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さわせん(金沢栄高校潜水部)  作者: うきわまん


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すれ違いの波間 1

 月曜日の朝、世界はいつも通りの憂鬱な色を纏って動き出す。 しかし、凪の胸の中には、鞄に忍ばせた二枚の申込用紙という「秘密の熱量」が潜んでいた。週末に見た金沢の景色、西島瑞稀という不思議な大人、そして未知なる海への期待。それらが凪を、いつもの月曜日よりも少しだけ背筋の伸びた自分にさせていた。だが、合流地点であるいつもの交差点に、玲の姿はなかった。 数分待ってみたが現れない。凪は少し首を傾げながら、一人でペダルを漕ぎ出した。六月の始まりを告げる風はやさしいはずなのに、隣に誰もいないという事実が、ほんの少しだけ心細さを連れてくる。


(……先に行ってるのかな。)


 そんな不安は、学校の駐輪場に着くと同時に解消された。見慣れた玲の自転車が、すでに定位置に停まっていたからだ。凪は少し急ぎ足で教室へと向かった。 教室のドアを開けると、玲は教室のほぼ真ん中にある自分の席で一人静かに本を読んでいた。朝の騒がしい教室の中で、そこだけが切り取られた静寂のような、冷たくて透き通った空気が漂っている。


「……おはよう、玲。」


 凪が声をかけると、玲はページをめくる指を止め、ゆっくりと顔を上げた。


 「……おはよう、凪。」


 その返答はいつも通り、静かで落ち着いたものだった。けれど、凪には分かった。玲の瞳の奥に、言葉にはできない微かな壁があることを。


「今日、朝早かったんだね。」

「うん。……なんとなく早起きしたから、先に。」


 玲は視線を再び本へと落とした。会話を打ち切ろうとしているわけではないのだろうけれど、どこか「これ以上は踏み込まないで」というサインが出ているような気がした。


「……そういえば、土曜日。……用事って、何してたの?」 凪は、自分でも少し無神経だったかと思いながらも、つい聞いてしまった。

「別に。……ちょっと、出かけてただけ。」


 玲の答えは短かった。相変わらず視線は本に向けたまま、言葉だけ音に乗せて応える。具体的な場所も、内容も語られない。 二人の間に、今までに感じたことのないぎこちない空気が流れる。凪は、持ってきた話題――ダイビングショップでの出来事や、そこで見つけた興奮――を今話すべきではない、と直感した。


「……そっか。」


 凪は逃げるように自分の席へと向かった。 椅子に座り、鞄を下ろす。鞄の中には、玲のために用意した真っ白な申込用紙が入っている。お昼休みになれば、美央と一緒に玲を誘おう。そうすれば、この気まずさも、昨日までの美央との楽しさも、全部三人の「冒険」として統合されるはずだ。凪はそう自分に言い聞かせた。

 その時、ガラリと教室のドアが開いた。 憂鬱な月曜日の朝を、その一瞬で初夏のような熱気に変えてしまう少女が、元気よく飛び込んできた。窓際の凪の席に向かって一直線に走り込んでくるのは、やはり美央だった。元気いっぱいに「おはよう!」と朝の挨拶を交わしながら教室に入ってきた彼女は、自分の席に着くなり、満面の笑みで前に座る凪の肩をポンポンと叩いた。


「おはよう、凪ちゃん!この間はありがと!楽しかったね!」


 美央は自分の鞄から、あのとき一緒にもらった体験ダイビングの申込書を取り出し、親のサインが入った欄を嬉しそうに見せてきた。その表情からは、今度の週末への期待が全身からあふれ出ている。週末がどれほど待ち遠しいかが伝わってくる。凪はその様子に思わず笑みをこぼし、「私ももらったよ」と言わんばかりに、親指を立てて美央へグッドサインを向けた。すると美央がふと、教室の真ん中でまっすぐ本に向かっている玲に目をやった。

 「ねぇ……。もう、誘ったの?」

 声を潜めて、けれど弾むようなトーンで美央が聞く。凪は小さく首を横に振った。


「ううん。今、本読んでるみたいだし……。お昼の時に、三人でゆっくり話そうと思って。」

「そっか、そうだね! あー、はやくお昼来てくれ~!」


 凪と美央はスマホを取り出し、土曜日の思い出の写真を見返していた。二人で仲良く画面を覗き込みながら、ホームルームが始まるまで談笑を続ける。その明るい笑い声は、きっと教室の端にまで届いていたはずだ。

 

 *

 

 一方で玲は、その笑い声を聞くたびに、胸の奥がざわつくのを感じていた。視線は確かに開かれた本のページに向けられていたが、文字は一行たりとも頭に入ってこない。土曜日、玲には何の予定もなかった。ただどうしても、美央という圧倒的な太陽のような存在に、凪が吸い込まれていくのを間近で見る勇気が出なかったのだ。美央が嫌いなわけではない。むしろ、その眩しさを、少しだけ羨ましいとすら思っていた。けれど、自分のすぐ隣にいるはずの「凪」が、自分の知らない言葉を使い、自分の知らない表情で、新しい友達と笑っている。その事実が、玲の胸を鋭く、それでいて静かに締め付けていた。

 玲は、本を握る手にそっと力を込めた。昨日まで、自分と凪は、同じ場所で、同じ「澱み」を抱えていたのだと、今さらになって気づく。だからこそ、二人でいる時間が心地よかったのだ。凪は「ここではないどこか」を夢想していたけれど、私は、その澱みを抱えていることすら自覚できていなかった。美央が来る前の二人の時間は、きっと何よりも大切なものだったのだろう――それを、失って初めて思い知らされた。

