桜散る季節 青い春に焦がれる 3
午後の授業は、午前中よりもさらに長く感じられた。 後ろの席から時折聞こえる、教科書をめくる微かな音。先ほどお昼を一緒に取った新しい「友達」がそこにいるというだけで、午前中とは確かに違った空気をわずかに感じ取っていた。
長かった一日の終礼のチャイムが鳴ると同時に、教室内は一気に解放感に包まれる。 凪が荷物をまとめていると、美央が声をかけてきた。お昼に約束していた校舎案内だ。
「じゃあ、行こっか。私たちもあんまり詳しくないんだけど。」 凪が苦笑いしながら言うと、玲も黙って頷き、三人は教室を後にした。
購買、図書室、自習室、講堂と校舎のあらゆる場所を練り歩いていく。それは、凪や玲にとっても、改めて自分たちの学校を発見する時間になった。 いつもは教室と下駄箱を往復するだけ。けれど、美央の新鮮な瞳を通して見る校舎は、まるで初めて訪れる場所のように見えた。
美央は、廊下の掲示物一つひとつに足を止め、感嘆の声を上げる。 美央との距離感は、まだどこか探り合いのようで、会話の合間に不意に訪れる沈黙に、凪は少しだけぎこちなさを感じていた。けれど、美央の屈託のない反応が、その隙間を埋めてくれる。
「なんか、この学校ひろいねー。学校っていうより1つの町みたい。」
渡り廊下を進んでいるときに、美央がそんなことを言うものだから、凪はふと笑ってしまった。
「なにそれ。」
毎日通っているはずの場所なのに、視点を変えるだけで、こんなにも景色が変わる。一方で玲は渡り廊下の窓から外を見つめながら立ち止まっていた。
「玲?どうしたの?」
二人は玲に近寄って同じ方を見ると学校のプールが見えた。水は張っていなくて、遠くからでも今現在汚れているのが分かった。
「うちの学校の水泳部、昔はすごく強かったんだって」
ふいに玲が口にした言葉に、凪は「へぇ、そうなんだ」と短く応じた。
「黒川さん、水泳できるの?」
美央が興味を惹かれたように身を乗り出すと、玲は困ったように眉を下げ、
「……顔に水をつけるのも苦手」
と、消え入りそうな声で白状した。
玲らしくない言動を、凪は不思議に思う。
「どうしたの? 急に」
「いや……ちょっとね。なんだか、寂しい感じがして」
視線を落とした玲の横顔を見て、凪はピンときた。
「撮りたくなった?」
「え? 何、何?」
一人取り残された美央が、交互に二人の顔を覗き込む。凪は誇らしげに胸を張って、親友の秘密を明かした。
「玲はね、写真がすっごく上手なの。コンクールで賞をとったこともあるんだよ!」
「えぇーっ! すごすぎる!」
美央が上げた歓声に、玲は顔を真っ赤にして慌てふためいた。
「ちょっ、なぎっ! 余計なこと言わないで!」
「えぇー、見たい! 玲ちゃんの写真、今すぐ見せてよ!」
「今度! また今度ね!」
「えぇ……」
美央は残念そうにしながらも、心のままに玲の写真を見たい気持ちを空気で押し付けていく。顔を真っ赤にして目を閉じ、居心地悪そうにする玲を見て、凪は猫にちょっかいを出すみたいにくすくすとからかっていた。
一通りの案内を終え、三人は下駄箱で靴を履き替えた。 外は、西日に照らされた校庭がオレンジ色に輝いている。校門へと向かうため、放課後の活気に満ちたグラウンドの横を通りかかる。その時だった。 『パコン』という乾いた打球音と共に、1つの白い球が弧を描いて、美央の足元に転がってきた。野球部の練習球だ。
「あ、すいませーん!」 遠くから野球部員が声を上げながら駆け寄ってくる。
美央は当然のようにボールを拾い上げた。凪と玲が見守る中、美央は少しだけ身構え、右腕を大きく振った。 けれど、放たれたボールは力なく放物線を描き、部員のずっと手前で『ボテボテ……』と力なく土の上を転がって止まった。
「……あ。」
美央が固まる。遠くの部員が「あ、あざーす!」と苦笑いしながらボールを拾いに走る。 美央の耳の淵が、瞬く間に真っ赤に染まった。その光景に凪と玲は噴き出しそうになるのをこらえた。
「……白石さん、その感じで。まさかの……!?」
「完全に野球部に送球できる雰囲気だったよね。」
玲のそのセリフに、凪は耐え切れずお腹を抱えるようにして笑い声を上げた。
「はははっ! 今の、最高に面白かった! すごくかわいかったよ!」
玲もさすがに顔がほころぶ。
「ギャップ萌えだ。」
「……もう、笑わないでよ。二人とも!球技苦手なの!」
美央は顔を伏せるようにして早歩きになる。その姿を見て、凪と玲は一緒に笑い声をあげる。
「もう、早く帰ろう。」
ぷりぷりと怒りながらも、美央の表情はどこか柔らかい。さっきまでのぎこちない距離感が、1つのミスショットで一気に溶けていくのがわかった。
