海へのパスポート 7
もう最終日の朝だった。
窓の外はすでに眩しいほどの光に満ちていて、蝉の声が遠くから響いてくる。今日でこの合宿も終わるのだと思うと、朝食の味噌汁から立ち上る湯気さえ、いつも以上に名残惜しく感じられた。
朝食を終えると、それぞれ黙々と身支度を整え、荷物をまとめていく。三日間過ごした部屋を見回すと、畳の匂いや、部屋の広さには少し不釣り合いな小さなテレビまでが愛おしく思えた。忘れ物がないか何度も確かめながら、来たときより少し膨らんだバッグを閉める。
荷物を車へ積み終えると、民宿のご主人と女将さんに別れの挨拶をした。三日間お世話になった二人の顔を見ると、自然と声にも力が入る。
「本当にお世話になりました!」
凪がそう言うと、女将さんは目を細めて笑った。
「またいつでもいらっしゃい」
さすがというか、何というか、美央はご主人とも女将さんとも「また必ず来ますから」とハグを交わして別れを告げる。まだ数日しか一緒に過ごしていないはずなのに、その別れ方はまるで何度も帰ってきた常連のようだ。凪はそんな美央を見て、小さく笑う。隣では、みどりも「美央らしいなあ」とでも言いたげに肩を揺らしていた。
車が走り出すと、窓の外を流れる景色を眺めながら、誰からともなく口数が減っていった。「最終日」という言葉の重みを、それぞれが胸の中で噛みしめているようだった。
ショップへ着くと、いつもと変わらない賑わいが迎えてくれる。三人は手慣れた様子で着替えを済ませ、迷うことなくウェットスーツに袖を通した。器材を準備する手つきにも、三日前にはなかった自信が宿っている。悪戦苦闘していた頃が、もうずいぶん前のことのように感じられた。
焼けるように熱くなったプールサイドへ集合すると、瑞稀が少しだけ明るい声で口を開く。
「今日でラストだね。みんな楽しかった?」
「楽しすぎました!もう終わっちゃうなんて寂しい!」
美央が興奮気味に答える。その一言には、この三日間で味わった楽しさや充実感が、そのまま詰まっているようだった。
「今日、残り二本潜ったら、オープンウォーター講習は終了です。最後まで気を抜かず、思いきり楽しんでいこうね」
その言葉を聞いた瞬間、凪の胸に寂しさが込み上げた。
こんなにも終わるのが惜しくなるスポーツが、この世にあるなんて思わなかった。潮の香りも、生ぬるい風も、夏の日差しさえも、すべてが「もう終わってしまう」と語りかけてくるようだった。
「一本目は昨日と同じように、浮き輪まで泳いで潜降します。海底に着いたら少し移動して、オクトパスブリージングの練習をします」
水中でバディがエア切れになった状況を想定し、オクトパスを渡して呼吸を確保し、互いの腕をつかんで安全に浮上する――。瑞稀は身振りを交えながら、一つひとつの動作を丁寧に説明していく。
「まずバディとハンドシグナルを交わして、相手からオクトパスを受け取ります。呼吸が落ち着いたら、お互いの腕をつかんで浮上のサインを確認し、フィンを使って浮上します。今回は水深五メートルで残圧がゼロになった想定なので、そのまま水面まで浮上します。そのとき、一番気を付けることは?」
「アーッ!」
美央が口を大きく開けて実演する。
それを見たみどりが、くすっと笑った。
「ふふふ。そう、ちゃんと声を出すこと。息を止めない。それと?」
「自分の吐いた泡を追い越さないこと」
「そう! 守らないと肺が破裂するからね」
(また出た、脅し的教育……)
凪は心の中で苦笑する。
けれど、その言葉の重みだけはしっかり胸に刻み込んだ。少し大げさに聞こえる説明も、命を守るためだからこそ。そんなことを、この三日間で嫌というほど教わってきた。
「あとは?」
「頭上を確認!」
「その通り。必ず頭上を確認すること!」
三人とも迷うことなく答えられる。
