土曜日のデート 2
建物の隙間から斜陽が差し込み始めた頃、大通りの喧騒から離れた路地で見つけた三角屋根の木造建築に近づくと、よりその古さが際立って見えた。コンクリートの現代的なデザインをしたビルの合間に立っているその古民家は、忘れ去られた化石のように佇みながらも不思議な魅力を放つ建物だった。
「……なんか、この家だけ雰囲気違くない?」
美央が声を潜めて呟く。凪も同じことを感じていた。建物の入り口には、なぜか使い込まれて塗装の剥げた船の舵輪が立てかけられ、その横には、赤錆に覆われた鉄製のボンベが無造作に置かれていた。ガラス窓には、かつては鮮やかだったであろうハワイアン風のタペストリーが、外に向けて飾られていた。長い年月太陽に晒されたせいか、描かれたハイビスカスや海の色は白く褪せている。建物の中はひっそりと暗く、窓から中の様子を窺い知ることはできなかった。
「隠れ家カフェとかかな? 雑貨屋さんとか。」
美央が興味津々といった様子で、ドアをノックしたり、外から窓の中を覗き込む。凪はその様子を一歩下がったところから見ていた。ドアの横の柱に取り付けられた郵便受けには、掠れた文字で「西島」とだけ書かれていた。
「さぁ……分かんないね。もう行こう?」
凪が美央の袖を引こうとした、その時だった。『カチャリ』と、乾いた金属音が響いた。
「あら?」
突然ドアが開き、中から一人の女性が姿を現した。 凪と美央は、弾かれたようにその場に立ちすくむ。
現れたのは、ゆったりとしたTシャツにハーフパンツというラフな格好の女性だった。長い髪は後ろで無造作なポニーテールにまとめられ、細められた糸のような瞳が、穏やかにこちらを向いている。
「こんにちは……?」
美央が恐る恐る声をかけると、その女性は首を傾げ、ドアノブを握ったまま独り言のように呟いた。
「あれぇ……。今日、予約入ってたっけ?」
自分に問いかけるような、どこか浮世離れしたトーン。凪は一歩下がった場所で、ドアを開けたまま硬直している美央とその女性の様子を、固唾を呑んで見守っていた。
「あぁっ、いえ! すみません、何のお店なのかな~?と思って、つい見てただけなんです。」
美央が慌てて手を振ると、女性は「へ?」と不思議そうな声を上げた。
「なんのお店って……ダイビングのお店よ? ほら、そこに書いてあるでしょう?」
女性が指差した先。2階部分の軒下の影で見落としていたが、そこには黒く古びた木の板に、掠れた白字で「ダイビングショップにしじま」と書かれた看板が、ひっそりと掲げられていた。凪と美央は首を持ち上げて年季の入ったその看板をまじまじと見る。
「もしよかったら、あがってく?」
女性は糸目をさらに細めて笑うと、拒絶する隙も与えずにドアを大きく開け放った。
「あ、お邪魔します……。」
先を行く美央に、引っ張られるようにして、凪は薄暗い店内へと足を踏み入れた。
一歩中に入ると、外の熱気が嘘のような、ひんやりとした空気が肌を撫でた。 古い木の匂いと、どこか懐かしいゴムのような香りが混ざり合っている。 入り口のすぐそばには、六人掛けの大きな木製テーブルと椅子が静かに置かれていた。外が明るかった分、部屋の中はより暗く見え、カウンターキッチンのような間取りがあることくらいしか分からなかった。
「適当に座っててー。今、お茶淹れるから。」
女性はポストから取り出してきた郵便物をパラパラと眺めたら、まとめてカウンターの隅に置き、部屋の奥の、さらに暗い空間へと消えていった。
残された凪と美央は、促されるままに木製の椅子に横並びで腰を下ろした。 凪は、暗がりに目が慣れてくるのを待った。 壁には色褪せた海の写真や、魚のポスターがかかっており、本棚や窓辺にはたくさんのフィギュアが飾ってあった。水族館などでよく目にするようなガシャポンをたくさん回したのだろう。海洋生物のフィギュアばかりが至る所にひっそりとしており、もちろん凪達が座ったテーブルの隅にも飛び跳ねているクジラがいた。
「……クジラかわいいね。」 美央が声を潜めて囁く。
凪はうなずくだけで答えなかった。ただ、テーブルの上に置かれたクジラを一緒に見つめていた。凪は初めて来た場所に心がソワソワしていた。ダイビングのお店と言われても、まったくイメージが湧かない。こんな駅前の街中にそれがあるということも率直な疑問だった。
部屋の奥から戻ってきた女性は、右手に3つのコップを乗せたお盆を器用に持ち、空いた左手で壁のスイッチをパチンと弾いた。
「ごめんなさい、電気もつけずに。」
その瞬間、天井で大きなプロペラのようなシーリングファンがゆっくりと回り始めた。暖色のライトが木製のテーブルを照らし出し、天井を旋回する翼が心地よい風を足元まで届けてくれる。壁に飾られた褪せたハワイアンタペストリーがその風に小さく動き、店内の空気はますます金沢の路地裏であることを忘れさせるような、南国の気だるい雰囲気を帯び始めた。
「今日は、旅行かしら? はい、これお茶。」