夕暮れの校舎を背に帰路を歩いていく。 三人の影が長く伸びる中、美央がふと思いついたように尋ねた。
「そういえば、二人は部活入らないの? 青山さんとか、運動できそうなのに。」
凪は、沈みかけの太陽を見つめながら神妙に答えた。
「……中学までは、テニスやってたんだけどね。なんか、また同じようなことを繰り返すのが嫌で。結局、部活には入ってない。」
「別の、テニス以外とかには? 考えなかったの?」
「うーん。」
悩む凪の横顔を玲は黙って見つめている。
「……青春がしたい、って思ってるんだけど。……こう、代わり映えしない日常から、抜け出したい!っていうか。」
凪がそう口にした瞬間、隣を歩いていた美央が、足を止めて勢いよく顔をこちらに向けた。その瞳は、今日一番の輝きを放っていた。
「分かる! それ! 冒険に出たいよね!」
美央の声が、凪の胸の奥にある「モヤモヤ」を、鮮やかに言い当てた。
「なんか、ありふれた部活じゃなくて、自分でも何が起きるか分からないような、そういうワクワクするやつ!」
「……そう、そうなの! 白石さんもそう思う?」
「思う思う!めっちゃ思う! 私もね、こっちに来たら絶対に『違うこと』するって決めてた!」
凪と美央の視線が、空中でがっしりと重なった。 玲はそんな二人を見て、ふと心がざわついた。
「冒険」と「青春」。 昨日、凪が一人で悶々と抱え込んでいた言葉たちが、今、美央という新しい風に乗って、確かな熱を持ち始めていた。凪は同じ熱量で同じ方向を見つめられる「仲間」が隣にできた気がしていた。
放課後の柔らかな西日が、アスファルトの上に三人の影を長く、淡く引き伸ばしている。いつもの田んぼ道へと続く道すがら、美央は弾むような足取りで二人の前を突き進んでいく。
「ねぇ、青山さん。……凪ちゃんって呼んでもいい?」
美央がひょいと顔を覗き込むようにして振り返った。その人懐っこい笑顔に、凪は思わず顔をほころばせる。
「いいよ、もちろん。私も、美央って呼んでもいい?」
「やった! うん、呼んで呼んで!」
美央は嬉しそうに笑い、今度は凪の隣を歩く玲へと視線を向けた。
凪と美央のそのやり取りを、玲は黙って聞いていた。 昨日まで凪と二人きりだった帰り道。そこへ風のように割り込んできた新しい存在。玲は自分の中に生まれた小さな、けれど無視できない「疎外感」のようなチリッとした感覚に戸惑っていた。それを悟られないよう、いつもより少しだけ深く視線を伏せ、路傍の石を数えるふりをする。
けれど、美央はその静寂を許さなかった。
「ねぇ、玲ちゃん」
玲は悪い予感があったとばかりに、美央を見つめ返す。美央の視線は、朝の自己紹介で見せた空虚な視線ではなく、相手の心の奥まで覗き込もうとするような、真っ直ぐで力強い瞳だった。玲が気圧されてたじろぐのも構わず、美央はしっかりと目が合うのを確認してから、少しだけ声を低くして聞いた。
「玲ちゃんって呼んでもいい?」
「え……」玲は言葉に詰まった。
「もう、呼んでるじゃない。」
人からそんなふうに、逃げ場のないほどストレートに距離を詰められた経験がなかった。美央の瞳は、レンズ越しに世界を見る玲の臆病さを、いとも簡単に暴いていくような熱を持っている。玲はジト目で必死に取り繕って、絞り出すように答えた。
「ふふふっ。やったぁ。 玲ちゃんよろしくね!」
美央は小さく拳を握り、少女のように喜んでみせた。玲はその様子をどう受け止めていいのか分からず、ただ小さく頷くことしかできなかった。自分のパーソナルスペースを、これほどまでに鮮やかに踏み越えてきた彼女に対し、嫌悪感よりも先に、言いようのない「眩しさ」を感じていた。
やがて、美央の家へと続く最初の分かれ道が見えてきた。
「じゃあ、私はこっち! 凪ちゃん、玲ちゃん、また連絡するね!」
美央はくるりと背を向けると、大きく手を振りながら駆けていった。凪は微笑みながら手を振り返して、しばらくしてからまた歩き出した。
「……嵐みたいな子だったね。」
玲がぽつりと零した。凪は軽く「うん。」とだけ答える。 玲は、ようやく凪と二人きりになれたことに、心のどこかで安堵している自分を見つけていた。けれど、それと同時に、美央がいなくなった後の静寂が、以前よりも少しだけ物足りなく感じられるのも事実だった。
しばらくの間、二人は無言で歩き続けた。 聞こえてくるのは、自転車のチェーンの音と、五月の風が田んぼの苗を揺らすカサカサという音だけだ。昨日と同じ景色。昨日と同じ帰り道。 広がる田園風景も、遠くに見える白山連峰のシルエットも、何一つ変わっていないはずだった。