 それなのに、美央という風が吹き込んだ途端、凪は一人でさっさと歩き出してしまったような気がした。自分を置き去りにして、光の差すほうへと。美央に調子を合わせるように笑う凪の姿が、玲の耳を通って頭の中に焼きつく。それが凪の新しい「青春」なのだとしたら、自分はどんな距離で、どう立ち振る舞えばいいのだろう。邪魔はしたくない。けれど、寂しい。そうして一人で考え込むうちに、玲の思考は、底の見えない暗い海へと静かに沈んでいった。

 ほんの数日のあいだに、凪という唯一の「共犯者」を失ってしまったかのような、深い孤独が胸に広がっていく。窓の外では、六月の空がどこまでも高く、残酷なほど青く澄み渡っていた。その青さを、今の玲はただ、直視できずに視線を逸らすことしかできなかった。

 

 午前中の最後の授業、その終わりを告げる無機質なチャイムが教室内を震わせた。 いつもなら、その音は「解放」の合図だった。けれど、今日の玲にとっては、それは迫りくる「決断」のタイムリミットのような響きを持っていた。

 教科書を鞄に押し込む音が、あちこちで騒がしく響き始める。凪と美央が、こちらを振り返る気配を背中に感じた。


(……今は、無理だ。)


 玲は、自分が凪に向けるべき笑顔を持ち合わせていないことに気づいていた。美央の眩しさに晒され、凪の楽しげな声に相槌を打つ。今の自分には、その「いつもの親友」という役割を演じきるだけのエネルギーが残っていない。玲は、凪たちが声をかけてくるよりもずっと早く、椅子を引いて立ち上がった。何も言わず、振り返りもせず、玲は鞄をひったくるように持つと、逃げるように教室を飛び出した。

 廊下を足早に歩きながら、玲は自分の身勝手さに自己嫌悪を覚えていた。用事などない。ただ、一人になりたいだけだ。それでも、どこへ行けばいいのかがわからない。中庭は論外だった。探されれば、きっとすぐに見つかってしまう。それに昼休みになると、生徒が集まりがちな場所のどこにいても、美央のあの明るい声や、それに応える凪の笑い声が聞こえてくる気がして、玲はどうにも落ち着かなかった。


 (……誰も来ないところ)


 玲は記憶の糸を辿った。先週、転校してきたばかりの美央を案内するために、凪と一緒に校舎の隅々まで回ったことが、皮肉にも今、役に立とうとしていた。校舎の裏手、古い講堂のさらに奥。 錆びついた鉄柵の向こう側に、玲は目的地を見つけた。冬の間、ずっと眠っていた屋外プールだ。 体育の授業が始まるのはまだ先で、今の時期、ここへ足を運ぶ生徒はほとんどいない。玲は重い鉄扉を押し開け、無人のプールサイドへと足を踏み入れた。

 そこには、驚くほど鮮やかな「青」の世界が広がっていた。

 頭上には、初夏の陽光を遮るブルーの屋根があり、その下には同じく鮮やかなブルーのベンチが並んでいた。目の前には、清掃されたばかりなのか、張り替えたばかりのような、澄みきった水がプールいっぱいに湛えられている。誰も使っていない殺風景なプールサイドを想像していた玲は、そのあまりにもきれいな光景に少し驚き、同時に、心の奥まで洗われたような気がした。

 玲は吸い寄せられるように、プールサイドのベンチに腰を下ろした。 鞄からお弁当を取り出すことも忘れ、ただ目の前の水面を見つめる。

 太陽の光が、風に揺れる水面を叩き、無数のクリスタルを撒き散らしたようにキラキラと反射している。波紋が広がっては消え、複雑な幾何学模様を描きながら、プールの底にゆらゆらとした光の網を投げかけていた。


「……綺麗。」


 独り言が、乾いた空気の中に溶けていく。 ここは、学校という狭い社会から切り離された、静寂の聖域のようだった。 風が吹き抜けるたびに、かすかに消毒の匂いと、六月の初夏の香りが混ざり合って届く。視界の端から端までを占める青い色は、どこか遠い異国の海際でランチを摂っているような、不思議な開放感を玲に与えていた。

 教室でのあの息苦しさが、少しずつ薄らいでいく。 凪の隣を奪われたような寂しさも、美央に対する正体不明のモヤモヤも、このキラキラと輝く水面を眺めている間だけは、どこか遠い世界の出来事のように思えた。

 玲はお弁当の蓋をゆっくりと開け、母が詰めてくれたおにぎりを一口、口へ運んだ。

 水面の反射を眺めながら咀嚼していると、凪と美央の顔が次々と思い浮かぶ。凪は、あの美央という光に触れ、この水面のような新しい世界を見つけようとしているのだ。それは本来、喜ぶべきことなのだろう。凪が「冒険」に出たいと言っていたことを、誰よりも知っていたのは玲なのだから。

 玲は箸を止め、再びプールの水を見つめた。水はただそこにあるだけで、自分からどこかへ行くことはできない。今の自分は、このプールと同じだ――自分だけが四角い枠の中に留まり、動けずにいる。玲は、自分一人だけの静かな時間を、胸の奥へと、深く、深く沈めていった。きらきらと光る水面は、どこまでも冷たく、そして優しく、玲の迷いを黙って見守り続けていた。

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