女性は、凪と美央の前に麦茶の入ったコップを丁寧に置いていった。ガラスの表面には、早くも細かな水滴がつき始めている。
「あ、いえ。私は地元です。 ありがとうございます。」
「私は今月、埼玉から引っ越してきました。 あ、どうもすみません。」
凪と美央がそれぞれ答えると、女性は「へぇ〜」と糸目をさらに細めて、二人の向かい側にどっしりと腰を下ろした。
「そうなんだ。埼玉から。ようこそ石川へ。こっち、寒いでしょ〜。」
「そんなことないですよー?」
「そお? まぁ、今は五月だしねぇ。 冬は寒いよー。」
「……雪、降るからね。」
凪が実感を込めて付け加えると、美央は「雪かー!」と声を弾ませた。
「埼玉は全然降らないから、ちょっと楽しみかも。雪国って感じ!」
(ふふふ……分かってないなぁ。あの重くて湿った雪の恐ろしさを……。)
凪は心の中で苦笑いしながら、目の前の女性に視線を戻した。
「ところで、お姉さんは……?」
「私? このダイビングショップのオーナーの、西島です。」
そう言って、彼女は二人に名刺を差し出した。オレンジ色の魚が端っこにいる可愛いデザインの名刺には、「西島 瑞稀」と書かれていた。
「みずき……さん。」
「うん! みずきでいいよー。よろしくね!」
凪が思わず口にした瑞稀の名がこぼれ落ちるや否や、美央は反射的に、勢いよく手を挙げた。
「ダイビングって、あの、ボンベ背負って海を潜るやつですか?」
元気よく質問する美央の問いに、瑞稀は「そうだよ! 興味ある?」と身を乗り出した。
「あ、いや、こんな街中にあるんだ、と思って。もっとこう……海の近くにあるもんだと思ってました。」
美央も同じことを思っていたらしいと凪は少しうれしくなった。
「あはは、そうだよねー。でも、活動場所は結局海だし、どうせ車で行くから、お店自体は正直どこにあってもいいんだー。 だからここ、うちの実家を改造しちゃったのー。」
「……そうなんですか。」
瑞稀のあまりにも緩い口調に、凪は出されたお茶をすすりながら、次の言葉を探した。実家をそのままショップにするという大胆さに、地元民としての堅実な感覚が少しだけ揺さぶられる。一方で、美央の好奇心はすでに手元のお茶から離れ、店内のあちこちへと飛び火していた。
「なんか、古民家カフェみたいで素敵ですね。あの舵とか、本物ですか?」
「カフェかー。それもいいな〜、そのうち気が向いたらやろうかな。」
(二人とも、自由な人だ……。)
美央は立ち上がり、暗がりに沈んでいる部屋の奥を覗き込んだ。
「ちょっと中、見てもいいですか?」
「いいよー。ちょっと待ってね、今電気つけるね。」
瑞稀が立ち上がり、さらに奥の壁にあるスイッチをいくつか入れると、それまで影に隠れていた「ダイビングショップ」としての真の姿が浮かび上がった。灯りが灯ると、そこには外観からは想像もつかないほど奥行きのある空間が広がっていた。玄関近くの談話スペースを抜けると、奥には更衣室らしい仕切りとロッカーが並んでいる。その隣には、階段状に組まれた本棚があり、背表紙はどれも抜けるような青色で埋め尽くされていた。ダイビング雑誌や図鑑、専門書だろうか。その本棚の向こう側、部屋の最も深い角からは、二階へと続く年季の入った木の階段が伸びている。視線を右に向ければ、そこには小さなカウンターとレジがあった。それを見て、凪はようやく「ここは本当に『商売』をしているお店なんだ」という実感が強く湧いた。だが、何よりも凪と美央の目を奪ったのは、カウンター背後の壁一面を埋め尽くした「道具」の棚だった。
「わあ……何これ、すごい……!」
美央が吸い寄せられるように棚へ近づいていく。凪もその後に続いた。 そこには、今までの人生で一度も触れたことのない異形の道具たちが、整然と、しかしどこか誇らしげに並んでいた。太いゴムのホース、厚手のグローブ、奇怪な形のマスク。さらには、金属特有の鈍い光沢を放つ丸いパーツや、重厚な四角い塊。ハイテクなモニターがついた腕時計のようなデバイスに、無骨なナイフ、そして暗闇を切り裂きそうなほど大きな懐中電灯。一体何に使うのか見当もつかないものから、なんとなく用途が予想できるものまで、それらすべてが「ここではないどこか」へ行くための特殊な装備であることを物語っている。
「すごーい! なんか、かっこいい。SF映画の武器庫みたい!」
美央が目を輝かせて声を上げる。凪も無言で頷いた。その感覚はよくわかる。どの道具も、チャラチャラとした装飾など一切ない。ただ「生きるか死ぬかの環境で機能する」ためだけに研ぎ澄まされた、独特の機能美とキラキラした重厚な質感が備わっている。
「……これ、全部ダイビングの道具ですか?」
「そうだよー。場所やコンディションに合わせて、道具を選んでいくんだ。」
そう言う瑞稀の言葉に、凪は胸の奥にある「何か」をくすぐられた気がした。見たことのない道具の数々は、明らかに未知なる世界への入り口で、暗がりの向こうから静かにこちらを伺っているような、凪のちっぽけな「冒険心」を震わせる光景だった。