凪は歩きながら昨日と同じはずの空を仰いだ。昨夜から心に巣食っていた澱が、夕風に吹かれて綺麗に消えていくのを微かに感じていた。 夕暮れが忍び寄る前の、ほんの一瞬の深い青。それは、昨日玲のカメラが捉えたあの静かな青よりも、ずっと鮮やかで、どこか生命力に満ちているように見えた。昨日までの「冒険への焦り」は、まだ形にすらなっていない。 けれど、二人の影は昨日よりもずっと力強く、青々と光る石川の大地をしっかりと踏み締めていた。
あまり会話がないまま、昨日と同じ分かれ道になる。二人は昨日と同じように「また明日。」と声をかけあい、自転車にまたがってそれぞれの帰り道に漕ぎ出した。
家に着いた凪を待っていたのは、昨日と寸分違わぬ「日常」のルーティンだった。
ガレージの定位置に自転車を停め、玄関脇に置かれた生協の白い箱を抱え上げる。冷たい発泡スチロールの感触、冷蔵庫の棚を埋めていく食材、そして誰もいない家の中の静寂。昨日と同じはずの動作なのに、なぜか指先だけが、少しだけ落ち着きをなくしている。自室のドアを開け、ベッドになだれ込む。 天井を見上げた瞬間、ポケットの中でスマホが短く、鋭く震えた。
通知画面には、作ったばかりのグループチャット。
「美央:今日は案内ありがとう!二人のおかげで学校が楽しくなりそうだよ(๑˃ᴗ˂)و」
画面の向こうにいる美央の、あの弾むような声がそのまま文字になったようなメッセージだった。 間を置かずに、玲から「よろしくお願いします」という文字が入った猫のスタンプが送られてくる。それを合図にしたかのように、美央のテンションはさらに加速していった。
「美央:埼玉の学校はね、もっと建物が古かったんだ」
「美央:石川の田んぼって、あんなに綺麗なんだね!」
凪は寝転んだまま、指を動かした。美央はまるで犬のようだと凪は内心思っていた。
テンポよく流れていくメッセージ。たわいもない会話をメッセージ上で繰り広げていく。けれど、玲はさっきのスタンプ以降、既読をつけるだけで一向に返信を寄こさない。もともと凪と玲の間でも、連絡事項以外でメッセージを送り合うことは稀だった。
(都会の子って、みんなこんなにマメなのかな。それとも、美央が特別なんだろうか……)
凪は、おそらく、その両方なのだろうとうっすらと感じ取っていた。美央の言葉一つひとつが、凪の静かな部屋に新しい風を吹き込んでいるようだった。嵐みたいな子とはよく言ったものだと、玲のことを思い出していた。やがて、「ただいま」という母の声が響き、凪はスマホを置いて階下へ向かった。 夕飯を済ませ、お風呂で湯気に包まれながら、ぼんやりと考えたのは「冒険」のことだった。美央という友達が加わった今、昨日まで一人で抱えていた「モヤモヤ」は、不思議と薄まりつつあり、凪の心に微かな落ち着きを取り戻させていた。
髪を乾かし、自室に戻って再びスマホを手に取る。 チャイムが鳴るように、美央からの新しい一通が届いた。
「今週の土曜日、金沢観光にお出かけしませんか? まだ街の方を全然見てなくて!」
凪は思わず身を起こした。金沢の街。観光客で賑わう東茶屋街や、香林坊のショッピングモール。地元だからこそ、ザ・観光地の金沢の街には、なかなか繰り出さない。けれど今回は、埼玉からきた美央が一緒だ。きっと今日の校舎案内のように、何か違ったものになると確信できた。
(いいかも。ちょっと楽しそう)
凪は迷わず「OK!行こう!」と返信を打った。その直後だった。 タイミングを見計らっていたかのように、それまで沈黙を守っていた玲から、ポツンと返信が届いた。
「玲:ごめん。私は土曜日は用事があっていけない。二人で行ってきて」
凪の指が画面の上で止まった。
(用事……?)
玲とは小学校からの付き合いだ。彼女の考えていることは大体わかっているつもりだったし、本当は用事がないことも薄々感じ取っていた。もし家族で出かける予定があるなら、昨日までの会話でそれとなく出てくるはずだ。凪の脳裏には、少し寂しさを帯びた複雑で気にしなくてもいいくらいの気味の悪さが滲んでいた。だから凪はその違和感の正体を深く掘り下げることはしなかった。
「凪:そっか、残念。じゃあ、美央と二人で行ってくるね。」
そう打ち込み、最後に玲が「了解」のスタンプを重ねるのを見送った。画面の向こうで、玲がどんな表情でそのスタンプを送ったのか。 凪は、ベッドの上でスマホを胸に抱いた。 今週の土曜日。初めての友達との二人きりのお出かけ。 楽しみなはずなのに、心臓の鼓動はどこか、ざらついた予感を含んで鳴っていた。




