すれ違いの波間 2
静寂に包まれたプールサイドで、お弁当の卵焼きを口に運んだ時だった。 背後から、湿ったコンクリートを叩く、小気味よい裸足の音が近づいてきた。
「ちょっと、そこ! 何やってんの!」
鋭い声が、ひとりぼっちの穏やかな空気を切り裂いた。玲は肩をびくりと震わせ、箸を止めた。振り返ると、そこには薄い水色のラッシュガードを羽織り、手にゴーグルを持った女子生徒がこちらへ歩いてきていた。 ウェーブのかかった長い髪を、慣れた手つきでポニーテールに束ねながら、彼女は玲をまっすぐ見ている。その瞳には、揺るがない意志と、かすかな強さが静かに宿っていた。
「ここ、飲食禁止だよー! 市民プールじゃないんだから!」
玲は慌ててお弁当の蓋を閉めようとした。動揺して、膝に乗せていたお弁当を包んでいたナプキンが滑り落ちそうになる。
「ご……っ、ごめんなさい……。あの、禁止だとは知らなくて。」
彼女は玲の隣まで歩み寄ると、不躾なほど真っ直ぐに上から顔を覗き込んだ。至近距離で見ると、健康的な肌とともに、水辺に立つ人特有の清涼な気配が漂っている。彼女から強気に名前を問われ、玲は戸惑いと警戒が入り混じった表情で一年の黒川だと名乗ると、彼女は驚くほどあっさりと「ふーん」と言って、玲の隣に腰を下ろした。
「あたしも一年。一組の百瀬。よろしく。」
百瀬と名乗ったその少女は、玲のほうへ体を向けて座り、口角をほんの少し上げて不敵に笑った。強気な物言いとは裏腹に、その「よろしく」には不思議と棘がなかった。
「よ、よろしく……。」
百瀬は口どもる玲の瞳を一瞬のぞき込むと、すぐにプールのほうへ向き直り、慣れた手つきでゴーグルの曇りを拭き始めた。
「で、なんでこんなところでご飯食べてるの?」
玲は言葉に詰まった。本当のことを話すべきか迷う。けれど、百瀬の――嘘を許さないような、真っ直ぐな瞳を前にすると、余計な取り繕いは通用しない気がした。
「……どうしても、一人になりたくて。ここなら、誰も来ないと思ったから。」
玲の小さな告白に、百瀬はゴーグルを調整する手を止めた。
「なんだ、ぼっちか。」
あまりに直球な独り言に、玲は胸を突かれ、「うっ」と声を漏らしてしまう。否定したかった。けれど、今の自分を客観的に見れば、親友から逃げ出し、一人でプールサイドにうずくまっている姿は、その言葉通りに思えてならなかった。
玲が俯いて黙り込むと、百瀬は「あっは」と短く笑い飛ばした。
「いいじゃん、別に。一人でいたい時くらい、あたしだってあるし。……じゃあ、今日だけ特別。ここで食べてていいよ」
百瀬はとびきりの優しい笑顔を浮かべると、すくっと立ち上がり、水泳帽をかぶった。
「え、いいの……?」
「うん! あたしは泳ぎに来ただけだし」
百瀬はそう言うと、羽織っていたラッシュガードを無造作に脱ぎ捨て、鮮やかな紺色の競泳水着姿になった。鍛えられたしなやかな肢体が、太陽の光を受けて白く輝く。彼女は準備体操もそこそこにスタートブロックの脇へ立ち、魚が水へ帰るような流れる動作で、音もなくプールへ身を投げた。水しぶきが細かく散り、ほんの少しだけ玲の頬にかかった気がした。百瀬はあっという間に水面へ浮上し、そのまま力強いクロールを始める。
「すごい……。」
玲は食事を再開するのも忘れ、その泳ぎに目を奪われていた。百瀬の腕が水をかくたび、水面は大きく波立ち、白い泡が一本の線となって後方へ流れていく。動きに一切の無駄はなく、広い五十メートルプールを、まるで自分の庭であるかのように自由自在に横断していた。
