海へのパスポート 5
ライセンス合宿も半分を過ぎて、いよいよ本物の海へ出る日がやってきた。朝から三人の表情には、昨日までとは違う緊張感が浮かんでいる。
昨日までの講習を終えて、器材のセッティングにはすっかり慣れていた。
「レギュレーター接続、よし!」
「残圧確認、よし!」
瑞稀に教わった通り、声に出して確認しながら進めていく。最初は少し照れくさかった指差し確認も、今ではその大切さがよく分かる。口に出すことで確認漏れが減り、自分自身も安心できるのだ。準備を終えた三人は、海を見渡せる場所に集められた。
目の前には青い海が広がっている。プールとはまるで違う景色だった。水面は絶えず揺れ、風が吹くたびに小さな波が岸へと押し寄せる。遠くからは波の砕ける音が聞こえ、潮の香りが濃く漂ってきた。
「いやぁー今日も天気ねぇ」
三人に振り返った瑞稀が、海を背にしてブリーフィングを始めた。
「では、いよいよ海に出ます!」
いつも通りの穏やかな声に、三人は自然と背筋を伸ばした。
「海に入ったら、まず水面を泳いで沖の浮き輪まで向かいます。浮き輪には、ロープがついてるから、それを掴んで水面で集合してください。そしたら、順番に潜降していきます。浮き輪からロープが海底まで続いているので、それを持ちながらゆっくり潜降してください。」
三人がうなずく。
「底に着いたら、膝立ちで待機。全員そろってから、最初はマスククリアをします。私が指示を出すので、マスクの中に海水を入れて、ちゃんとクリアできるところを見せてください――」
(またか……)
凪は心の中で小さくため息をついた。もちろん必要な訓練だということは理解している。だが、海水をわざわざマスクの中へ入れる行為だけは、何度やっても気が進まなかった。
瑞稀はそのまま説明を続ける。
「――そして最後に、少し海の中を回ります。ゆっくりと浮上していって安全停止。はい、安全停止は何mで何分?」
「5mで3分!」
美央が景気よく答える。
「OK!あと、この一本目からログをつけるからね。始まりと終わりの残圧はちゃんと覚えておくこと!いいですか?」
「はい!」
三人の返事が重なった。
早速、器材の最終準備に取り掛かる。
凪は海際へと歩きながら、大きく息を吸った。潮の匂いが鼻をくすぐる。波の音が耳に届く。肌をなでる風も、プールで感じたものとはどこか違っていた。
水は揺れ、生き物がいて、天候ひとつで表情を変える。
相手は自然だ。
胸が少しだけ高鳴る。鼓動も、いつもより速い気がした。
それでも不思議と足は止まらない。ついにここまで来た。自分の足で、この場所までたどり着いたのだ。
海に飛び込んだ瞬間、全身が息をのんだ。波が不規則に身体を揺らし、ウェットスーツ越しに冷たい海水が熱を奪っていく。視界の端には、ごつごつとした岩肌が広がり、その荒々しさが否応なく目に飛び込んできた。少し触れ方を誤れば、簡単に身体を傷つけてしまうだろう。
ここは、人のために整えられた場所ではない。
胸の奥で、小さく息をつく。
恐怖に飲まれるわけにはいかない。慌てない。焦らない。
大丈夫、できている。
「みんなそろったー?では潜降しまーす!じゃぁ凪ちゃんから行こっかー?」
瑞稀に促され、最初に潜るのは凪だった。浮き輪から垂れたロープを握る。その瞬間、自分が本物の海の中へ潜ろうとしているのだという実感が、強く胸に押し寄せた。逸る心を落ち着かせ、全身の力をゆっくりと抜いていく。水に身を委ねるように左手を上げ、BCDのインフレーターから「プシュー」と空気を抜いた。ウエイトと背中のシリンダーの重みが身体を静かに引き込み、凪は海へと溶け込むように、ゆっくり沈んでいった。
掴んでいる潜降ロープは、波とうねりに煽られて右へ左へと大きく揺れる。そのたびに身体のバランスを崩され、プールに備え付けられていた銀色のポールが無性に恋しくなった。
目に入るのは、頼りない一本のロープと、どこまでも広がる青だけ。本当に沈めているのか、それさえ分からなくなる。
その間にも、水圧は容赦なく鼓膜を押し込んでくる。
鼻をつまみ、耳抜きをする。ツン、と耳の奥が抜ける。
こんなにも忙しいものなのか。
焦りから、無意識に足が動く。するとフィンが大きく水をかき、ようやく沈みかけた身体がふわりと浮き上がってしまう。
――落ち着いて。ゆっくり、ゆっくり。
心の中で何度も言い聞かせながら、凪は一段ずつ階段を下りるように潜降を続けた。
