海へのパスポート 2
「じゃあ、まずは器材のセッティングからやります。みんな、それぞれ自分の器材の前に並んで」
瑞稀の声に促され、三人はプールサイドに等間隔に並べられた器材の前へ立った。
体験ダイビングのときは、すでに組み上がった器材を背負わせてもらっただけだった。だが今、目の前にあるのは違う。銀色に光る金属製のタンク。何本ものホースが伸びた黒い塊。そして、ジャケットのような形をしたBCD。それぞれがバラバラの状態で置かれている。
(こんなにたくさんの部品でできてたんだ……)
動画学習で見たはずの光景だった。しかし実物を前にすると、その複雑さに思わず圧倒される。
ついさっきまで抱いていた「二回目だから大丈夫」という根拠のない自信は、あっけなく消え去った。頭の中に詰め込んだ知識を必死に引っ張り出そうとするが、試験本番を前にしたような心許なさばかりが募っていく。
「みんな、動画でちゃんと覚えてきたかな?」
瑞稀が笑顔で問いかける。
そう言って手に取ったのは、レギュレーターの中心となる金属部分――ファーストステージだった。
瑞稀は器材を示しながら、それぞれの名称や役割を説明していく。どのホースが何のためにあり、なぜその位置に取り付けられているのか。その説明は丁寧で分かりやすく、まるで見本を見せるようだった。
やがて器材の構造についての説明が一通り終わる。そして、いよいよ実践の時間がやってきた。
「じゃあ、実際に組み立ててみようか」
セッティング練習の開始だった。
「まず、タンクのバルブをほんの少しだけ開く。シュッて音がするから、その空気の匂いを直接嗅いでみて。異常な匂いがしないことを確認するの。これ、すごく大事なチェックね」
瑞稀はそう言いながら、慣れた手つきで器材を組み立てていく。
「それからBCDをタンクに取り付けて、ベルトをしっかり締める。次にレギュレーターのファーストステージをタンクのバルブに接続して……」
流れるような手さばきを見つめながら、三人も実際に作業を始めた。
「えっと、まずはバルブを少し開けて、匂いを嗅ぐ……」
シュッ、と鋭い音が響く。凪は恐る恐るタンクの口元へ鼻を近づけた。無機質で、それでいて清潔な匂い。極限まで乾燥した空気が鼻腔をくすぐる。異常はなさそうだ。
三人は教本で覚えた手順を声に出して確認しながら、一つひとつ器材を組み上げていく。
講習が始まってからというもの、美央のテンションはずっと高いままだった。まるで遠足前の子どもである。
重いタンクと格闘しながらも、その口元は終始ゆるみっぱなしだった。
「へへっ、なんか楽しい!」
金属のバルブを回すだけでも面白いらしい。美央はニコニコと笑いながら、夢中になって器材を組み立てていた。
そんな美央を見ていたみどりが、ふと真顔で言った。
「エアーの匂い嗅ぎすぎて、なんかおかしくなったんじゃね?」
あまりにも真面目な顔で言うものだから、その絶妙な言い回しが凪のツボを直撃した。
「ふふっ、あははは!」
思わず吹き出す。
講習が始まってからずっと肩に入っていた力が、その笑いと一緒にほどけていくようだった。
「ちゃうわ!嬉しすぎてニヤニヤが止まらないだけ!」
「はいはい。タンクには普通の空気しか入ってませんー」
美央はむっと頬を膨らませて、その様子に瑞稀もくすりと笑いながら、講習を進めた。
穏やかな冗談に、周囲からまた笑みがこぼれる。
張り詰めていた空気がふっと和らいだ。講習が始まってからずっと緊張していた凪も、気づけば自然と笑っていた。
――ああ、楽しい。
ようやく心の底から、この時間を楽しめる気がした。
「よし、じゃあみんなセッティングもばっちりだし、暑いからプールに入ろうかー!」
待望の号令が響く。
「やったー!」
美央が真っ先に歓声を上げる。
三人はまだ器材を背負わない、ウェットスーツ姿のまま一斉にプールへ足を踏み入れた。
「うわっ……!」
体を水へ沈めた瞬間、凪の口から思わず驚きの声が漏れた。
浮く。
とにかく、浮く。想像をはるかに超える浮力が全身を包み込み、下からふわりと持ち上げてくる。
力を抜くだけでいい。
何もしなくても、水が優しく体を支えてくれる。まるで柔らかなベッドに身を預けているようだった。あるいは、形のない雲の上に寝転んでいるような感覚。これまで味わったことのない不思議な心地よさに、凪は思わず目を見開いた。
