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さわせん(金沢栄高校潜水部)  作者: うきわまん


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土曜日のデート 3

 ダイビングの道具を見て興奮気味の二人の様子を後ろから眺めていた瑞稀が、棚から1つ、黒いフレームのマスクを手に取った。


「つけてみる?」


 瑞稀は糸目を細めて笑い、美央の方へとそのマスクを差し出した。


「え、いいんですか!?」


 美央がおずおずと受け取ったマスクは、水中での視界を確保するためのものだろう。美央はマスクの後ろに伸びているシリコンバンドを頭の上に持ち上げるようにして、メガネのようになっている部分を顔にピタッと当てて見せた。

 

「どお? 似合う?」


 強化ガラス越しに、美央の興奮した瞳が覗く。マスクをつけた美央の顔は、一瞬で別の生き物のようになった。大きなレンズが顔の半分以上を覆い、美央のチャーミングな顔の印象がすべてマスクに持っていかれている。けれど、レンズの奥でさらに強調された彼女の大きな瞳が、キラキラと楽しそうに笑っているのだけははっきりと分かった。


「うーん……正直、誰だか分からなくなるね。怪人みたい。」


 凪が素直な感想を漏らすと、後ろで見ていた瑞稀が「あはは!」と声を上げて笑った。


「確かに! マスクってその人の『顔』になるからね。水中じゃ喋れないし、色や形で相手を判別することも多いのよ。」


 美央はマスクを外すと、顔にうっすら残った跡を気にすることもなく、次の獲物へと目が移った。彼女の視線が止まったのは、棚の端に置かれた、厚みのある四角いデジタル時計のようなものだった。


「これは何ですか? すごいゴツい時計……?」

 美央は、マスクを瑞稀に返しながら、視線で指をさす。

 

「それは『ダイコン』ね。」

「大根? おろし?」


 美央の言葉に、凪も心の中で「野菜か?」と全く同じツッコミを入れていた。けれど、ここは”大人っぽく”、少しだけ冷静に突っ込む。

「……そんなわけないでしょ。」


「ふふふ。それはねー、ダイビングコンピューター。略してダイコン。潜っている深さや時間を計算して、ダイバーの命を守るとっても大事な装置なのよ。」

「へー。こんなに小さいのに。ただの丈夫な防水時計だと思いました。」


 美央は感心したようにダイコンを眺めていたが、その好奇心はすぐに次へと移る。今度は、黒い鞘に収まった無骨なナイフのようだ。


「こんな物まで使うんですね。 これでお魚を捕まえるんですか……?」

「ダイバーはお魚を捕っちゃいけないのよ。お魚さん、かわいそうでしょ? ナイフは、網や糸を切るために使うの。」


 瑞稀は、美央の新鮮すぎる反応に終始楽しそうに笑いながら、一つひとつ優しく答えてくれる。凪は二人のやり取りを聞きながら、置いてかれまいと美央の影から突っ込みを入れていく。


「第一、魚の方が速くて、捕まえられないよ。」

「それもそっかぁ。お刺身食べたかったんだけどなぁ。」

「この食いしん坊め。お魚さんに同情するぜ。」


 二人のやりとりを微笑ましく見ていた瑞稀が、ふと思いついたように尋ねた。


「二人は大学生?」

「あ、いえ。高校一年生です。」凪が答えると、瑞稀は「えー!?」と目を見開いて声を上げた。


「高校生!? 若いなぁ。どこの高校? 私、実は東高出身なんだけど!」

「金沢栄です。」

「あー、後輩じゃなかったか~。でもいいな~、高校生。」


 瑞稀の言葉の意味が、今の凪と美央にはピンとこない。周りの大人たちは、皆、口をそろえて「今が一番いい時期」というけれど、当の本人たちには全く実感が湧かない言葉だった。勝手に羨ましがって、マジョリティ的価値観を押し付けてくるようで、どうも好かない。


