海へのパスポート 3
1日目の講習を終えたとき、身体は心地よい疲労感と、それ以上の充実感で満たされていた。
プールという管理された環境とはいえ、水中は陸上とはまったく異なるルールに支配された世界だ。レギュレーターが外れたときの対処法、マスクに水が入った際のクリア方法、そしてバディと空気を分け合う手順。どれも教本や動画で予習していた内容だったが、実際に水の中でやってみると、小さな動作ひとつにも驚くほどの集中力が必要だった。
頭では理解しているつもりでも、体が思うようについてこない。けれど、繰り返し練習するうちに、それまで「知識」だったものが少しずつ身体に馴染み、生きた「技術」へと変わっていく。その感覚がたまらなく新鮮だった。さらに、瑞稀の丁寧でわかりやすい指導もあり、学ぶことは尽きない。気づけば時間はあっという間に過ぎ、内容の濃い充実した一日となっていた。
重いシリンダーや器材を全員で手分けして片付け、温かいシャワーを浴びて私服に着替える。それだけで、一日中張り詰めていた緊張がふっとほどけていくのが分かった。
明日の準備を軽く済ませると、全員で瑞稀の車に乗り込む。車窓を流れる景色は、見慣れた街並みから少しずつ表情を変え、やがて潮の香りが漂うのどかな沿岸風景へと移り変わっていった。
しばらく走り、細い路地を曲がった先で車がゆっくりと停まる。そこにあったのは、この合宿中の宿となる白い民宿だった。木造の建物はどこか懐かしく、長い年月を静かに重ねてきたような温もりを感じさせる。車を降りて玄関をくぐると、三和土の奥に続く廊下が目に入った。使い込まれた床板は飴色の艶を帯び、夕方の柔らかな光を受けて静かに輝いている。
「お世話になります」
先頭に立った瑞稀の、ハキハキとした、しかしどこか親しみのある挨拶。それに合わせるようにして、奥の勝手口から「はいはい、いらっしゃい」と、優しそうな笑顔を浮かべたご主人と女将さんが姿を現した。
「よお来てくれたね。ゆっくりしていってね。」
女将さんの温かい声と、ご主人の無言ながらも包容力のある眼差しが、慣れない講習で少し強張っていた私たちの心を、芯からじんわりと解きほぐしてくれるようだった。女将さんの案内に従って、一段一段、トントンと小気味いい音を立てる木製の階段を上っていく。ギシ、と時折鳴る床の音さえも、この宿の歴史を感じさせて愛おしい。
案内された部屋の引き戸を開けると、途端に、い草の青っぽくも落ち着いた、畳の匂いが鼻腔をくすぐった。これぞ日本の夏、そして旅の宿、という実感が一気に押し寄せてくる。
「夕食は6時半から、1階の大広間で用意するからね。」
女将さんはそう言い残し、もう一度にっこりと笑って一階へと降りて行った。
部屋に入ると、凪は静かに室内を見渡した。
そこは、現代的なビジネスホテルとも、至れり尽くせりの高級旅館とも違う、どこまでも簡素な空間だった。壁際には今どき珍しいほど小さな液晶テレビがひとつ。畳の隅には数少ないコンセントが申し訳なさそうに顔をのぞかせ、壁には小さな鏡が掛けられている。
けれど、そのシンプルさは少しも不便に感じられなかった。むしろ余計なものが何ひとつないからこそ、空間全体がゆったりとした静けさに包まれている。畳の匂い。年季の入った木の香り。そして窓の外から聞こえてくる、遠い波音。削ぎ落とされた景色のすべてが、張り詰めていた神経をそっとほどいてくれるようで、すごく心地よかった。窓の外からは、遠くで繰り返される穏やかな波の音が、規則正しく繰り返されている。
「よっこらしょ、と」
誰からともなく声が上がり、それぞれが部屋の四隅へ大きなボストンバッグやリュックを運んでいく。