ふと視線を上げると、すぐそばで瑞稀が見守っていた。その姿を見つけただけで、不思議と肩の力が抜ける。
耳抜きを繰り返しながら慎重に潜っていくと、不意にフィンの先へ「ゴツン」と硬い感触が伝わった。
思わず足元を見る。
――着いた。
いつの間にか、海底だった。
時間はかかった。それでも、誰の手も借りず、自分の力だけでここまで潜ってこられた。
瑞稀がマスク越しに微笑み、親指と人差し指で丸い「OK」のサインを作る。
凪も思わず「OK」を返した。
胸の奥から、じんわりと喜びが込み上げる。
ついに、自分の力で、この未知の世界への第一歩を踏み出した。
指示どおり海底で膝をつき、流されないように身体を安定させる。余計な動きはせず、その場で二人を待った。
ふと顔を上げると、瑞稀は海面で待つ残りの二人を迎えに、重力を感じさせない滑らかな動きで、すっと上へ浮かんでいく。
水の中を飛ぶように進むその姿は、思わず見惚れてしまうほど美しかった。
自分もいつかあんな風に、自由に。
凪は静かに周囲へ目を向けた。
目の前では、海藻が波に合わせてゆらり、ゆらりと揺れている。その間を、小さな魚の群れが銀色の鱗をきらめかせながら、岩陰へ吸い込まれるように泳いでいく。 水面から差し込む陽の光は、揺らめく幾筋もの光となって海底へ降り注ぎ、世界全体を淡く照らしていた。
時間まで、ゆっくりと揺れているようだった。
(……綺麗。)
思わず口にした言葉は、泡となって海に溶けていく。
これで、まだ入り口。この先には、どんな景色が待っているのだろう。そう思うだけで、胸が高鳴った。
そんな神秘的な世界に見とれていると、上空から瑞稀と一緒に美央が舞い降りてきた。
美央もその場で待機をすると、今度はみどりを迎えに、瑞稀は軽くフィンをひと蹴りして、すっと浮上していく。
美央と目があうとお互いOKサインを出し合い、美央が大きく手を振った。凪も手を振り返す。マスク越しでも分かるくらい、美央は嬉しそうに笑っていた。思わず凪も笑みがこぼれる。自分も負けないくらい、胸が躍っていた。
やがてみどりも無事に着底し、これで4人全員がそろった。
全員の「OK」を確認した瑞稀は、手招きをして凪たちを先導し始める。彼女の案内に従ってゆっくりと海底を進んでいくと、視界が開け、真っ白な砂地へと出た。
ここから、本格的な水中訓練が始まった。
ブリーフィングで聞いたとおり、水中でのスキルをひとつひとつ実践していく。マスククリアもコツを掴み、目の周りを拭いたくなる衝動を抑えられるようになってきた。水の中が、少しずつ当たり前になってきた気がした。
だが、そんな小さな自信は、「中性浮力」という大きな壁の前で、あっけなく打ち砕かれた。
プールとは違い、海では波とうねりが絶えず身体を揺らす。自分が止まれているのか、それとも波に流されているだけなのか、その違いさえ分からなくなってしまう。
特に壁を感じたのは、砂地を進んでいた時だった。
自分ではちゃんと水平に泳いでいるつもりだった。
しかし、ふと振り返って絶句した。
後ろが真っ白だった。
さっきまで見えていた景色が、砂煙に覆われて何も見えなくなっていた。
フィンキックの角度が悪かったらしい。知らないうちに海底の砂を巻き上げ続けていたのだ。
海から上がると、凪はすぐに瑞稀にアドバイスを求めた。
昨日も同じ質問をした。それでも、まだ答えは見つからない。
どうしたら水中であんなに自由に動けるのか、中性浮力はどうすれば上手くなるのか。
「そうねぇ。BCの空気も、こまめに調整してみるといいかなぁ。水圧が変わると空気の体積も変わるからね。」
真剣な面持ちで聞く凪。
「でも慌てちゃダメよ。吸って、吐いて、って、肺の大きさが変わるのにタイムラグがあるから。それを考えて、落ち着いて動く、がコツかなぁ。」
「でもさぁ、それが一番難しいよねぇ」
美央も会話に混ざってくる。
「うんー。中性浮力ができるようになると、砂も巻き上げずに済むからね。」
「それです!汚したみたいで、ショックでした。」
「ふふふ。初心者あるあるだよー。練習練習」
みどりも混ざって、三人でお互いの感覚を共有しあう。呼吸のタイミングや吸う量、視線や気を付けていること。
ひよっこダイバーの三人は、とても真剣に、スキューバダイビングに向き合う。
そんな三人を眺めながら、瑞稀は優しく声をかけた。
「みんな偉いね!」
