海へのパスポート 6
連れてこられたのは、地元では一番大きなスーパーだった。どうやら今夜の夕食は、庭でバーベキューパーティーをするらしい。
自動ドアが開くや否や、美央は一目散に店内へ駆け出した。空腹のまま買い物をするのは危険だと分かっていたが、案の定、食べ切れるのか怪しいほどの食材が次々とカゴへ放り込まれていく。中でも肉の量は群を抜いていた。大の肉好きのみどりが目を輝かせながら「あ、それも!」「こっちも!」と次々に追加していくのだから、誰にも止められない。
そんな中、凪は売り場の片隅で夏を彩る花火のパックを見つけた。
「ねえ、みんなで花火やろうよ!」
凪がそう提案すると、瑞稀は「仕方ないなぁ」とわざとらしくため息をつく。だが、その視線は花火セットに釘付けで、実は誰よりも乗り気なのは一目瞭然だった。
「……瑞稀先生、本当はめっちゃやりたいんじゃん」
凪が思わず笑うと、瑞稀は顔を真っ赤に染めた。
「そ、そんなことにゃいよっ!」
盛大に噛みながら慌てふためく姿に、いつも頼れるインストラクターの面影はない。その子どもみたいな反応がなんだか可愛らしくて、凪は思わず吹き出してしまった。
買い出しを終え、一行は海沿いのバーベキュー場へとやって来た。荷物を降ろすと、すぐに夕食の準備が始まる。
手際よく作業を進める瑞稀の隣で、凪はその手元を興味深そうに眺めていた。聞けば、瑞稀は普段からキャンプにもよく出かけるという。バーベキューの火起こしひとつとっても、無駄な動きがまるでない。その鮮やかな手際に、きっと何をやっても器用な人なのだろうと凪は思った。
「瑞稀先生、炭は入れないんですか?」
素朴な疑問を口にすると、瑞稀は薪を組みながら微笑む。
「その炭はね、なかなか着火しないから最後。最初は小さな火種を育てて、大きくしていくんだよ」
マッチで着けた小さな炎は、細い枝へ、さらに太い薪へと燃え移り、やがて勢いよくパチパチと音を立て始めた。そこでようやく瑞稀は炭を並べ始める。コンロの片側へ寄せるように配置し、強火と弱火を作り分けることで、焼く場所と保温する場所を使い分けるためらしい。
「へぇ……」
思わず凪は感心した声を漏らした。バーベキューは何度か経験があったが、こんなふうに火加減まで考えて準備をしている人を見るのは初めてだった。
ちょうどその頃、野菜を切り終えた美央とみどりが、大きなボウルを抱えて戻ってきた。薪の煙が潮風に乗って漂い始める。ほどなくして網の上では肉の焼ける音が弾け、香ばしい匂いが辺りに広がった。こうして、合宿最後の夜を締めくくるバーベキューが始まった。
網の上でじゅうじゅうと音を立てる肉は、期待を裏切らない美味しさだった。噛み締めるたびに甘い脂の旨みが口いっぱいに広がる。ただでさえ上質な肉が、「外で食べる」という最高の調味料によって、何倍にも美味しく感じられた。
だが、それ以上に凪を驚かせたのは、網の端でじっくり焼かれていた野菜だった。普段なら、自分から進んで箸を伸ばすことなど滅多にない。それなのに、炭火でゆっくりと火を通された野菜は、驚くほど甘く、香ばしい。ひと口頬張った瞬間、「野菜ってこんなに美味しかったんだ」と思わず目を丸くしてしまうほどだった。
「毎日バーベキューなら、野菜もたくさん食べられて健康になれるかも……」
網の上のパプリカを口に運びながら思わず呟くと、すかさず瑞稀からツッコミが入った。
「健康って、まだ10代でしょ。今からそんな心配してどうするの」
「凪ちゃんって、もしかして野菜嫌いなの?」
美央は焼いたネギを食べながら、凪をからかい、凪は照れくさくなって、話題を変えるように尋ねた。
「美央は好きなの? 長ネギ」
凪は昔から、ネギ特有の辛味がどうしても苦手だった。長ネギもタマネギも、食卓に並ぶとつい避けてしまう。
「うん、私は野菜全般大好きだよー」
美央が楽しそうに笑う。そんな美央を見て、目の前で端っこに黒い焦げ目がつくくらいにじっくり焼き上げられた長ネギを、恐る恐る口に放り込んでみた。
……甘い。熱々でトロトロになったネギは、今まで食べてきたネギとは、まるで別の食べ物だった。
その横では、凪たちが焼き野菜の美味しさに感動している隙を突くように、みどりが網の上の肉を次々とさらっていた。
「みどり!それ私が育ててたのに!」
「弱肉強食です」
得意げに胸を張るみどりに、笑いが弾けた。賑やかな夕食を終える頃には、辺りはすっかり夜の帳に包まれていた。服には焚き火の煙の匂いが染みついている。寄せては返す波の音が暗闇の向こうから静かに聞こえ、火照った身体を夜風が心地よく撫でていく。ダイビングで疲れていたはずなのに、その時間さえ心地よく感じられた。