水面にはボートや他のダイバーがいるかもしれない。何度も繰り返し教え込まれたその鉄則は、もう知識ではなく、体に染み付いた習慣になりつつあった。
「じゃぁ今日のバディは、私と美央ちゃんで行こうか。凪ちゃんとみどりちゃんでバディね。先に二人が浮上してね。一応、今日は藤田さんも一緒に来てくれるから」
その名前が出た瞬間、三人の視線が自然と入り口の方へ向く。体験のときの頼もしい藤田さん。前回会った時よりもさらに日に焼けていた気がした。真っ黒に焼けた肌に白い歯を見せて笑う藤田さんの姿は、相変わらず頼もしさを漂わせていて、最終日という緊張感の中に、どこか安心感をもたらしてくれるのだった。
潜降にもすっかり慣れてきた。
最初の頃は耳抜きひとつにも苦戦し、水面でもたもたと足踏みをしていたのが嘘のようだ。耳抜きのタイミングも、体を海へ沈める力加減も、もう考えなくても自然にできる。息を吐くタイミングも、鼻をつまむ指先の角度も、体が覚えてくれていた。
そして何より、海の景色が変わった。
最初はただ青いだけだった世界に、少しずつ輪郭が生まれていく。どこを見ればいいのか、どこに気を配ればいいのかが分かるようになり、視界の隅で何かが動けば自然と目が向く。
海の世界に、少しずつ入れてもらえている。
最初はよそ者として恐る恐る覗いていた場所が、ようやく自分を受け入れてくれたような気がして、胸の奥がじんわりと温かくなった。
少し泳いで砂地へ着くと、砂に溶け込んでいたハゼのような小さな魚が、シュンッと勢いよく飛び出していった。凪たちに驚いたのだろう。テレビの動物番組で見たような光景が目の前で繰り広げられ、思わず見入ってしまう。その一方で、魚を驚かせてしまったことが少し申し訳なくなり、心の中で「ごめんね」とつぶやいた。
瑞稀の合図で、凪はみどりと向き合う。ハンドシグナルを確認し、みどりからオクトパスを受け取る。レギュレーターを口から外し、呼吸をオクトパスへ切り替える。一瞬、塩辛い海水が口に入り込む。けれど、もう慌てることはない。
みどりと目を合わせながら、浮上のタイミングを確認する。
友達の顔を、こんなにも近い距離でじっと見つめる機会なんて、きっと普段はない。マスク越しに見えるみどりの瞳は真剣で、それでいてどこか楽しそうだった。
しかも今は、同じ一本のタンクの空気を分け合っている。そう思うと、少しだけ胸が高鳴る。レギュレーターから響く呼吸音までが、二人だけに聞こえる合図のように感じられた。
瑞稀が浮上の合図を送る。二人は互いの右腕をつかみ、浮上のサインを確認すると、ゆっくりとフィンを動かした。
自分の吐いた泡を追い越さないように、頭上を見上げながら、水面へ向かって少しずつ上がっていく。
頭上では、太陽の光を受けた水面がきらきらと揺れていた。まるで宝石を散りばめた夜空のように、美しく輝いている。光へ向かって泳いでいくその感覚は、まるで天へ昇っていくようだった。ゆらゆらと揺れる光の帯が、自分たちを優しく迎え入れてくれているように見えた。
「めっちゃ綺麗だったね」
海から上がるなり、みどりが真っ先に口を開いた。
「オーロラの中を泳いでるみたいだった」
凪が思わず口にすると、みどりはくすっと笑う。
「凪って、絶対ロマンチストだよね」
「そ、そんなことないし」
顔を赤らめた凪が照れ隠しにみどりの背中を軽く小突く。
そこへ、少し遅れて瑞稀と美央も浮上してきた。
美央は海面から顔を出すなり、先に陸へ上がっていた二人を見つけ、大きく両手を振る。
「おーい!」
全身で嬉しさを表現するその姿を見て、みどりがふっと笑った。
「美央って、なんか子犬みたいだよね」
「……分かる」
人懐っこくて、嬉しいことがあると全身で喜ぶ。その姿を見ているだけで、こちらまで笑顔になってしまう。
海の中は、言葉では言い表せないほど幻想的だ。