 「今私が高校生に戻れたら、受験勉強なんか放り投げて、世界中を飛び回るな~。」


 瑞稀が遠くを見つめて笑う。凪は心の中で(そんなことできる高校生、漫画の中だけでしょ)と、現実的な否定を並べていた。


「受験しないなんて、そんなこと無理ですよ。」

 凪は、自分と同じような気持ちでも、思ったことをそのまま言葉にできてしまう美央に、尊敬と嫉妬が入り混じった気持ちになる。


「ふふふ。まぁ、そうかもね。でも、その先の人生を全部変えられるくらい、大切で、楽しい時期ってことよ。」


 きょとんとした顔を浮かべて固まる凪と美央に、瑞稀はハッとした表情で言葉を紡ぐ。


「……あ、ごめん。 説教くさかったね。つい、先生をやってた時の癖が。」

 照れるとも違う恥ずかしそうな表情でそう言う瑞稀に、美央が食いつく。

「え? 先生って?」

 凪も驚いて瑞稀の顔を見つめた。


「え、ああ。私、高校の教師やってたのよ。二年前まで。」

「えー!? そうなんですか?」

「お姉さん、おいくつなんですか?」

「今年二十八歳! もう立派なアラサーよ。」


 瑞稀は「どや」と言わんばかりの表情で胸を張った。美央は「見えない! 若いですね!」と、屈託なく切り込んでいく。凪はその隣で、美央の遠慮のない質問攻めに少しヒヤヒヤしながらも、瑞稀から漂う独特の安心感——どこか物怖じしない、芯の通った「強いお母さん」のような雰囲気——を感じ取っていた。


「二人は部活とかはやってないの?」


 瑞稀の問いに、凪は今日までずっと抱えてきた言葉を、少しだけ整理して差し出した。

 

「……うーん。高校では何か違うことがやりたくて。でも、それが何かわからないまま、ズルズルとここまで来ちゃいました……。」

「少し分かるなー。青春だねぇ。私も高校の時、弓道とバレーで迷ったもん。」


 瑞稀の青春時代の話を聞こうと、凪が口を開きかけたその時だった。隣にいた美央が、まるで稲妻に打たれたような勢いで跳びあがった。


「ねぇ! 凪ちゃん! ダイビング! やってみようよ!」

「ふぇ……?」


 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする凪。あまりに突拍子もない提案に、言葉が喉に張り付いた。その横で瑞稀のあの糸目がこれでもかというほど大きく見開かれ、夏の太陽のような明るい表情に変わっていた。


 「ほほう。ダイビングはいいアイデアだね、お嬢ちゃん。……気に入った!」


 瑞稀はそう言うと、ふっふっふっ、と喉の奥で鳴らすようにして下を向き、怪しくニヤけ始めた。嬉しさで暴れそうな感情を理性的に抑えたようなその表情を、凪は不安と好奇心が混ざった顔でのぞき込む。

「……そんな、簡単にできるものなんですか?」

「うん。 そうだね。 まずは体験ダイビングからやってみるってのはどうかな?」


 顔を上げた瑞稀の糸目が、キラリと光ったような気がした。


「やります! 私、絶対やりたい!」


 美央の即答に、凪の肩がびくっと跳ねる。美央の瞳は、まるで本物の「冒険」を見つけた者の輝きのようで、凪にはその光がとてつもなく眩しく感じた。その熱に当てられ、凪の胸の奥で燻っていた火種が、一気にパチパチと音を立てて燃え上がる。

「……ダイビングか。」

 自分で口にした言葉をきっかけに、好奇心と恐怖心が凪の中で戦いを始めた。それを察して、瑞稀が優しく声をかける。

 

「迷ったときは、道を知るチャンスだよ。」

「え?」

 凪はふと顔を上げて、瑞稀を見る。


「やってみて初めて分かる世界もあるってこと。」

 瑞稀が言いたいことは何となく分かる。きっと背中を優しく押してくれているのだと、凪はすんなりと理解できた。しかし、最後の勇気が湧いてこない。悩む凪はその一歩がなかなか踏み出せずに下を向いてしまう。


「凪ちゃん。これ、見て!」

 美央は、ダイビング雑誌の中の見開きの写真を広げて見せた。

「世界の7割は海だって!見に行ってみようよ!」

 凪は、見せられた写真を見て、思わず「綺麗」と口からこぼれた。それは光が差し込む海の中で、ウミガメがきれいな砂浜の上を飛んでいるように泳いでいる写真だった。心の底から楽しそうに笑う美央をみて、凪は迷っていた自分が少し馬鹿馬鹿しくなり、心が温かくなるのを感じた。

