海へのパスポート 1
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自分の部屋の壁に掛けられたカレンダーには、これまで毎日、一日が終わるたびに几帳面にバツ印がつけられていた。その黒いバツ印の列は、8月3日のマスの印でピタリと止まり、今日という日を迎えた。待ちに待ったその日が、ついにやってきたのだ。
部屋の窓を開けると、早朝だというのにじっとりとした湿気を含んだ、夏の生温かい風が吹き込んできた。本格的な夏の真っただ中。凪は、昨日の夜に何度も中身を出し入れして念入りにチェックしたボストンバッグを肩から斜めに掛け、もう一度だけ、自分の部屋を静かに見つめた。忘れ物はない。心の準備も、あの水色の教本をしっかりと読み込んだあの日から、ずっとできている。
いつもなら、休日のこの時間はまだ静まり返っているはずの我が家だが、今日ばかりは違っていた。
階段をトントンと降りてリビングに入ると、そこにはすでに香ばしい焼き魚の匂いと、炊きたてのご飯の湯気が満ちていた。台所では母親が、まるでお正月かと思うくらいしっかりとした朝ごはんを用意して待ってくれていた。その向こうのダイニングテーブルでは、父親がまだ寝間着のままで新聞を開いている。しかし、その目は活字を追っておらず、新聞の端から時折こちらをそわそわと窺っているのが、丸分かりだった。
「なっちゃん、おはよう。朝ごはん、食べていくでしょ?」
母親が優しく声をかけてくる。
「……うん。いただきます」
凪は席につき、両手を合わせて、お箸を持った。コンビニで軽くおにぎりでも買っていこうかと思っていたが、時間にも余裕があるので、しっかりと朝食を食べていくことをその場で決めた。喉を通る温かい味噌汁が、緊張で少し強張っていた胸の奥をじんわりと温めていく。
昨日のうちに、今日から始まるダイビングライセンスの合宿については一通り両親に話してあった。思い返せば中学生の頃、テニス部の合宿に行く前や、修学旅行の前の日の朝も、我が家にはいつもこんな風に少し浮ついた、独特な空気が流れていた。
高校生になった今なら、よく分かる。あの少し不自然で落ち着かない空気は、両親が抱える心配と応援がないまぜになったものだったのだろう。うまく言葉にできない気持ちまで含めて、それが家族の愛情だった。だからこそ凪は、この家でご飯を食べると肩の力が抜ける。実家の温かさは、いつだって変わらず自分を支えてくれていた。
「ごちそうさまでした」
いつもと変わらない朝食だった。それなのに、今日ばかりは妙に味が染みた気がする。
凪は荷物を背負い直して玄関へ向かった。靴を履き、ドアノブに手をかけて振り返ると、両親が並んでこちらを見ていた。
「……いってきます」
見慣れた玄関も、今日だけは少し違って見えた。
凪は鞄を背負い直す。胸の奥では緊張が波のように揺れていたが、それ以上に期待が勝っていた。
この先に待つ景色を思い浮かべながら、凪は扉の向こうへ踏み出した。
一歩外へ出ると、夏の強い日差しが容赦なく降り注いだ。それでも、金沢駅へ向かう足取りは不思議と軽い。
改札近くの待ち合わせ場所に着くと、美央とみどりがすでに並んで待っていた。
「おまたせ!」
凪が駆け寄ると、大きな鞄が背中で大きく跳ねる。
「凪ちゃん、おはよっ! いよいよだね! ついにこの日が来たね!」
美央が弾けるような笑顔で振り返る。美央は今にも飛び跳ねそうなほど上機嫌だった。その様子を見ているだけで、凪まで楽しくなってくる。一方のみどりは少し緊張しているようだったが、凪と目が合うと小さく微笑んだ。
三人が揃うと、いよいよ実感が湧いてくる。ライセンス取得に向けた最初の一歩。
夏の日差しの下を歩き、やがてたどり着いたのは古民家風の建物――『ダイビングショップ にしじま』だった。
「おはようございます!」
三人は声を揃え、重い扉を開きながら元気よく挨拶した。
薄暗くひんやりとした店内へ入ると、奥の荷物置き場から「おー、早いねぇ」とひょっこり顔を出した人物がいた。瑞稀先生だ。
朝が早いからだろうか。いつもより少し目が細く、どこか眠たげに見える。その姿がなんだか新鮮で、凪は思わず笑いそうになった。
「おはよう、みんな。よく寝てこれたかい? 体調は万全?」
「ばっちりっす! しっかり寝てきました!」
みどりが拳を握りしめながら元気よく答える。
三人は背負っていた荷物を床へ降ろした。肩がふっと軽くなる。
しかし次の瞬間、思わず周囲を見回して立ち尽くした。
店の床には、すでに大量の荷物が並べられていたのだ。大きなバッグ、見慣れない器材、そして黒くて重そうな塊――。通路のあちこちを埋め尽くしていて、足の踏み場もないほどだった。