光はゆらめき、波に揺れる海藻は踊るように身をくねらせる。目に映るものすべてが現実離れしていて、夢の中を漂っているような気分になる。
そして、気づけば、次がラストダイブだった。
もう終わってしまう。
四日間もあると思っていたのに、本当にあっという間だった。ウェットスーツに包まれる感覚も、マスク越しに見る青い世界も、潮の匂いも、今日が終わればしばらく味わえない。
もっと潜りたい。
もっとこの海を知りたい。
もっと、この仲間と一緒に泳いでいたい。
そう思えば思うほど、胸の奥がきゅっと締め付けられた。凪は、この一本で見るものすべてを心に刻もうと決めていた。いつもよりゆっくり息を吸い込み、景色を一つも見逃すまいと目を凝らす。何度もしつこいほど練習したマスククリアを最後にもう一度行い、そのあとは皆で海底を散歩した。砂地を蹴るたび、細かな砂がふわりと舞い上がる。その一粒一粒さえ、今日は特別に輝いて見えた。
講習が始まった頃は、スキルをこなすだけで精一杯だった。それが今では、海を楽しむ余裕がある。少しだけ、一人前のダイバーに近づけた気がした。
海中をゆっくり進んでいると、瑞稀が一つの大きな岩の前で立ち止まった。海藻をそっとかき分けながら、何かを探している。やがてこちらを振り返ると、小さく手招きをした。三人は顔を寄せ合うように近づき、瑞稀が指差す先をのぞき込む。
そこには、小さなタツノオトシゴがいた。
細い海藻に尾をくるりと巻き付け、波に揺られながら必死にしがみついている。右へ、左へ。海藻と一緒に大きく揺れても、その小さな体は決して離れようとはしない。
あまりにも小さい。少し目を離せば、岩肌や海藻に紛れて見失ってしまいそうなくらいだ。それでも、小さなヒレだけは一生懸命に動き続けていた。
水族館でガラス越しに見る姿とはまるで違う。そこには確かに、小さな命が生きていた。じっと見つめていると、タツノオトシゴの小さな目がくるりと動き、一瞬だけ凪を見た——そんな気がした。たったそれだけなのに、不思議と心が温かくなる。
(頑張ってるんだね)
心の中でそっとエールを送る。もちろん、タツノオトシゴには届かない。当の本人は知らん顔で海藻の奥へ身を隠そうとする。その仕草がどこか照れ隠しのようにも見えて、凪は思わず目を細めた。
三人も顔を見合わせ、マスク越しに笑い合う。声は聞こえなくても、それだけで十分だった。こんな小さな命との出会いも、きっと今日という日を、一生忘れられない思い出にしてくれる。
海から上がると、残るのは器材の片付けだけだった。
それが、この合宿の終わりを静かに告げているようで、少し寂しい。器材を外し、一つひとつ真水で丁寧に洗っていく。太陽に熱せられたコンクリートの上には、BCやレギュレーター、マスク、フィンが並べられ、ホースから流れる水が塩を洗い流していく。四日間、ずっと一緒に海へ潜ってきた器材たち。今ではただの道具ではなく、苦楽を共にした相棒のように思えた。だからこそ、最後まで丁寧に水をかけ、感謝するような気持ちで汚れを落としていった。
すると、隣では美央が名残惜しそうにレギュレーターをくわえ、タンクの空気を「シュー、コシュー」と名残惜しそうに何度も吸っていた。その姿は、まるで禁煙明けの愛煙家がようやく一服できたかのようだった。
「先生ー! 一人やばい子がいまーす!」
みどりが美央を指差しながら瑞稀に訴える。
慌てて振り向く瑞稀。その隣では、藤田さんが腹を抱えて笑っていた。
日に焼けた顔をくしゃくしゃにして笑う藤田さんにつられ、凪もみどりも吹き出してしまう。
「ニコチンでも入ってんじゃない?」
苦笑しながら凪がブラックジョークを飛ばす。
「いや、あんたら高校生やろ!」
瑞稀が思わずツッコミを入れる。その一言に、その場はどっと笑いに包まれた。