 

(踏み込んでみよう。……今ここで逃したら、もうきっかけは掴めないかもしれない。)


「……私も、お願いします。」


 小さな声でそう告げると、瑞稀は「うん!きっと楽しいよ!」と最高の笑顔で迎えてくれた。

 そこからは、魔法にかかったような時間だった。海のこと、安全のこと、必要な準備のこと。瑞稀の説明は、かつて教師だった名残か、驚くほど分かりやすくて丁寧だった。体験ダイビングツアーの日付は、来週以降なら入れられると案内があり、早速来週の土曜日に予約した。最後に瑞稀は、二人の前に書類を差し出す。


「最後に。二人は、18歳未満なので、この書類に保護者のサインが要ります。」

 出された用紙の上には、「PADI免責同意書」と記載されている。それを見た二人の顔にぐっと緊張が走る。


「ダイビングはどうしても危険が伴うスポーツ。必ず親御さんに説明して、同意を得たうえで参加してください。病歴の確認と、参加申込書、そしてこの同意書をそろえて、予約完了になります。当日までに用意してね。」

「あの、同意が得られなかったら、どうすればいいですか。」

「うーん。その場合は、申し訳ないけど、海の中へ連れていくことはできない。」

 凪は、両親にこれを出してダイビングをやりたいと切り出したとき、どんな反応が返ってくるのか、まるで想像がつかなかった。ここまでチャレンジャブルなことをやりたいと進言したことは一度もなかったからだ。少しだけ不安が表情ににじみ出てしまう。

 

「……こればっかりはね。もし安全について説明が必要なら、また教えてね。安全についての説明は何度でもするよ。」

 凪は、今悩んでも仕方がないと割り切り、大切に書類を折りたたんで鞄にしまう。美央はワクワクが止まらない様子で、「当日はウミガメに会えますか?」などと瑞稀を質問攻めにしている。その様子を見ながら、凪も顔がほころんでいく。その時、凪はふと思い出して、瑞稀に告げる。


「あ、あの。……もう一人、一緒に連れていきたい人がいます。」

 

 脳裏に浮かんだのは、玲の顔だった。自分の冒険(行く先)に、彼女がいないなんて考えられなかった。


「いいよ、もちろん。」


 瑞稀から予備の申込書類を一枚余分に受け取り、大切に鞄にしまう。

 店を出ると、金沢の街はすっかり日が傾いてオレンジに光り輝いてる。けれど、大通りのネオンも、行き交う車のヘッドライトも、今までとは全く別の世界のものに見えた。これから始まる何かを予感させるように、期待で膨らんだ胸の奥まで届くほど、いつも以上に輝いて見えた。美央は興奮を隠しきれない様子で、駅に向かう道すがらもずっと、水中で魚と泳ぐポーズをしたりしてはしゃいでいる。その姿が可笑しくて、凪はさっきまでの緊張が嘘のように解けていくのを感じていた。

 帰りの電車の中。ガタンゴトンと揺れる音に合わせて、凪の心臓もリズミカルに鼓動を刻んでいた。窓に映る自分の顔は、昨日よりもずっと「生きて」いるように見えた。


「私たち、海に潜るんだよね!? 信じられる?」

「……まだ、実感がわかない。すごくドキドキする。」


 やがて、いつもの分かれ道に差し掛かり、 街灯の下で二人は足を止めた。


「じゃあ、また月曜日に学校でね。玲ちゃんも、一緒に作戦会議しなきゃ!」

「うん。またね、美央。」


 美央が大きく手を振りながら、道の向こうへと背中を向けて歩き出す。一人になった凪は遠ざかっていく友の背中をほんのひととき目で追い、すぐに踵を返して、静まり返った自分の帰り道を一歩、踏み出した。その足取りは想像もつかないくらいに軽く、まるで美央が自分に乗り移ったんじゃないかと思うほど、跳ねるような歩調で夕闇の道を進んでいった。こんなに充実した休日を過ごしたのは、一体いつぶりだろう。 金沢駅の喧騒も、美央の鮮やかな服も、瑞稀のあの優しい表情も。すべてが宝石の破片のように頭の中でキラキラと回っている。


