水族館の魔法 5
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車が滑らかに発進し、街の喧騒を離れてしばらく経つと、賑やかだった車内は「すん」と静まり返った。
カーラジオから微かに流れてきたのは、エディット・ピアフの『愛の讃歌』。そのドラマチックでありながらどこか哀愁を帯びた旋律が、心地よい車の揺れと相まって、極上の子守歌として作用したのだろう。時計の針は既に16時を回っている。
助手席の玲が背中越しにそっと後部座席を振り返ると、そこには無防備な寝顔を晒す二人の姿があった。凪と美央は、カーブのたびにあっちこっちへ首を傾けながら、完全に深い眠りに落ちている。美央に至っては、先ほど買ったばかりの巨大なサメのぬいぐるみを抱きしめ、そのヒレを枕代わりにしている始末だ。
「……はしゃいで、疲れちゃったんだね」
瑞稀の声は、驚くほど優しかった。運転しながらも、バックミラー越しに教え子たちを見守るその眼差しは、慈愛に満ちている。玲はその声に包み込まれるような感覚を覚え、少しだけ肩の力を抜いた。
「先生、凪たちとはどうやって知り合ったんですか?」
玲は前を向いたまま、静かに問いかけた。
「普通にお店に来てくれたんだよ。最初、私も予約のお客さんと間違えちゃってね。そしたら、あれよあれよという間に話が盛り上がって、『体験ダイビング、やってみたい!』ってなってさ」
「……そうだったんですか」
玲は相槌を打ちながらも、胸の内では複雑な思いが静かに渦巻いていた。きっと、美央の行動力に引っぱられるようにして、このダイビング活動も始まっていったのだろう。そう思う一方で、その輪の中に自分がいなかったことが、玲の胸に小さな寂しさを残していた。そしてそれ以上に、自分の知らない時間、自分の知らない関係、自分の知らない世界、その“未知”そのものに、玲は微かな怖さを感じていた。
車内には再び静かな空気が流れる。穏やかではあるものの、どこか張り詰めた気配を含んだ沈黙だった。玲は膝の上でそっと手を組み、背筋を伸ばしたまま前を見つめている。
そのあまりにも行儀のいい姿を、瑞稀は運転席からちらりと横目で盗み見た。
「もし違ってたらごめんね。……凪ちゃんが言ってた『カナヅチの親友』って、玲ちゃんのことかな?」
「へっ?」
心臓が跳ねた。玲は思わず目を見開き、隣の瑞稀の横顔を凝視する。瑞稀は前を向いて運転に集中したままだったが、その口元には小さな微笑みが浮かんでいる。まるですべてを察していながら、それでも決して踏み込みすぎない、そんな穏やかな笑みだった。
玲は察しの悪い方ではない。凪がわざわざ、自分のことを「カナヅチ」だと瑞稀に話していた理由くらい、すぐに分かった。きっと凪なりに、自分をこの新しい世界へ連れて行こうとしてくれていたのだ。急に引っぱり込むのではなく、少しずつ外堀を埋めるみたいに。
玲が入りやすいよう、ちゃんと居場所を作ろうとしてくれていた。その不器用で真っ直ぐな気遣いが、胸の奥にじんわりと沁みていく。
嬉しいのに、少しだけ苦しくて。
玲は誤魔化すように、小さく視線を窓の外へ逃がした。
「……凪に聞いたんですか?」
「うん。そうだよ。『誘いたい人、大切な親友がいるんです』ってね」
玲はもう一度、後方を振り返った。凪は規則正しい寝息を立てて眠っている。今度は、二人が確実に夢の中にいることを確認してから、玲は声を潜めて言葉を継いだ。
「そうですか。さっき水族館でも、凪に誘われました。一緒に、海に行こうって」
「そっか」
瑞稀はそれ以上、無理に聞き出そうとはしなかった。ただ沈黙を持って、玲の心の中に溜まった澱のような言葉が形を成して溢れ出すのを、静かに待っている。
「……凪から聞きました。先生も昔、水が怖かったって」
「ふふふ。そうだね。」
「それなのに、どうしてダイビングを始めたんですか? 怖くなかったんですか?」
瑞稀は、大人の余裕を感じさせる含み笑いを浮かべ、逆に問いを投げ返した。
「……ダイビング。玲ちゃんも、興味あるの?」
「え?……いや。まだ、自分でもよく分からなくて」