「それがウェットスーツの持つ浮力。結構な力があるでしょ? まずはその感覚を体にしっかり染み込ませてね。これから、そこに重い器材やウェイトを足していって、自分の浮力がどう変わるか、その感覚をコントロールする練習をしていきます」
「……先生~、これ、気持ちよすぎます~」
美央がぷかぷかと水面に浮かびながら、とろけそうな声で呟いた。
重力から解放されたような感覚。
何も考えず、ただ身を委ねているだけで、水が全身を優しく支えてくれる。三人は雲ひとつない夏空を見上げながら、水面に身を預けていた。
「ふふふ。初めてのときは感動するよね。分かるな~」
瑞稀は優しく微笑みながら、その様子を見守っている。
水が耳を塞ぎ、世界の音を遠ざける。聞こえるのは水の揺れる音だけ。
太陽の熱を全身に浴びながら漂う時間は、それだけで日常の雑事を忘れさせてくれた。
いつまでもこうしていたい。そんな気持ちが芽生え始めた頃だった。
視界の端で、瑞稀が大きく手を振る。それを見て、三人は名残惜しそうに姿勢を起こし、水底へと足をつけた。
「はい、次! どんどん行くよー。三人とも、一回プールから上がって。今度はさっき組んだ器材を背負って、同じように浮いてみて」
再びプールサイドへ上がると、真夏の熱気がウェットスーツ越しにも容赦なく襲いかかってきた。
先ほど組み立てた器材を、お互いに手伝いながら背負う。肩にのしかかるタンクの重み。腰に巻いたウェイトベルトの圧迫感。陸上では思わず前かがみになりそうなほど重い。
「重っ……!」
凪は思わず声を漏らした。そのまま慎重に水へ入る。すると、さっきまで体を押し潰していた重さが嘘のように軽くなった。
そのまま瑞稀の指示通り、BCDに空気を入れる。すると胸元がゆっくりと膨らみ、それに合わせるように体が水面へと持ち上がっていった。
ところが、思ったように安定しない。少し力を抜くと体が傾き、顔が水面に近づく。慌てて体勢を立て直そうとすると、今度は反対側へ傾いてしまう。ウェットスーツだけで浮いていたときのように、ただ身を預ければいいわけではなかった。
背中のタンク。腰のウェイト。BCDの空気。そして自分の呼吸。
息を大きく吸うだけで胸がわずかに浮き、吐けば少し沈む。
その変化が思った以上に大きい。
(難しい……)
凪は手足を動かしながら必死にバランスを取る。まるで一本橋の上に立っているような感覚だった。三人は何度も姿勢を崩し、そのたびに立て直し、体を安定させる感覚を少しずつ覚えていった。
講習は、瑞稀の明るいキャラクターのおかげで、どこか和やかな雰囲気に満ちていた。何度も何度も同じ動作を繰り返す反復練習。初めは上手くいかなかったバランスの取り方も、回数を重ねるごとに、三人の体は自然とコツを掴んでいく。ダイビングという未知のスキルを、一つずつ、けれど確実に自分のものにしていく充実感が、凪の胸を熱く満たしていた。
時計の針が12時を回る頃、午前のカリキュラムが一段落し、プールサイドでの昼食タイムとなった。
夏の日差しに熱せられたコンクリートの上で、三人は並んでお弁当の包みを開ける。ダイビングのウェットスーツというのは、一度完全に脱いでしまうと、濡れたゴムが肌に張り付いて再び着る時に何倍もの体力を消耗する。そのため、三人はスーツの上半身だけを脱ぎ、脱皮した皮のように腰のあたりにぶら下げたスタイルで過ごすことにした。
「なんか、変な格好だよね、これ」
凪が自分の上半身の皮を突っつきながら苦笑する。今まで着てきたどんな服でも、こんな風に腰から下が分厚いゴムの塊になるような着方はしたことがない。しかし、周りを見渡せば休憩中のダイバーたちはみんな同じような格好をしていて、それがまた”ダイバーの日常”に仲間入りしたような新鮮な感覚を彼女たちに抱かせた。
「完全に脱皮の途中だもんね」
みどりも楽しそうに、脱げた上半身の腕を持ち上げては無造作に落とす。
午後からの講習は、いよいよ本格的な水中実習へと移った。瑞稀もウェットスーツを着込み、三人と一緒にプールへ潜る。