思いがけない一言に、三人は顔を見合わせる。
「ダイビングの一番の目的は、綺麗な海の中を楽しむこと。だから、他のダイバーの景色を奪わないように、中性浮力は絶対に上手くなった方がいい。」
一息ついた瑞稀は、濡れたポニーテールをほどきながら笑った。
「がんばってね!」
その言葉が胸に刺さる。
透明な海を濁らせず、ただそこにある景色と同化するように泳ぐ。凪たちが本当の意味で「ダイバー」になるための挑戦は、まだ始まったばかりだった。
楽しい時間は、信じられないほどの速度で過ぎ去っていく。
あっという間に3日目の講習の締めくくりとなる最後のダイブの時を迎えていた。
焦っても届かなかったものが、ふとした瞬間に身体へ落ちてくることがある。
エキジットの合図が出る少し前。「上手く泳ごう」とか「砂を巻き上げないようにしよう」といった余計な思考をすべて捨て去り、ただ海の中を見ようと、頭の中を空っぽにしてみたのだ。すると、それまでどうしても掴めなかった感覚が、吸い込まれるように身体に馴染んでいくのが分かった。
自分の呼吸にだけ意識が集中する。息を吸うと身体がわずかに浮き、吐くと沈む。肺の容積の変化を繊細に、透き通るような感覚で感じ取る。やがて、呼吸をすること以外の肉体の輪郭がじわじわと曖昧になり、周囲の冷たい水に溶け込んで一体になったかのような錯覚さえ覚えた。これが、瑞稀の言っていた感覚なのかもしれない。
海から上がると、瑞稀が「最後、すごく綺麗に浮力取れてたよ!」と、弾んだ声で褒めてくれた。
その笑顔を見て、凪も思わず笑った。
海から上がり、シャワーを浴びて着替えを済ませる。凪はいつものテーブル席へ腰を下ろした。
三日目ともなると、この施設にもすっかり馴染んでいた。ダイビングの後、どの席で一息つくかまで、自然と決まっていた。
髪を乾かした瑞稀が、ログブックを手にやってきた。
「はーい、お疲れ様! それじゃあ、ダイバーにとって一番大切な儀式、ログ付けを始めるよー。」
彼女の指示に従って、凪たちは真新しいログブックをカバンから取り出す。
「記憶は忘れちゃうけど、ログはずっと残るから。」
凪は真っ白な最初のページをそっと開いた。
ログブックには、その日のダイビングを記録していく。 潜った場所、天候、水温、気温、ウェットスーツやウエイトの重量、そして潜る前と潜った後のシリンダー(タンク)の残圧。
「じゃあ、データ言うから書き留めてね」
瑞稀は腕のダイブコンピュータを確認しながら、テキパキと数値を読み上げていく。
「1本目は、インタイムが9時3分、アウトタイムが9時45分。最大水深は12メートル。透明度は、そうね、10メートルかな!」
聞き漏らすまいと、凪は慌ててボールペンを走らせた。
二本分のログを書き終えた頃には、真っ白だったページは、今日の海の記録で少しずつ埋まっていった。
記念すべき一枚目のタイトル欄には、三人そろって「1本目!」と、びっくりマーク付きで書き込んだ。
このページは、きっと一生忘れない。
そして書き終えたページを、瑞稀に差し出す。
すると彼女は、空のサイン欄に、芸能人みたいなサインを書き込んだ。
それを見た美央が、目を丸くして感動の声を上げる。
「え!? これ、瑞稀先生のサインですか? かっこいい!」
「そうだよー。ログブックにサインをもらって初めて、正式な経験本数としてカウントされるの。」
「凄っ……! 人からサインもらうのなんて、はじめて!」
美央の興奮した様子に、瑞稀は照れくさそうに笑った。
「ふふふ。 バディ同士、一緒に潜った仲間同士でもサインをもらうのよ?」
その言葉に、みどりまでもが身を乗り出した。
「えーやば!美央、私んのにも書いて!」
凪もふたりのログブックに自分の名前を書く。ひらがなで「なぎ☆」と星マークまで載せてみた。
「凪ちゃんかわいい!」
「なんか寄せ書きみたいで楽しいね!」
「私、かっこいいサイン考える!」
にぎやかな声が響く中、それぞれのログブックを並べると、同じ海に潜った証が三冊並んでいた。
そこに書かれているのは、ただの数字じゃない。
初めて海へ潜った日の景色も、驚きも、笑顔も、この一冊にちゃんと残っている。
大切な宝物をしまうように、凪はゆっくりとログブックをカバンの中へと仕舞い込んだ。
その時だった。
「――では、今日の夕食を調達しに行きます。」
瑞稀は、何事もないような顔で、さらりと言った。
「……え?」