何をどう手伝えばいいのか分からず、三人はしばらくその場で立ち尽くしていた。
すると、店の奥から瑞稀が姿を現し、慣れた様子で周囲を見回した。
「じゃぁみんな、この荷物を車に積んでいくから、順番に外まで運んできてくれる? 重いから足元には気をつけてね」
「はーい!」
最初は右も左も分からなかった三人だが、瑞稀の指示に従って荷物を運んでいるうちに、だんだんと作業の流れが見えてきた。
重たいバッグを抱えて店と車を何度も往復する。
そのたびに車内は荷物で埋まっていき、いよいよ出発が近づいていることを実感させた。
そして最後の荷物が積み込まれる頃には、三人の胸も期待でいっぱいになっていた。
「よし、OK! これで全部積み込めたね。そしたらみんな、車に乗っちゃおうか。自分の手荷物は後ろの空いてるスペースに適当に置いていいからね」
瑞稀は店内に忘れ物がないかひと通り確認すると、パチンと照明を落とした。
そして店の扉に鍵を掛け、そのまま運転席へ乗り込む。
凪たちも慌てて車内へ入り、それぞれシートベルトを探した。期待と緊張で、みんなどこか落ち着かない。
「それじゃあ、安全運転で行くよー」
キーが回されると、エンジンが低く唸りを上げた。やがて車は静かに動き出す。
ドラマのようなファンファーレが鳴るわけでも、誰かが盛大な号令をかけるわけでもない。窓の外の景色がゆっくりと後ろへ流れていく。
ただそれだけのことなのに、胸の奥が少し熱くなった。
今日から始まる数日間が、自分たちをどこへ連れて行ってくれるのかはまだ分からない。
けれど凪には、きっと忘れられない時間になるだろうという予感だけはあった。
そうして三人を乗せた白いバンは、夏の朝の街へ走り出した。
「三人とも、事前勉強はばっちりかな?」
ハンドルを握ったまま、瑞稀がバックミラー越しに楽しそうな視線を向けてくる。
その言葉を聞いた瞬間、凪は思わず後ろの座席のみどりを振り返った。
動画学習の話を聞いたとき、「また勉強しなきゃいけないのかぁ」と頭を抱えていた姿を思い出したのだ。
「あはは……なんとか、一通りは~、たぶん……」
みどりは苦笑いを浮かべながら、後頭部をぽりぽりとかいた。
予想どおりの反応に凪が小さく笑っていると、美央はそんな不安などどこ吹く風といった様子で元気よく口を開く。
「意外と簡単だったよね? なんかクイズみたいでさ!」
「そうだね。学校の勉強も、これくらい覚えやすかったらいいのにって思ったよ」
凪も笑いながら頷いた。
実際、体験ダイビングで見たり聞いたりしたことと結びついていたおかげか、テキストの内容は学校の授業よりずっと頭に入りやすかった。新しく知ることばかりで、勉強というより発見に近かった気さえする。
「へぇ、頼もしいねぇ」
瑞稀がにやりと笑う。
「じゃあ、ちょっと小テストといこうか」
瑞稀は元教師の血が騒いだのか、悪戯っぽく微笑んだ。そして、オープンウォーターダイバーの基礎知識について次々とクイズを出し始める。
「水深10メートルでの圧力は何気圧?」「浮力を調整するジャケットの名前は?」
そんな問いかけに、美央が勢いよく答え、凪が補足し、みどりが少し自信なさげながらも正確な知識を付け加えていった。
車内には自然と笑い声が広がる。
四人を乗せた白いバンは、その賑やかな空気ごと運ぶように、夏空の下の高速道路を走り続けた。
トンネルをいくつか抜けた先で、視界がぱっと開けた。
その瞬間、凪たちの目に飛び込んできたのは、見覚えのある景色だった。
――南越前ダイビングセンター。
体験ダイビングで訪れた場所だ。
車を降りると、容赦ない夏の日差しと濃い潮の香りが全身を包み込んだ。むっとする熱気に思わず顔をしかめる。
夏のダイビングシーズン真っ只中ということもあり、施設内は多くのダイバーたちで賑わっていた。器材を手際よく組み立てる人。ウェットスーツに身を包む人。ブリーフィングに耳を傾ける人。そこにいる誰もが海に慣れ親しんでいるように見える。
その光景に、三人の胸には自然と緊張感が芽生えていた。自分たちも、これからその世界の入口に立つのだ。
「よし、ひとまず荷物を持って中に入ろうかー」
瑞稀に促され、三人は荷物を運び始めた。
車から器材やバッグを降ろし、施設の中へ運び込む。
一通りの荷物を運び終えると、それぞれ大きなバッグを抱えてテーブル席へ腰を下ろした。
瑞稀は受け取った書類の束を机の上でトントンと揃える。
そして顔を上げると、三人を見回して微笑んだ。
「……よし、書類もOK。それじゃあ、オープンウォーターダイバー講習、始めるね。みんな、体調は万全?」