一往復、二往復。百瀬のスピードは一向に落ちなかった。それどころか、泳げば泳ぐほど、彼女の内に抱えた孤独がプールの青に溶け出していくように思えた。広すぎるプールに、百瀬はただ一人。先ほどまで玲が感じていた「穏やかな青」は、彼女の泳ぎによって「激しい青」へと塗り替えられていく。けれど、その激しさの奥に、玲は自分とよく似た、言葉にならない寂しさの影を見た。これほどまでに華麗で力強い泳ぎなのに、誰もいないプールで、ただ速さを求めるように泳ぎ続けるその背中は、どこか色を失い、透明な孤独に包まれているように見えた。
玲は、無意識のうちにカバンの底に沈めていたカメラを手に取っていた。この光景を、切り取らなければならない。そう直感した。
レンズを覗き込む。 ファインダー越しに見る百瀬は、一筋の光の矢のようだった。 彼女がターンをする瞬間、水しぶきが逆光に透けて、ダイヤモンドの粒のように空中に舞う。
『カシャッ』
静かなプールサイドに、シャッター音が小さく響いた。百瀬はそれに気づくこともなく、再びプールの深みへと腕を伸ばしていく。
玲が孤独を抱え、自分の気持ちを探しているように、百瀬もまた、あの冷たい水の中で何かを求めているのかもしれない。玲は、自分が求めていた静けさが、いつの間にか、百瀬の泳ぐ姿に溶け込んでいるような気がした。ただ、それがとてもかっこいい――それだけだった。
百瀬が、しなやかな身のこなしでプールの縁に手をかけ、一気に地上へと這い上がってきた。 全身から滴る水が、コンクリートの上に不規則な水紋を描いていく。彼女は置いたままにしていたタオルを乱暴に手に取ると、濡れた髪をガシガシと拭きながら、当然のような顔をして玲の隣、ブルーのベンチにどっかと腰を下ろした。 塩素の混じった水の匂いが、一気に玲の鼻腔を突いた。
「黒川……さんだっけ?」
百瀬がタオル越しに、少しだけ声をこもらせて聞いてきた。玲は小さく頷いた。先ほどまでレンズ越しに見ていた「かっこいい存在」が、すぐ隣にいる。その体温と、運動直後の荒い吐息が、静かなプールサイドに生々しい現実感を持ち込んでいた。
「あたしと一緒に、水泳部やってくんない?」
タオルを首にかけ、顔を上げた百瀬が、唐突にそんなことを言い出した。玲は思わず、最後のから揚げを落としそうになった。
「無理無理! 私、カナヅチだし。水に顔をつけるのだって精一杯だよ。」
それを聞いて、百瀬はあからさまに肩を落とし、つまらなそうに自分の足元を見つめた。それをみて玲は慌てて会話を続けようとする。
「百瀬さん……いつも一人で練習してるの?」
素人目にも、百瀬の実力は明らかだった。あれほど鮮やかに泳げる人が、なぜ昼休みという人目につかない時間に、たった一人で黙々と泳いでいるのか――玲にはそれが不思議でならなかった。
百瀬は首にかけたタオルで、濡れた毛先を包むようにして水けを取りながら、今の水泳部には部員が自分しかいないのだと、あっけらかんと告げた。玲は驚きつつも、その状況で部活を続けている精神力に、素直に感服する。昼休みに泳いでいたのも、今日から再開される水泳部の練習に備えてのことだったらしい。今朝はプール掃除をして、水張りの具合を確認するついでに少し泳いだだけだという。顧問の許可が下りたのは、つい昨日のことだと、百瀬は付け加えた。
「昔は強豪校だったらしいよ、うちの水泳部。金沢じゃちょっとは名が知れてたって。」
「それは聞いたことある。……でも、まさか今は一人なんて。」
玲も地元の人間として、金沢栄高校の歴史をほんの少しだけ知っていた。かつては県大会の常連で、職員室近くの廊下には、今もいくつもの古びた表彰盾が並んでいるはずだ。それが今では、部員はたった一人。この広すぎる五十メートルプールに水が張られるのも、体育で水泳の授業が始まる時期に合わせてのことなのだろう。