食事の片付けを終えると、瑞稀が残った炭を寄せ、小さな焚き火を作ってくれた。その火を分けてもらい、いよいよお待ちかねの花火に火をつける。
シュパパパッ、と夜空へ火花が弾けた。瑞稀は最初こそ「私は見守ってるからね」と先生らしく腕を組んでいたものの、ものの数分で我慢できなくなった。
「あっ、それ貸して!」
気づけば誰よりも楽しそうに花火を振り回し、凪たちと一緒になって笑い声を上げている。パチパチと音を立てながら、色とりどりの火花が夜を照らす。光が揺れるたび、みんなの笑顔が闇の中に浮かび上がっては消えていく。潮風に乗って流れる花火の匂いと、遠くで静かに響く波の音。
——この景色だけは、きっと忘れない。
そんな予感が、凪の胸に静かに灯っていた。
バーベキューの片付けを終え、一行は夜風に吹かれながら民宿へと戻ってきた。昨日と同じように順番に風呂を済ませ、それぞれお気に入りの寝巻きへと着替える。心地よい疲労感に包まれながら、凪たちは畳の部屋の中央に自然と車座になり、一組のトランプを囲んでいた。
パシッ、パシッ。
カードを配る小気味よい音が、静かな部屋に響く。
「はあ……もうあと一日で終わりなんだね」
手札を整えながら、美央が名残惜しそうにため息をついた。
「本当にあっという間だったー! この合宿、毎日が濃すぎて最高に楽しかったな!」
みどりはカードを扇状に広げながら、満面の笑みを浮かべる。
「こらこら、まだ終わってないよ。明日まで絶対に気を抜かないこと!」
髪をタオルで拭きながら、瑞稀が先生らしい口調で釘を刺した。そう言いながらも、その表情はどこか嬉しそうに緩んでいる。
「明日の最終講習が終われば、みんな晴れてダイバーデビュー。泣いても笑っても、明日が最後だからね!」
そんな和やかな空気の中、カードをじっと見つめていたみどりが、悪戯っぽく口元を緩めると、声を潜めて切り出した。
「……ねぇ。ただトランプやるのも飽きてきたし、このゲームで最後にババを引いた人は、過去でも現在でも未来でも、自分の『恋バナ』を暴露するって罰ゲーム、どう?」
「……え?」
あまりに唐突な提案に、凪は思わず動きを止めた。
「あ、それいい! やるやる! もちろん瑞稀先生も強制参加ですからね!」
美央は待ってましたと言わんばかりに目を輝かせる。
「ええっ!?」
凪は思わず身を乗り出した。
「ちょっと待って! そんなルール、ゲームが始まってから追加するのはズルくない!?」
必死の抗議も、みどりはニヤリと笑って一蹴する。
「ズルくない、ズルくない! 何か賭けなきゃ面白くないじゃん。さあ、行くぞー!」
みどりが勢いよくカードを切り始める。
(これは……絶対に負けられない……!)
凪は一気に冷や汗が噴き出すのを感じ、手札を握る手に力を込めた。何しろ凪には、みんなに披露できるような華やかな恋愛話など、これっぽっちもない。もし負ければ、ただただ恥ずかしい思いをするか、それとも何も話せず場の空気を凍らせてしまうか。そのどちらかしか待っていなかった。
部屋の空気は一変した。最初こそ余裕ぶっていた瑞稀も、大人のプライドがあるのか、その表情はいつしか真剣そのものになっている。
ゲームが進むにつれ、美央が上がり、続いてみどりも勝ち抜ける。そして場に残されたのは、凪と瑞稀の二人だけだった。
最悪なことに、ゲームは最後の一枚のババを押し付け合う、一騎打ちの様相を呈していた。
すでに勝ち抜けた美央とみどりは、すっかり余裕の表情だ。完全に高みの見物を決め込み、面白そうに二人の勝負を眺めている。
「美央はどっちがいい?」
「えー、瑞稀先生の大人の恋もめちゃくちゃ聞きたいけど、やっぱり凪ちゃんのピュアな恋愛事情も気になるかも!」
「だよね! 凪って男子と話してるところ、全然見たことないし。すっげぇ気になる!」
「ちょっと二人とも、勝手なこと言わないでよ……!」
凪は思わず頬を膨らませる。
震える指先で、瑞稀のカードへと手を伸ばした。ババは行き、また戻る。一度ならず二度までも行き来する、心臓に悪い大接戦だった。
そして――。
運命の女神は、凪を見放した。瑞稀が差し出した二枚のカード。そのうちの一枚を引き抜いた瞬間、凪は悟る。手の中にあったのは、不敵な笑みを浮かべた宮廷道化師――ジョーカーだった。
「わあぁぁぁーーー!! 勝ったーーー!!」
瑞稀が子どものように両手を突き上げて歓喜の声を上げる。
「凪ちゃん決定ーーー!!」
美央とみどりも大はしゃぎで声を張り上げ、部屋は今日一番の盛り上がりを見せた。
「うわああぁ……最悪だぁぁ……!」
凪は全身から力が抜け、そのままジョーカーを握りしめたまま、背後の布団へ倒れ込む。
――その瞬間だった。
ピキィィィン!!