仕切りがあるわけでもないのに、荷物を置いた場所を中心に、自然と一人ひとりの「居場所」ができあがっていく。その光景がなんだか可笑しかった。
凪も一番近かった引き戸の脇に荷物を置き、自分の陣地を決める。時計を見ると、針は五時半を少し回ったところだった。夕食までは、まだ一時間ほどある。
「夕食まで時間あるし、ちょっとログ付けの練習をしようか」
瑞稀は部屋の隅に立てかけられていた座卓を抱え上げると、部屋の中央へ運び、静かに下ろした。
「ログ付け?」
聞き慣れない言葉に、凪は首を傾げる。
「教本と一緒に入ってた、コレ。持ってきた?」
瑞稀は教材セットの中から、小さな冊子を取り出してみせた。厚手のビニールカバーに包まれたそれは、パスポートをひと回り大きくしたようなサイズのノートだった。
「あ、それなら……」
三人はそれぞれ自分の荷物を開き、冊子を探し始める。
ほどなくして、まだ折り目ひとつ付いていない真新しい冊子が三冊、座卓の上に並んだ。表紙には『LOG BOOK』の文字。
「ここに、その日のダイビングの記録を書いていくの。潜る前と潜った後のシリンダーの残圧、潜った場所、気温や水温、使ったスーツやウエイトの重さ。それから海の中で見た魚とか……。とにかく、その日のダイビングに関するいろんな情報を残していくのが、ダイバーのルールなんだよ」
そう言いながら、瑞稀は使い込まれた自分のログブックを開いて見せてくれた。ページには細かな数字や海況のメモがびっしりと書き込まれている。その隙間を埋めるように、小さな魚のイラストや色とりどりのコメント、一緒に潜ったインストラクターやバディのサインが並んでいた。
ページをめくるたびに、違う海の景色が現れる。それは単なるデータの記録ではなかった。
瑞稀がこれまで出会ってきた海や生き物、一緒に潜った仲間たちとの思い出が詰まった、世界に一冊だけのアルバムのようなものだった。
「わぁ……」
凪は思わず見入ってしまう。まだ真っ白な自分のログブックも、いつかこんなふうに埋まっていくのだろうか。
「これって、毎回必ずやるんですか?」
ページをめくる瑞稀の手元を覗き込みながら、みどりが尋ねる。
「うん。必ず。ダイバーである以上、これは義務であり、同時に最大の楽しみでもあるんだよ。これで自分がこれまでに潜った本数の記録もしていくからね。50本、100本、150本って感じで、節目の数字が見えてくるの。ダイビングの世界ではね、潜った本数の記念で、海の中で横断幕を広げてお祝いしたり、みんなでパーティーをしたりもするんだよ」
「へぇー! 楽しそう!」
美央の目がさらに輝く。どうやら彼女の中では、ログブックは単なる記録帳ではなく、自分たちの冒険を刻んでいく日誌へと姿を変えたらしい。
「公式なルールとしては、3日目にやる海洋実習の1回目が、ダイビングログとしては本物の『1本目』になるね。」
「おぉ~。じゃぁ、それがダイビングデビュー記念だね!」
新品のログブックの一ページ目は、まだ真っ白だ。けれど、その空白が退屈に見えることはなかった。むしろ、これから書き込まれる景色や思い出を待っているようで、胸が高鳴る。
記念すべき最初のログは、海洋実習の一本目。三人とも異論はなかった。
時計の針が六時半を指す少し前、凪たちは二階の部屋を出た。トントンと小気味よい音を立てる木造の階段を下り、一階の広間へ足を踏み入れる。