玲は言葉を詰まらせた。やりたいのか、やりたくないのか。それ以前に、水が怖い自分にできるのか。その問いが、彼女の足を止めていた。
「私ね、実家がダイビングショップなんだ。うちの父さんが潜るのが大好きでさ」
瑞稀は、遠い記憶を紐解くように語り始めた。
「小さい頃、海に連れて行ってもらったんだけど、その時に派手に溺れちゃってね。それがきっかけで水が本当に怖くなっちゃって。それ以来、泳げないどころか顔をつけるのも嫌な、立派なカナヅチだったんだよ」
車の速度は一定なのに、不思議と車窓を流れる景色がスローモーションのように見えてくる。瑞稀の言葉が、玲の心に深く染み込んでいく。
「特に父さんは落ち込んでね。学生の頃なんて、反抗期も相まって『海に潜ることの何が楽しいの?』って、八つ当たりみたいによくぶつかったよ。自分の家なのに、どこにいても海の匂いが染み付いている感じがして、当時は本当に嫌いだったんだ」
「……じゃあ、何か変わるきっかけがあったんですか?」
玲は身を乗り出すようにして聞いた。自分と同じ「水への恐怖」を持っていた人が、どうして今、こうしてプロのダイバーとして笑っているのか。その答えが知りたかった。
「きっかけってほど劇的なものじゃないんだけどね。まだ教師をやってた時、お店に来た常連さんが仕事上がりにその足でダイビングに行こうとしてたのよ。しかも、夜。ナイトダイビングよ? こっちは仕事でヘトヘトで、ソファに倒れ込みたいくらい疲れてるのに、その人はめちゃくちゃ楽しそうにしてるの。『あぁ、この人は自分とは人間としてのスペックが違うんだな』って思ってたんだけど、その人が言ったんだよ。『ダイビングが現実を忘れるくらい楽しすぎるから、また次の仕事も頑張れるんだ』ってね」
玲は黙ったまま、その言葉を胸の中でゆっくり噛み締めていた。
「あんまり楽しそうに笑うもんだから、ただ仕事をして疲れているだけの自分が、なんだか惨めに思えてきて、悔しくなっちゃってね。そこで少しだけ、ダイビングに興味が湧いたんだ。」
社会に出て働く瑞稀の経験は、高校生の玲にはまだ実感として理解しきれない。それでも玲は、ただ聞き流すことはしなかった。まるで自分のことのように真剣に受け止めながら、瑞稀の言葉の意味を、一つひとつ自分の中へ落とし込もうとしていた。
「それでね、私、その常連さんに聞いたの。『そんなに潜って、海の中に一体何があるんですか?』って」
瑞稀は思い出し笑いを堪えるように、声を弾ませた。
「そしたらその人、なんて言ったと思う? 『海の中には嫌いな上司も来れないし、苦手な電話も鳴らないのがたまらなく好きだ』って言ったんだよ」
「え……」
意外すぎる回答に、玲の目が見開かれる。
「それを聞いた時、私、笑いが止まらなくなっちゃってね。ああ、みんなそんな簡単な理由で潜ってるんだ、もっと肩の力を抜いていいんだって。生活することに一生懸命になりすぎて、固くなってた心が、ふっと軽くなって。 そんな自由な世界なんだもん。怖がってたことすら、なんだかもったいなく感じて。そこから少しずつお店を手伝うようになって、気づいたらカナヅチを克服して、挙句の果てには教師まで辞めて、こうして海に潜ってるってわけ」
そう言って瑞稀は、からりと笑った。
夕陽を受けたその横顔は、まるで太陽みたいに明るい。
けれど、その瞳の奥には、笑い声だけでは片づけられない熱が滲んでいた。
泣いているわけではない。ただ、あの頃の想いを思い返したのだろうか。感情が胸いっぱいに込み上げたように、瑞稀の目はうっすらと潤み、きらきらと光を宿していた。
「……その人、面白い人ですね」
「話長くて、よく分かんなかったよね、ごめんごめん。これだから先生も辞めたんだよね~。」
「いえ、そんな。瑞稀先生は、先生向いていると思います」
「ありがとう。」
瑞稀は短く礼を言うと、話を続けた。
「何か、人生とか生き方を変えるって、自分から変わろうとするとすごく勇気がいるんだけどね。無理に力を入れずに、自分に正直に、素直で自然体でいるとね。案外、自分でも知らないところで成長してたり、思ってたよりあっさり乗り越えちゃったりするものなんだよ。」