 凪は家に着くと、少し緊張した。玄関を開けると、そこにはいつも通りの「自分の家」の空気が流れていた。 リビングでは、父がソファに深く腰掛けて、毎週欠かさずチェックしているお気に入りのグルメ番組を見ていた。画面の中ではタレントが美味しそうに焼肉を頬張っている。 キッチンからは、母の機嫌の良さそうな鼻歌が聞こえてきた。まな板を叩くトントントンというリズムに合わせて、今晩の夕食の匂いが漂ってくる。


(……この感じなら、言えるかもしれない。)


 凪はこの平穏な空気の中に緊張と安心と期待を混ぜながら、話の切り出し方を模索していた。


「おかえり、なーちゃん。金沢はどうやった?」 母が振り返る。なーちゃん呼びの時は、相当な上機嫌の証拠であることを凪は知っていた。凪は手洗いを済ませ、ダイニングテーブルへと向かった。


「楽しかったよ。……お母さん、今日のご飯、あんまり多くなくていいよ。」

「あら、珍しい。なんで?」

「今日、ちょっと食べすぎた。近江町とかいろいろ回ってさ。」

「埼玉から来た子やったっけ?いい子?」

「うんー。すごく。」


 先にお風呂を済ませてから、食卓を囲む、休日のいつもの家族の時間。一通り食事を終えて、空になった皿を前に、凪は少しだけ背筋を伸ばし、コップの水を飲みきってから切り出した。


「あのね。……ダイビングを、やってみたいと思ってるの。」


 その言葉に、父の視線がテレビから外れた。母はお茶を入れる動作を止めて「ダイビング?」と聞き返す。 凪は、今日見つけたダイビングショップのこと、そこで出会った瑞稀のこと、お店の不思議な雰囲気、そして美央と一緒に挑戦してみると決めたことを言葉を選びながら丁寧に話した。


「……ええんやない? なーちゃんがやりたいって言うんなら。新しいこと始めるのはいいことやわ。」


 母は意外にもあっさりと賛成してくれた。石川の女は、案外こういう時の決断が早い。 一方で、父は少し心配そうに眉を寄せた。

「海か……危なくないんか? お金もかかるやろ。」

「道具は貸してくれるし、ちゃんと先生がついて教えてくれるから。お金はお年玉貯金が残ってるから、それで。」


 父は腕を組みながら迷う様子を見せたが、母と目を合わせてから優しく承諾してくれた。


「……それでお父さん、ここ、保護者のサインが必要なの。」

 凪は背中に隠していた申込書を取り出すと、父はそれを受け取り、眼鏡をかけ直して隅々まで目を通した。凪は、書類の中身についての説明を重ねる。それを聞いて、父は重々しく、けれどどこか嬉しそうにペンを走らせてくれた。


「……で、いつやるん? 夏け?」

 サインを書き終えた父が、ペンを置き、書類を返しながら尋ねた。


「来週。」

 凪はサインの入った同意書と申込書を受け取り、一層の安堵から端的に答える。


「来週!?」

 両親の声が見事に重なった。


「どこでやるが?」

「越前」

「越前!?」


 両親はどうやら夏先のイベントと思っていたようだった。驚き顔の両親を尻目に、凪はそそくさと食べた食器を片付けて、サイン入りの用紙を大切に抱えて自分の部屋に戻った。父と母は二階に上がっていく凪の背中を見送ると、顔を見合わせ、言葉を交わすこともなく、ただ口元だけに小さな笑みを浮かべた。

 凪は自室の明かりの下で、父の筆跡が残る申込書を眺める。そこには確かに、凪の新しい日常への許可証が記されていた。それを大切にクリアファイルにしまい、そして、その中にはもう一枚、真っ白なままの申込用紙。


(……玲、なんて言うかな。)


 用紙を挟んだファイルを大切に学校のカバンの中にしまい込む。 ベッドに倒れ込むと、心地よい疲れが波のように押し寄せてきた。窓の外は静かな夜。けれど、凪の心の中には、まだあのシーリングファンの回る音が響いている。 目をつぶれば、美央が見せてくれたあの綺麗な写真の青が広がっているような気がした。明日、学校で玲を誘って、美央と三人で計画を練って、やることがはっきりしていて心が楽しみで満たされている。 そんなワクワクした悩みを抱えたまま、凪は深い眠りへと落ちていった。

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