右ふくらはぎに、焼けつくような激痛が走った。
「あああぁーーーっ!? い、痛ぁーーーーっ!!」
突然の悲鳴に、さっきまでお祭り騒ぎだった部屋が、一瞬で静まり返る。
「えっ!? 凪ちゃん!? 大丈夫!?」
美央が慌てて駆け寄る。
「足! つった……っ! ああああっ!!」
悶絶する凪を見るや、みどりがすぐさま動いた。
「よし、動くな!」
右足のつま先を両手でしっかり掴み、ふくらはぎの筋肉をゆっくり伸ばすように、足首を自分のほうへ押し込んでいく。
「う、うぐぐぐ……!」
ふくらはぎを突き刺すような痛みが、みどりの的確な処置によって少しずつ和らいでいく。けれど、筋肉はまだガチガチに張ったままで、足の奥に硬い石でも埋め込まれたような違和感が残っていた。
そういえば、水中で足がつったときは、フィンの先端を掴んで自分のほうへ引き寄せ、ふくらはぎを伸ばすように教わったばかりだった。まさか昼間に海で習ったトラブルシューティングを、その日の夜、畳の上で実践することになるとは思いもしない。しかも、トランプの罰ゲーム直後に。
「さすがみどりちゃん。ちゃんと覚えてるね」
瑞稀が感心したように笑う。
「えへへ、習ったばっかりですから!」
みどりは少し照れくさそうに頭をかいた。痛みが落ち着くにつれ、今度は別の熱が顔へと上ってくる。ババを引いて大騒ぎした挙げ句、ショックで足までつってしまうなんて。格好悪すぎる。穴があったら、そのまま潜り込みたいくらいだった。
「今日はちゃんと足をマッサージしてから寝るんだよ?」
瑞稀が呆れたように笑いながらも、どこか心配そうに声をかける。
「うぅ……すみません……」
情けない返事をしながら、凪はまだ少し痛むふくらはぎをそっとさすった。
しかし、凪の足首をしっかり押さえたままのみどりは、まったく容赦がなかった。
ニヤリと獲物を見つけた肉食獣のような笑みを浮かべると、何事もなかったかのように罰ゲームの続行を宣言する。
「――よしよし。じゃあ、本題に入ろうか、凪。好きな人は、いるの?」
「えっ!? 今!? この状況でそれ聞くの!?」
みどりに足を押さえられ、身動きひとつ取れないまま恋愛事情を尋問されるなんて、どんな羞恥プレイだ。
「そりゃあ、罰ゲームだし」
「うんうん! 私もすっごく知りたいなぁ~!」
美央まで目を輝かせながら、猫のようににじり寄ってくる。完全に自由を奪われた凪を前に、二人はここぞとばかりに距離を詰めた。足の痛みに加え、精神的なダメージまで襲ってくる。まさに二重の罰ゲームだった。
「さ、最悪……」
「ふっふっふっ。今の君に逃げ場はないぞ。さあ、大人しく白状したまえ!」
みどりが悪代官のような笑みを浮かべる。
「ねえねえ、凪ちゃんの好きな人って、やっぱり同じクラス?」
美央も顔をぐっと近づけ、興味津々に目を輝かせた。
「いないよ! そんな人、クラスにいるわけないじゃん!」
凪は顔が熱くなるのを感じながら、必死に否定する。
「じゃあ、他クラス?」
「凪って、あんまり男子と話さないもんねー」
「ねぇねぇ、どんな人がタイプなの?」
「質問攻めにしないでよ! 逆に二人はどうなの!? 好きな人とかいるの!?」
窮地に追い込まれた凪は、必死に話題を相手へ向けようとする。
しかし、それくらいで引き下がる二人ではなかった。
「残念でしたー。今回は凪がババを引いたんだから」
みどりがニヤリと笑う。
「何か一つ答えるまでは、ずーっと凪のターンだよ」
二人は息ぴったりに笑いながら、逃げ道を塞いだ。
「じゃあ、ハードルを下げてあげる。中学のとき、付き合ってた人とかは?」
「いないよ……!」
凪は困り果て、天井を仰いだ。
過去を振り返っても、今を見渡しても、未来を想像しても――語れるような恋愛話は、一つもない。本当に、何もないのだ。
このままでは夜が明けるまで尋問が終わらない。
凪は降参するように両手を小さく上げた。
「……分かったよ。今度、ジュース奢るから、それで勘弁して」
「仕方ない。今回はそれで許してやろう」
「よし、交渉成立!」
みどりはようやく凪の足を解放し、美央も満足そうに笑った。
恋バナの危機はなんとか乗り切った。
代わりに財布は少し軽くなり、ふくらはぎにはまだ鈍い違和感が残っている。そんな小さな代償を抱えながら、賑やかな合宿三日目の夜は、静かに更けていった。