けれど、美央の気持ちは痛いほど分かる。器材をばらし、一つひとつ真水で洗う。ウェットスーツを脱いだ瞬間、凪は「ああ、終わってしまった」と強く実感した。 肌にぴったり張り付いていたウェットスーツから解放されると同時に、大切な何かまで一緒に脱ぎ去ってしまったような気がする。
もう次のダイビングの予定を立てたくて仕方がなかった。
更衣室で髪を乾かしながら、凪は二人に声をかけた。
「楽しかったねぇ。次、いつ来れるかな?」
ドライヤーの音に負けないよう、少しだけ声を張る。
「めっちゃ楽しかった! またすぐ来たい!」
「絶対また来ようよ」
二人が笑顔で頷いてくれたことが、凪は嬉しかった。鏡に映る三人の顔は、日焼けと高揚で少し赤くなっている。それが、この四日間を過ごした証のように思えた。 着替えを終えると、三人はショップの前のベンチで瑞稀を待った。風に吹かれながら、ぼんやり海を眺める。何もしない時間なのに、不思議とそれが心地よかった。
しばらくして瑞稀が戻ると、店内で今日のダイビングデータを教えてもらいながらログを付ける。
水深、水温、潜水時間、見た生き物――。ペンを走らせるたび、今日の思い出が一つずつ形になっていく。昨日の分と合わせて、ログブックは四ページ増えた。最後のページには、「タツノオトシゴ」と丁寧な文字で書き込む。その名前を書くだけで、小さな命との出会いが鮮やかによみがえり、自然と頬が緩んだ。
瑞稀が店の奥へ用を足しに行くと、三人は互いのログブックへサインを書き合う。
その横で、美央は自分のサインを考え始めた。
「うーん……」
何度も書いては首をかしげ、また書き直す。
一方のみどりは魚図鑑をめくりながら、「この魚、きれい」と、小さくつぶやく。
そのたびに凪もページをのぞき込み、一緒になって見入っていた。
そんな穏やかな時間が、ただ心地よかった。
髪から漂う潮の香りだけが、まだ自分が海の世界にいたことを教えてくれていた。
今日見た景色。
光に包まれた青い世界。
波に揺れる海藻。
小さなタツノオトシゴ。
目を閉じれば、その一つひとつが鮮やかによみがえってくる。きっと、この景色は何年経っても忘れない。
そして、また必ず、この海へ帰ってくる。
しばらくして、瑞稀がショップの奥から戻ってきた。
細い目をさらに細め、いつもの柔らかな笑顔を浮かべている。その手には、緑色のカードが三枚、大切そうに重ねられていた。
「お待たせ」
一人ひとりに、そのカードが手渡される。
少し厚みのある緑色の仮発行Cカード。
それを受け取った瞬間、不思議と胸が熱くなった。
「三人とも――合格です。おめでとう!」
一瞬、店の中が静かになる。
次の瞬間。
「やったー!」
真っ先に声を上げたのは美央だった。
「ほんとに取れたんだ……」
みどりがカードを見つめながら、小さくつぶやく。
凪も何度もカードを裏返しては眺め、認定欄に書かれた瑞稀の名前とライセンスナンバーを指でなぞった。
(本当に、ダイバーになれたんだ。四日前までは、器材の名前すら知らなかった自分が。)
そう思うだけで、胸の奥からじんわりと嬉しさが込み上げてくる。
「これ、履歴書に書けるかな?」
みどりが笑いながら言う。
「私はもちろん書く〜」
美央もカードを掲げて笑う。
「顔写真入りの本カードは一週間くらいで届くから、それまではこれを大事に持っててね」
瑞稀がそう言って微笑む。
そして、藤田さんがパンッと手を叩いた。
「——合格、おめでとう!」
その言葉を合図に、全員で自然と拍手が起こった。
誰からともなくハイタッチを交わし、店の中には笑顔が広がる。
これまでの努力が、ようやく一枚のカードになった。
それはまだ仮発行のカードだったけれど、凪たちにとっては、どんな宝物にも代えられない海へのパスポートだった。