その瞬間、香ばしい醤油の焦げる匂いと、出汁の芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。長い座卓の上には、驚くほどの品数の料理が並んでいた。この地元の漁港で水揚げされたという瑞々しい地魚の刺身。照りよく煮付けられた魚料理。泥付きのまま収穫された地元野菜をふんだんに使った天ぷら。どれも気取った豪華さではなく、土地の恵みをそのまま並べたような温かみのある料理ばかりだった。
その光景を目にした途端、プール講習で消耗しきっていた胃袋が一斉に存在を主張し始める。
「さ、みんな席に座って。」
瑞稀は、まるで実家のリビングにいるかのような手慣れた様子で一同を促した。その言葉に従い、凪とみどりは並べられたご馳走の豪華さに目を丸くしながら、それぞれ近くの席へ腰を下ろす。
だが、美央だけは席に着かなかった。瑞稀が厨房の奥へ向かうと、彼女もまた何事もないような顔でその後をついていく。瑞稀が湯気の立つ炊飯釜の蓋を開けたところで、美央はすっと隣に並んだ。
「先生、私がお茶碗運びますね」
「あ、本当? 助かるわ、美央ちゃん」
美央は、瑞稀によそってもらった山盛りのご飯茶碗を次々と受け取ると、慣れた手つきで配り始めた。
「はい、凪ちゃん」
ぽん、と目の前に茶碗が置かれる。続いてみどりの前にも置き、自分はまた厨房へ戻っていく。そのあまりにも自然な動きを見て、凪とみどりは慌てて立ち上がる。自分たちだけが何もしていないことに今さら気づく。
「あ、ごめん! 私も!」
「あ、じゃあ、うち、お味噌汁運ぶ!」
お盆の上に並べられた、地魚のあら汁がたっぷり入ったお椀を、二人は今度こそ慌てて受け取り、食卓へとおずおずと並べていく。すると、あっという間に完璧な食卓が整えられていった。
(美央って……本当にすごいな……)
凪は、自分の席に戻って箸を割りながら、美央の横顔をまじまじと見つめていた。
彼女は特別気負った様子もなく、誰かに言われたわけでもなく、それが当たり前のように自然に身体が動いていた。それは一朝一夕で身につくようなものではない。
それに引き換え、自分はどうだろう。お腹が空いたという本能のまま、ただ座ってご飯を待とうとしていた自分。美央の自然な振る舞いを見ていると、自分の幼さや気の利かなさばかりが目につく。胸の奥がむず痒くなるような、少しだけ情けない気持ちだった。
それでも夕食は楽しかった。ダイビングの話や学校の話、夏休みの宿題の話で盛り上がりながら、凪たちは地元の海の幸を心ゆくまで味わった。
やがて食事も終わり、「ごちそうさまでした」と、それぞれが手を合わせる。
だが、美央はそこで終わらなかった。
箸では難しい焼き魚も綺麗に平らげた美央は、しっかりと胸の前で手を合わせて深く一礼すると、自分の食器だけでなく、テーブルの上の空いた大皿をテキパキと重ね始めた。そしてそれらを両手に抱え、厨房の入り口へと向かった。
「女将さん、ごちそうさまでした! 本当に美味しかったです! お片付け、何か手伝うことありますか?」
その声に、厨房の奥からガタゴトという音をさせて、女将さんの驚いたような、そして何よりも嬉しそうな顔が覗いた。
「あらあ! ありがとう! でも大丈夫よ、お客さんなんだからゆっくりしていって。ありがとうねえ。」
そのやり取りを、残された座卓の席から呆然と見届けていたみどりが、ついに耐えかねたように、素直すぎる疑問を口にした。美央が席に戻ってきたタイミングを見計らい、身を乗り出すように尋ねた。
「ねえ、美央ってさ……なんか、すごい慣れてるっていうか。家でもいつもそういうのやってるわけ?」
美央は、みどりの質問の意図がすぐには掴めなかったようで、首を少し右斜めに傾げ、パチパチと瞬きをした。
「そういうのって?」
「いや、だから……家事とか、気配りとか、そういうやつ」