「はい!」
三人の元気な返事と力強い頷きを見て、瑞稀は満足そうに頷いた。
「スケジュールとしては、今日と明日がプール講習。そこで基礎をしっかり身につけてもらって、残りの二日で海洋実習に入ります」
そう言うと、瑞稀は指を一本ずつ折りながら説明を続ける。
「器材のセッティング、バディチェック、水中でのトラブル対処。覚えることはたくさんあるけど、安全に潜るためにはどれも大事なことだからね」
三人は真剣な表情で耳を傾けた。
「それから、とにかく暑いから、喉が渇く前に水分補給すること。少しでも体調に違和感があったら、我慢せずにすぐ言うこと。いい?」
「はい!」
「よろしい。施設の使い方は前回とほぼ同じね。着替えはあっちのロッカー、貴重品は受付前のロッカーを使ってください。他のお客さんもいるからマナーはしっかり守ること」
その後も施設の利用方法や今後の流れについて説明が続き、やがて一通りのオリエンテーションが終わった。
三人が「よし、やるぞ」と気持ちを引き締めた、その時だった。
「あ、そうそう」
瑞稀が何かを思い出したように口を開く。
「肝心なこと言い忘れてた」
その口元には、どこか嫌な予感を覚える笑みが浮かんでいた。
「筆記テストは、明日のプール講習が終わったら、そのままこのテーブルでやるからね。五十問中八十点以上で合格です」
一瞬、場の空気が固まった。
そして、みどりの顔からすうっと血の気が引いていく。
「えっ」
その声は、驚くほどか細かった。
「……せ、先生、もし不合格だったら……?」
「もちろん、再テストと、私の愛の詰まったマンツーマン補修授業がセットでついてきまーす」
瑞稀は語尾にハートマークでも飛びそうな甘ったるい声でそう言った。
だが、その笑顔の奥にある圧は本物だ。元教師という肩書きが、妙な説得力を生んでいる。
「ぎゃーっ!」
みどりは頭を抱え、そのまま椅子の背もたれにのけぞった。
凪と美央は思わず吹き出す。もっとも、笑ってばかりもいられない。筆記試験がある以上、自分たちも気を抜くわけにはいかなかった。そんな三人の反応をよそに、瑞稀は腕時計へ目を落とす。
「それじゃあ、各自ウェットスーツに着替えて、プールサイドに十一時集合! 解散!」
号令とともに、三人はそれぞれロッカールームへ向かった。衣服を脱ぎ、支給されたウェットスーツを広げる。
スーツに袖を通すのは、これで二度目だった。体験ダイビングの時に一度経験している。
だから少しくらいは手際よく着られるだろう――そう思っていた。
「うぐぐ……き、きつい……!」
現実は甘くなかった。乾いた肌にぴったり張り付くゴム製のスーツは、相変わらず手強い。結局今回も、外のシャワーで全身を濡らして滑りを良くし、ようやく中へ潜り込むことができた。肩で息をしながら最後のファスナーを上げる。
ふと鏡を見ると、そこには黒いウェットスーツに身を包んだ自分の姿が映っていた。
その瞬間、胸の奥が高鳴る。
――本当に始まるんだ。
プール講習も、ライセンス取得への挑戦も。高まる期待を抑えきれないまま、凪は鏡の中の自分をもう一度見つめた。
プールサイドに出ると、遮るもののない夏の日差しが容赦なく降り注いだ。
美央と「これ着ると強くなった気がする!」などと笑い合っていると、ちょうど海から戻ってきたダイバーたちが目の前を通り過ぎていく。
すれ違いざま、潮の香りがふわりと漂った。 ウェットスーツやフィンは、長年の使用で色褪せている。それがかえって使い込まれた道具ならではの風格を感じさせた。中には大きな水中カメラを抱えている人もいる。
「今日の透明度、かなり良かったよ!」
「あそこの根、魚だらけだったな!」
そんな会話を交わしながら器材を片付ける姿は、誰もが楽しそうだった。
凪はその光景に目を奪われる。
自分たちはまだ、この世界の入口に立ったばかりだ。けれど、それは悔しさではなく憧れだった。
(いつか私たちも――)
海から上がってきて、あんなふうに笑い合える日が来るのだろうか。そう思うだけで胸が高鳴る。
その時だった。
プールサイドの奥から瑞稀が歩いてくる。
首には黄色いホイッスル。ラッシュガードの上に羽織ったパーカーが風にはためいていた。その姿は、先ほどまでの優しい先生とはどこか違う。
ダイバーたちの安全を預かる、プロのインストラクターそのものだった。
「よし、全員そろったね! それじゃあこれより、プール講習を始めます!」
腹の底から響くような声がプールサイドに響く。その瞬間、凪たちは思わず背筋を伸ばした。
南越前の風が頬を撫でる。胸の奥に、心地よい緊張感が生まれる。
いよいよ始まるのだ。ダイバーになるための四日間が。