水底に膝をつきながらレギュレーターで呼吸する感覚に慣れ、残圧計の見方やハンドシグナル、水中でレギュレーターが外れた際の対処法など、安全に潜るための基本スキルを一つずつ練習していった。講習は午前中の浮力体験とは打って変わり、実践的な内容が続く。三人は時折戸惑いながらも、瑞稀の指導のもと着実に技術を身につけていった。
カリキュラムが進むにつれて、講習は単なる「楽しい水遊び」ではなく、「命を守るための訓練」としての色を濃くしていく。それに合わせるように、いつもは冗談を交えて場を和ませる瑞稀の声にも、わずかな重みが宿り始めていた。
「いい? 水中では私たちは息ができないの。器材が機能して、初めて生きていられる。だから、一つ一つの動作を、おざなりにしないこと」
その言葉に、三人の表情も自然と引き締まる。
いくつかのスキルを終え、一度プールサイドで休憩を挟んだ時だった。
瑞稀が三人を見回し、少しだけ真剣な表情で口を開く。
「よし、次はね……みんなに『エア切れ』を体験してもらいます」
その言葉を聞いた三人の頭上には、一斉に大きな疑問符が浮かんだ。
「もちろん水中じゃないよ。危ないから陸の上でね。もし万が一、水中でタンクのエアが完全に無くなってしまったら、人はどう感じるのか。その『恐さ』を、一度ちゃんと知っておいてほしいんだ。」
瑞稀は三人を見回しながら続ける。
「本で読むのと、実際に体験するのとでは全然違う。その恐さを知っているだけで、残圧管理への意識も、安全に対する考え方も変わるからね」
その真剣な口調に押されるように、三人は黙って頷いた。
指示に従いマスクを装着する。床に置いたタンクから伸びるレギュレーターを口にくわえ、水中と同じように呼吸を始めた。
シュコー。
シュコー。
規則正しい呼吸音が響く。
三人が落ち着いて呼吸できていることを確認すると、瑞稀は順番にタンクのバルブへ手を伸ばした。
きゅっ。
金属の擦れる小さな音とともに、バルブが閉じられる。
(あれ……?)
最初はほとんど変化を感じなかった。だが次の一呼吸で、違和感が生まれる。
吸い込むときの抵抗が少しだけ強い。
もう一度吸う。
今度はさらに重い。
(なんか、おかしい……)
そして次の瞬間だった。
いつもなら当たり前のように流れ込んでくるはずの空気が、ぴたりと途絶えた。
吸えない。
どれだけ強く吸い込もうとしても、何も入ってこない。
「――っ!?」
凪の目が大きく見開かれた。
空気が、一ミリも入ってこない。
しぼみきったゴム風船を必死に吸い込もうとしているような、絶望的に平べったい感覚。どんなに肺を大きく広げようとしても、その先にあるはずの空気が存在しない。焦って鼻から息を吸おうとしても、マスクのゴムが鼻を覆い、わずかの空気も吸うことはできない。
たったそれだけのことなのに、背筋を冷たいものが駆け上がった。
頭が理解するより先に、体が危険を察知する。
息ができない。
「がはッ!」
限界はわずか数秒だった。凪は反射的にレギュレーターを口から引き抜く。隣では美央も、みどりも、ほとんど同時にレギュレーターを外していた。
「げほっ、げほっ!」
口元が解放された瞬間、夏の湿った空気が一気に肺へ流れ込む。
「はぁっ……!」
吸える。
ただそれだけのことが、信じられないほどありがたかった。
たとえ一瞬の出来事だったとしても、ようやく送り込まれた酸素に、肺も全身の細胞も歓喜しているように感じる。
同時に、背筋を冷たい汗が伝った。
圧倒的な――暴力に近い恐怖だった。
凪は肩で息をしながら、手の中のレギュレーターを見つめた。ほんの数秒前まで、当たり前のように空気を送り続けてくれていた装置。
もし、これが本当の水中だったら。
今こうしてレギュレーターを外した瞬間に吸い込んだ空気は、すべて冷たい海水に置き換わっていたはずだ。
息が吸えない。
だから外す。
だが外しても、そこには空気などない。
あるのは、肺へ流れ込む大量の海水だけだ。
その事実を想像した瞬間、恐怖はさらに膨れ上がった。
長距離を全力疾走した後のように、「はぁはぁ」と三人は荒い呼吸を繰り返す。自分が本当に呼吸できていることを確かめるように。
瑞稀が「大丈夫?」と声をかけるより早く、美央が震える声を上げた。
「……やっば。これ、めっちゃこわい……! 死ぬかと思った……!」
