんも!」
頬を少し膨らませた美央は巨大サメを抱えたまま後部座席へ滑り込んだ。凪もその隣に腰を下ろす。
車内には、ほんのりと潮の残り香と、瑞稀の使っている柔軟剤の清潔な香りが混ざって漂っていた。
エンジンが静かに唸り、瑞稀が軽くアクセルを踏み込む。二人だけで来たはずの水族館が、長く伸びた影とともに、窓の外をゆっくり後ろへ流れていった。
後部座席では、さっそくサメの置き場で美央が騒ぎ始めている。そんな賑やかな声を背に、助手席の玲は小さく息をついた。
イワシの水槽の前で、胸の奥に抱えていた想いをようやく打ち明けるまで、ずっと張り詰めていた心。
玲の表情は、今はもう少しだけほどけているように見える。
流れていく景色を見つめる玲の横顔には、どこか穏やかな光が宿っていた。