「ああ! なんだ!」美央はぱっと顔を明るくした。「うん! いつもやってるよ!家でもご飯作ったり片付けたり!」
その笑顔は、まるで「今日は晴れだよ」とでも言うような気軽さだった。そこに自慢げな様子は欠片もない。だからこそ、凪とみどりは言葉を失った。「偉いね」も「すごいね」も、どこか的外れな気がする。美央にとっては特別なことではなく、ただの日常の当たり前なのだ。
その事実が、二人の胸にじわりと染みた。凪がそっと身を寄せ、みどりの耳元でささやく。
「……うちらも、見習わなきゃだね……」
するとみどりは、遠い目をして首を横に振った。
「……無理。」みどりは凪を見て言った。「あたし、大人になってもあんなふうにできる気がしないもん……」
そう言って小さく肩をすくめる。凪も思わず苦笑した。少なくとも今の自分には、その気持ちがよく分かった。
そんな二人の複雑な心理などどこ吹く風で、美央はすでに宿の主人や女将さんと打ち解けていた。お茶のお代わりをもらいに行ったはずなのに、いつの間にか話が弾んでいる。
この地域の冬の話。漁港の話。廊下に飾られた古い写真の話。厨房の方からは時折、美央の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
まるで昔からこの宿に通っている常連客みたいだ。
凪とみどりは顔を見合わせた。そして同時に思った。
(あれは、真似できない。)
夕食の後、私たちは「お風呂に入る順番」を厳正なるじゃんけんで決めた。
結果、一番風呂を勝ち取ったみどりがホクホク顔で脱衣所へと消え、順々にお湯に浸かって、一日の潮風とプールの塩素を綺麗に洗い流していく。
全員が二階の部屋に戻り、これまた全員で協力して畳の上に自分の布団を敷き終えたとき、堰を切ったように一気の疲労感が押し寄せてきた。
シーツのピンと張った心地よい冷たさと、微かに残るお日様の匂い。みどりは布団の上にダイブするなり、まるで日向ぼっこをしている猫のように、うーんと四肢を長く伸ばして、そのまま布団と同化していきそうな勢いだった。
「みんな、けっこう疲れてるでしょう?」
瑞稀が、自分の布団の上に腰掛け、髪をタオルで拭きながら優しく微笑みかけた。
「半日以上、水に浸かってたからねー。今日はよく眠れるよー」
瑞稀の言う通り、このまま目を閉じたら、すぐに朝になりそうな気がした。しかし、この部屋には、そんな疲労とは無縁の圧倒的な生命体が約一名、存在していた。
「えー! もったいないよ! トランプやろうよ! 修学旅行みたいじゃん! 」
ただ一人、お風呂上がりで肌をツヤツヤと輝かせ、信じられないほどけろっとした顔で畳に座っている美央だった。彼女の手には、どこから取り出したのか、年季の入ったトランプのパックが握られている。
美央の底なしの元気さに引きずられるようにして、結局私たちは、敷いたばかりの布団の中央に丸く集まり、中心に置いた座布団を囲んでババ抜きを始めることになった。
「……ねえ、ちょっと本気で疑問なんだけど」
みどりが、配られた手札を扇形に広げながら、じと目で美央を睨みつけた。
「なんであんた、そんなに元気なの?」
美央は、自分の手札から揃ったペアのカードを「はい、そろった!」と楽しそうに場に捨てながら、なんでもないことのように答えた。
「んー? なんでだろう? 引っ越しバイトのおかげかなぁ?」
それを聞いて、それまで見守るポジションにいた瑞稀が、目を丸くして身を乗り出した。
「えー!? 美央ちゃん、引っ越しのバイトやってたの!?すごいね!荷物とか重くないの?」
「全然へっちゃらです!むしろありがとうを言われるのが嬉しくて!」
美央が誇らしげに胸を張る。
「もうあれだ。なんか出来過ぎというか、スペックがおかしい。」
あくびをしながら、みどりは凪の手札に手を伸ばす。
カードをめくるパチ、パチという音。窓の外から聞こえる穏やかな波の音。そして、とりとめもない会話と笑い声。
特別な出来事があるわけではない。けれど、そんな何でもない時間ほど、後になって不意に思い出すものなのかもしれない。今はまだ誰も、そのことを知らない。ただ四人は、それぞれに笑いながら、ゆっくりと更けていく民宿の夜を楽しんでいた。
みどりが凪の手札から、慎重に一枚を選び、指先でそっと引き抜く。そして何でもないことのように口を開いた。
「……そういえばさ、凪。黒川さんとは、あれからどうなったの?」
心臓が、ドクンと跳ねた。凪の手が、一瞬だけ止まる。
「あ……!」
トランプを握る手に少しだけ力を込める。そして次の瞬間、思い出したように顔を輝かせた。
「仲直り、できたよ! そうだった、みどり……! あの時はチケット、本当にありがとうね……!!」
みどりは、安心したように小さく笑った。
夏休みに入ってからの登校日。玲と普通に話している姿を見ていたはずだが、みどりは何も聞かなかった。
きっと気を遣ってくれていたのだろう。
「バイトの最後の追い込みとか、テストの返却とかが重なっちゃって……。みどりにちゃんと報告できてなかった……。ごめん。」
凪は申し訳なさそうに頭を下げた。みどりは「いいって、いいって」と手を振る。
みどりは、手に入れたカードを自分の手札に並べ替えながら、少しだけ声を潜めて核心に触れた。
「で? 結局、黒川さんは、部に、入ってくれそうなの?」
凪は視線を落とした。
脳裏に浮かぶのは、あの日の帰り道だった。
しばらく黙り込んだあと、小さく息を吸う。
「うん――。たぶん、ね。」
*
オレンジ色に染まった歩道を、玲は凪と並んで歩いていた。
凪に連れ出されて、久しぶりに「どこか」へ遠出をした黒川玲は、自分でも驚くほど、穏やかで静かな心を取り戻していた。
オレンジ色から深い紫へと移り変わっていく夕暮れの帰り道を、凪と二人、並んでゆっくりと歩いていく。
カラカラと自転車のタイヤが回る音すら心地よかった。
アスファルトに伸びる二つの影が、街灯の光に照らされて長くなったり短くなったりを繰り返していた。
この濃厚な一日を、頭の中で最初から丁寧に思い返してみる。
それだけで、ここ数ヶ月ずっと胸の奥に居座っていた重苦しい鉄の塊のような気持ちが、ふっと嘘のように軽くなっていくのが分かった。
「楽しかった」という純粋な思い出だけが、今の玲の頭の中を心地よく満たしている。
しばらく触れていなかった、お気に入りのカメラのファインダーも、今日は何度も覗くことができた。ファインダー越しに見る世界は、瑞々しくて、輝いていた。
それに、美央という少女。
最初は賑やかで、少し苦手なタイプかもしれないと思っていた。でも違った。
あの子は、人のことをよく見ている。そして、驚くほど自然に寄り添うことができる。
初めて出会った瑞稀先生も、大人なのに偉そうなところがなくて、自然と背中を押してくれる。カナヅチを克服するという、自分にとっては大きな挑戦も、この人がいてくれるなら何とかなるかもしれない。そんな気がしていた。
何よりも、凪だ。
あんなに自分勝手で、ひどい態度を取って、突き放すようなことばかり言ったのに。
凪はどこまでも自分のことを変わらず信じてくれていた。変わらず、「親友」でいてくれた。
もしかしたら。世界は、自分が殻に閉じこもって恐れていたほど冷たい場所じゃないのかもしれない。