「……うん、やばいね。本当に、やばかった……」
凪も胸に手を当てながら、美央の言葉に心から同意した。美央が先に恐怖を言葉にしてくれたおかげで、どれほど救われたか分からない。
自分の中に渦巻く不安を友人たちと共有して、ようやく少しだけ心が落ち着いていく。
少し心配そうに三人の様子を見ていた瑞稀が、静かに問いかけた。
「大丈夫? どうだった、エア切れの感覚は」
「やばいっす、先生。これ、もし水中で起きたら、私、確実にパニクってます……」
みどりが珍しく冗談抜きの口調で答える。凪も美央も、何度も首を縦に振った。
その反応を確認すると、瑞稀は静かに頷いた。
「うん。その感覚を忘れないでね」
穏やかな声だった。けれど、その言葉には重みがあった。
「エア切れは、ダイバーが絶対に避けなきゃいけないトラブルの一つなの。だから残圧を確認するし、バディ同士でお互いを気にかける」
三人は黙って耳を傾ける。
「でもね。どれだけ気をつけていても、器材の故障や予想外のトラブルが起きる可能性はゼロじゃない」
そこで瑞稀は小さく笑った。
「だから練習するんだよ。もしもの時に慌てないためにね」
そう言って三人を見回す。
「じゃあ今度は、水中でオクトパス(予備の呼吸装置)を受け取る練習をしてみようか」
気を取り直して、オクトパスをバディに渡して呼吸をするシミュレーションが始まった。
先ほどの体験から、より一層真剣になる。
凪は美央とバディを組み、向き合う。
「まず、エアが切れた側が、バディに対して『エアがない、空気をください』というハンドシグナルを出します」
瑞稀の指示に従い、凪は真剣な表情で美央の目を真っ直ぐ見つめた。そして、右手を水平にして、自分の首の前で横にサッと動かすジェスチャーをした。教本通り、「私は息ができません」というサインだ。それから、掌を上にして自分の顔の方を仰ぐように引き寄せる動作をして、「空気を求める」シグナル。完璧だ。
その瞬間。
正面にいた美央の顔が、突然「ぷっ」と不自然に歪んだ。こらえきれなくなったように、美央が吹き出す。
いきなり笑い出した美央に、凪が困惑していると、少し離れた場所で見ていたみどりが、ふふっと口元を押さえ、しみじみとした口調で共感した。
「……わかる。わかるよ、美央……。」
「え? なに? 私なんか間違えた!?」
焦る凪に、美央は涙目を拭いながら指をさした。
「だって凪ちゃん、めちゃくちゃ真面目な顔で……。」
「完全に『首をハネる』動作だったね。」
みどりが解説を付け加える。
「海外のギャング映画とかで、裏切り者を見つけた時にやる『お前を殺す』のサインだよね。水中でバディにあんな真剣な顔でやられたら、空気もらう前に恐怖で心臓止まりそう」
「ええっ!?」
エア切れのハンドシグナルは、確かに喉の前で手を横にスライドさせるのだが、凪の真面目な性格と、先ほどの恐怖による強張りが仇となり、どうにも二人には別の意味の恐ろしいジェスチャーに見えてしまったらしい。
「一回だけじゃなくてさ、こう、何回か往復させればマイルドになるんじゃない?」
美央が手をせわしなく往復させて見せる。
「いや、単純に、親指を立てなきゃいいんだよ。凪の手の形がシャープすぎるんだって」
二人は思い思いに、テクニックを交えたツッコミを始める。
「もー、ハンドシグナル難しいよ! 私、手話とかそういうのまじで苦手だったんだから!」
凪は恥ずかしくなり、自分の不器用さをカバーしようと言い訳を並べていると、後ろから瑞稀がニヤニヤしながら容赦のない追い打ちをかけた。
「確かにねぇ、最後のも一回だけだと『エアをください』じゃなくて『かかってこい』に見えるしね」
その言葉が決定打となり、美央とみどりはプールサイドに響き渡るような大爆笑声を上げた。
「あははは! 凪こわっ! 水中の殺し屋じゃん!」
「バディを助けるどころか、やられる……っ!」
あまりにも緊張感のある空気の中で、凪が超真面目な顔で練習をしたのが、余計にそんな勘違いを生んでしまったのだろう。
こうして凪は、その日の講習中ずっと「水中の殺し屋」と呼ばれ続けることになった。本人にとっては不名誉極まりない話だったが、おかげで重苦しかった講習の空気はすっかり和らいでいた。