そして、ふっと柔らかく笑う。
「大事なのは、”リラックスすること”と”戻る道を用意しておくこと”、かな。」
「戻る道?……ですか?」
「うん。どうしても無理だって思ったら、一回ちゃんと安全な場所まで戻るの。で、心が元気になったら、また始めたり、やめてみたりするの。これがね、ダイビングでは結構大事なスキルなのよ」
玲は黙ったまま、その言葉に耳を傾けていた。
自分に正直にいること。肩の力を抜いて、自然体でいること。それはきっと、今の自分が一番できていないことだった。
失敗しないように。
嫌われないように。
迷惑をかけないように。
そうやって、ずっと心を固く閉じ込めていた気がする。
気づけば、窓の外には雄大な日本海が広がっていた。午後の光を受けた海は、青いキャンバスみたいにどこまでも輝いている。風を掴んだトンビが、ゆっくりと空を旋回していた。その景色は、不思議なくらい自由に見えた。
「だからね、玲ちゃん」
瑞稀の声が、静かに玲の胸へ落ちてくる。
「無理に変わろうとしなくていい。玲ちゃんは、玲ちゃんの思うままでいいんだよ。誰かのためじゃなくて、自分のためにね」
玲は視線を落とし、自分のつま先を見つめた。膝の上で握っていた指先に、知らないうちに力が入っていた。
瑞稀の言葉が。
凪の不器用な優しさが。
美央の真っ直ぐな明るさが。
胸の奥にこびりついていた“怖さ”を、少しずつ溶かしていく。
知らない世界は、怖い。
でも――。その先を見てみたいと思っている自分が、確かにいた。
玲はゆっくり顔を上げる。
その瞳には、もう先ほどまでの怯えだけではない、小さな光が宿っていた。
「……私にも、ダイビングできるようになりますか?」
瑞稀は少し驚いたように目を瞬かせた。その瞳は、彼女の微かな意志の芽吹きを、全力で守ろうとする強さに満ちていた。
「やってみたい?」
玲は少しだけ間を置き、それから瑞稀を真っ直ぐに見つめた。
「はい。……先生の人生を変えてしまうくらい、面白いんですよね?」
玲の声はまだ小さかったが、そこには確かな意志が宿っていた。瑞稀は一瞬だけ目を丸くする。だが次の瞬間には、思わずといったように笑みをこぼしていた。
「……玲ちゃんは、すごい子なんだね」
「……え?」
玲には、その言葉の意味がよく分からなかった。
ただ話を聞いて、自分が感じたことを、そのまま口にしただけだ。けれど瑞稀にとって、それは決して簡単なことではなかった。
人の言葉を素直に受け止めること。
自分の心に正直になって、一歩踏み出そうとすること。
しかも玲は、出会ってまだ数時間しか経っていない相手に、それをちゃんと言葉にしてみせたのだ。
瑞稀はそんな玲の勇気を、まるで自分のことのように嬉しそうに受け止める。
「もちろん。玲ちゃんがちゃんと潜れるようになるまで、私がしっかりサポートするよ。」
包み込むように優しい瑞稀の声を聞いた瞬間、玲の胸の奥が熱く震えた。
気づけば、肩にも指先にも、ずっと力が入りっぱなしだった。勇気を出そう、間違えないようにしよう――そんなふうに、自分でも知らないうちに心を固くしていたのかもしれない。けれど今は、不思議と怖さよりも、胸の奥で膨らんでいく好奇心の方が大きかった。
凪が「玲なら絶対好きになる」と言い切った世界。
美央が無邪気に「楽しい」と笑っていた世界。
そして瑞稀が、人生を変えてしまうほど魅了された世界。
その景色を、自分も見てみたい。
(こういう時は、騙されたと思って飛び込んでみるしかないんだ)
心の中でそっと呟く。
自分の本当の気持ちを知る方法なんて、きっと最初から一つしかなかった。
怖くても、一歩踏み出してみること。
覚悟を決めた瞬間、胸の奥を覆っていた靄が、潮風にさらわれるみたいにすっと晴れていき、驚くほど心が軽くなるのを感じた。
「よろしくお願いします、瑞稀先生」
玲がそう言うと、瑞稀は嬉しそうに、力強く頷いた。
後部座席では、二人はまだ幸せそうに眠っている。金沢へ着く頃には、きっと玲はもう、“ひとりで立ち止まっているだけの自分”ではなくなっている。海へと続く新しい道が、今、静かに開き始めていた。