もっと優しくて、もっと温かいものが、案外すぐ近くにあったのかもしれない。
こんなにも優しさをもらったのに、逃げたままでいたら、絶対にバチが当たる。
いつもの帰り道。
いつもの、二人の家へと続く別れ道。
玲は不意に足を止めた。驚いて振り返る凪の視線を、玲は真っ直ぐに見つめ返した。
逃げずに、逸らさずに。
そして、静かに、けれど固い決意を込めて。
「私、挑戦してみる。……みんなと一緒に、海に行けるように、頑張るから。 だから……少しだけ、待ってて。」
その言葉は、玲自身を縛っていた鎖を断ち切るための宣言でもあった。
次の瞬間、海から吹き上げてきた風が二人の間を駆け抜ける。
長い髪が揺れた。
玲はもう、俯いていなかった。
*
玲の決意表明を聞いた時、私はどんな表情をしていただろう。
あの時のことはよく覚えている。玲から「待ってて」と答えをもらったことも。
けれど、自分が何を言ったのかは不思議と思い出せない。
ただ一つだけ確かなことがある。
私が差し出した手を、親友はちゃんと握り返してくれた。
だから、あとは信じて待つだけ。
凪が隣の瑞稀の手札へ手を伸ばした、その時だった。
瑞稀が何気ない調子で口を開く。
「玲ちゃんはね、今、泳ぎの練習中だよ。」
「えっ!?」
三人の顔が一斉に跳ね上がった。
「どういうことですか、瑞稀先生!?」
凪が思わず身を乗り出す。
「あら、言ってなかったっけ?」瑞稀はいたずらが成功した子供のような顔で笑った。「玲ちゃん、ダイビングの免許をどうしても取りたいからって、夏休みに入ってからね。プールに行って、一緒に泳ぎの練習をしてるのよ」
知らなかった。玲が、一人でそんなことをしていたなんて。
あの日、玲が決意を固めたことは知っていた。けれど、その決意がもう行動になっていたなんて。凪は胸の奥がじんわりと熱くなった。
「流石にね、水が怖いのに、ダイビングは出来ないからね。 だから、まずは水に慣れるところから、少しずつ練習してる。」
瑞稀は三人の顔を見て優しく笑った。
「……『みんなと一緒に潜りたいから』ってさ」
凪は言葉を失った。
胸の奥が熱い。
思わず目頭が熱くなる。
しかも、その挑戦を瑞稀が見守ってくれている。
それが凪には何よりも心強かった。
そこで、みどりがはっとしたように顔を上げた。
「……ちょ、待って。なんで瑞稀先生、黒川さんのこと知ってるんですか?」
「ああ、それがねー、水族館で会ったのよー」
瑞稀があっけらかんと答える。
すると、手札のカードをいじっていた美央が、我慢できなくなったように勢いよく声を上げた。
「そうそう! 瑞稀先生ね、のとじま水族館のダイバーさんで水槽の中のお掃除をしてたんだよ!ほんっとにビックリしたよね!?」
美央は満面の笑みで、手振りを交えながら当時の興奮を再現してみせる。
みどりが固まった。
数秒の沈黙。
そして、ぎぎぎ……と音がしそうなほどゆっくり美央の方を向く。
「なんでそんなことを『美央が』知ってるのよ?」
「あ。」
美央が両手で口を塞ぐ。
遅かった。
「美央……あんた、私の忠告を無視したわね?」
「え?」
「『お邪魔虫になるから絶対に二人を追いかけちゃダメ!』って言ったわよね?」
次の瞬間、美央はみどりに捕獲された。
「け、結果オーライだよよよ……! うぐっ……! ぐっ……! ね、ねぇっ? 凪ちゃん、助けて!!」
絞め技の隙間から、美央が涙目で手を伸ばす。
凪は手札を整えながら、すっと視線を逸らした。
ついさっきまで込み上げていた涙など、どこかへ吹き飛んでいる。
――自業自得である。
その様子を見ていた瑞稀は、お腹を抱えて笑っていた。