二人が黙り込むと、プールの排水溝へ水が流れ込む「チョロチョロ」という小さな音だけが、やけに大きく響いた。誰もいない巨大な箱を独り占めしている贅沢さよりも、その余白の広さのほうが、百瀬の小さな背中を、いっそう小さく見せているような気がした。
「なんか……寂しいね。」
玲がぽつりと零した。その言葉は百瀬に向けたものでもあり、同時に自分自身の胸にも突き刺さっていた。
百瀬は否定しなかった。ただ空を見上げ、眩しそうに目を細める。
「……でも、仕方ないよ。そんなこともあるって。 ”寂しい”は、寂しいこととして、優しく受け入れてあげなきゃいけないんだよ。」
その言葉に、玲は雷に打たれたような衝撃を受けた。
「”寂しい”を、受け入れる?」
「そう。無理に消そうとしたり、誰かで埋めようとすると、余計に苦しくなるから。ああ、あたし今寂しいんだなーって、自分の隣に座らせてあげる感じ。」
「……すごいね。」
玲は、心からの敬意を込めてそう言った。自分は、ただ凪の隣に新しい誰かが現れただけで、どうしていいか分からなくなり、逃げ出してきたというのに。百瀬は、たった一人で水泳部を存続させるという、玲には想像もつかない孤独を、「自分の隣に座らせて」受け入れている。
百瀬はその称賛を照れくさそうに受け流し、いたずらっぽく笑った。
「黒川さんは、どうして一人なの?友達は?」
「……幼馴染が一人いるけど、最近は、その……転校生の子と仲良くしてるから。」
玲は、自分でも驚くほど素直に、胸の内をさらけ出していた。
「あー。彼氏取られた、とか?」
「ち、違うよ! 女の子だし!」
玲は慌てて否定した。顔がかっと熱くなるのが、自分でもはっきり分かる。
「じゃあ、彼女取られて嫉妬だ?」
「だから、彼女でもないってば!」
百瀬にからかわれているはずなのに、玲は不思議と、胸の奥がふっと軽くなるのを感じていた。
「ははは! 面白いな、黒川さんは。……でもさ、嫉妬してるって、本人にはっきり伝えればいいのに。」
「そんなに、うまくいかないよ……。」
玲は、また視線を落とした。そんなことを言えば、凪に重たいと思われるかもしれない。美央の明るさを否定してしまうことにもなりかねない。ただ、凪の隣で、自然体のままでいたかった。それだけだったのに。
「あたし、そろそろ戻るね。着替えなきゃだし。」
百瀬はそう言って立ち上がり、脱ぎ捨てていたラッシュガードを拾い上げた。あまりにあっさりと別れを告げて、足早にプールを後にするその背中に、玲は慌てて礼を口にする。
「……ありがとう。」
百瀬は振り返ることもなく、手をひらひらと振り、更衣室の方へと消えていった。あっけらかんとしていて、少し強引で、それでいてどこか達観している。一組の百瀬。初対面の相手に、こんなふうに自分の内面を――それも「嫉妬」なんて、格好の悪い感情まで吐き出したのは、初めてだった。
なぜだろう、不思議だった。 百瀬という「違う孤独」を持つ人と接したことで、凪と美央のことでパンパンに張り詰めていた心が、少しだけ軽くなったような気がする。 寂しさは、消えなくてもいい。ただ隣に座らせておけばいい。
午後の授業が始まる予鈴が、静まり返ったプールサイドに澄んで響いた。玲は、いつの間にか空になっていたお弁当箱をパチンと閉め、そっと鞄にしまう。立ち上がると、さっきまで胸に溜まっていた重さが、ほんの少しだけ軽くなっているのに気づいた。百瀬と交わした短い時間が、玲の心の向きを、わずかに前へと押してくれていたのだ。玲は名残を断ち切るように足を速め、午後の教室へと戻っていった。




