桜散る季節 青い春に焦がれる 2
目覚ましアラームのリズミカルな電子音が、重い瞼を無理やりこじ開けた。 昨日のモヤモヤは相変わらず晴れないまま、その音は凪を現実へと引き戻した。少しだけ目が重く、肌が乾燥している気がするけれど、家族の誰もそれに気づくことはない。 朝食のトーストを機械的に口に運び、制服に袖を通す。母が作ってくれたお弁当を鞄のいつもの場所に入れて、玄関でローファーを履き、自転車に跨る。 毎日同じ動作。昨日と同じ変わらない景色。 凪の胸の中には、昨日よりも少しだけ色濃くなった「澱」が溜まっていた。
「……おはよ、凪。 わぁ、顔色、最悪だね。」
いつもの合流地点に示し合わせたかのように同時にたどり着いた玲が、凪の顔を見るなり、感情の起伏の少ない声でそう言った。 玲は、凪が抱えている悶々とした空気を敏感に察していた。けれど、彼女はそれ以上踏み込んでくることはない。それが二人の距離感であり、玲なりの優しさだということを凪は知っている。
「ちょっと寝不足なだけ。……おはよ。」
凪は短く答えて、ペダルを踏み込んだ。 田んぼの苗は昨日よりも少しだけ根を張ったように見えたけれど、凪自身の足元は、相変わらずふわふわと浮いているようだった。
学校に着いても、景色は変わらない。 廊下をすれ違う生徒たちの笑い声や、吹奏楽部が朝練習で鳴らすチューニングの音が、すべて膜の向こう側の出来事のように感じられた。 凪は一階の掲示板の前を通り過ぎる。そこには、まだ部員を募集している部活のポスターがいくつか貼られていたが、今の凪の目には、ただの四角い紙切れにしか映らなかった。
ホームルームのチャイムが鳴り、生徒たちがそれぞれの席に着く。 凪は、窓際の後ろから2番目の席に着く。そこは、自分の幸運と引き換えに最初の席替えで引き当てた特等席だった。この席が優秀なのは、三組の生徒の数より机の数が1つ多いために誰もいない席が自分の真後ろにあるからだ。 しかし今はその空席が、今の凪の心の穴を象徴しているようで、少し落ち着かなかった。
ガラリ、と教室のドアが開く。 いつもならチャイムと同時に入ってくるはずの担任が、今日は数分遅れて姿を現した。その後ろに、誰かの気配を連れて。
「おー、静かに。今日はこのクラスに、新しい仲間を紹介するぞ。」
先生の声に、教室の空気が一変した。退屈そうに頬杖をついていた男子たちが背筋を伸ばし、女子たちが顔を見合わせる。
「はい、入ってきて。」
先生に促され、教室の敷居を「跳ねるように」跨いで入ってきたのは、初夏の陽光をそのまま形にしたような、元気いっぱいの女の子だった。 短い髪が揺れ、大きな瞳が好奇心に満ちている。
「白石 美央といいます。これからよろしくお願いします!」
彼女の声が響いた瞬間、教室内がパッと明るくなったような気がした。 美央は少しだけ肩をすくめ、緊張を隠すように笑った。彼女の視線は、目の前のクラスメイトたちを捉えきれないのか、不自然に教室の反対側の壁の上の方、時計の少し横あたりを見つめている。 上ずった、けれどもしっかりと芯のあるその声は、どこか小鳥のさえずりを思わせた。
先生は、彼女の名前を黒板に書き記すと、席についている生徒たちに振り返って話を続けた。
「埼玉から引っ越してきた白石さんだ。ご家族の都合で、今日からこの金沢栄高校の仲間入りだ。みんな、仲良くしてやるんだぞ。」
先生の紹介を、美央は何度も小さく頷きながら聞いていた。
「白石さんの席は……ああ、あそこだ。青山さんの後ろだな。」
先生が指さした先を見て、凪の心臓がトクン、と跳ねた。 それが可愛らしい彼女を見てなのか、守られてきた後ろの空席が埋まってしまうためなのかは、分からなかった。
美央は「はい!」と短く返事をして、軽快な足取りでこっちに向かってくる。 彼女が通り過ぎると、微かにシャボンのような清潔な香りがして、凪が抱えていたどんよりとした澱みが、一瞬だけかき混ぜられた気がした。
美央は、ずっと空席だった凪の後ろの席に、すとんと腰を下ろした。 それを見るなり先生はすぐにいつも通りのホームルームを始めてしまう。 凪が振り返ってどう声をかけようか、あるいは放っておくべきか迷っていると、背中越しに、小さな、けれど弾むような声が届いた。
「……よろしくね。」
それは、玲の低く落ち着いた声とは対照的な、明るい響きを持っていた。 凪はゆっくりと振り返って小さな笑みを返す。 そこには、まだ緊張をしているであろう美央が、屈託のない笑みを浮かべて座っていた。
「……うん、よろしく。白石さん。」
凪は、自分でも驚くほど素直な声を出していた。 昨日まで自分を支配していた「流されるままの毎日」の中に、予期せぬ新しい風が吹き込んできた。
高校生の授業というのは、思いのほかハードだ。 凪たちの通う金沢栄高校は、決して県内有数の進学校というわけではない。それでも、五月のこの時期ともなれば、各教科の進度は容赦なく加速していく。黒板を埋め尽くす数式や、古文の助動詞の活用表。昨日までのテストの余韻をかき消すように、新しい知識がこれでもかというほど上書きされていく。
凪はノートを取りながら、時折、背後に座る新しい気配を感じていた。 別に、人見知りというわけではない。後ろの席にやってきた転校生に、自分から話しかけることくらい造作もないはずだった。けれど、その機会はなかなか訪れなかった。休み時間のチャイムが鳴るたびに、美央の席の周りには、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のようにクラスメイトたちが集まってきたからだ。
「埼玉のどこから来たの?」
「制服、向こうのはどんなだった?」
矢継ぎ早に飛んでくる質問の嵐に、美央は「えっとね、」とはにかみながら、一つひとつ丁寧に答えている。
いつもなら、休み時間の間はこの特等席と後ろの空席は凪と玲の場所だった。 空席だった後ろの椅子に玲が腰を下ろし、二人で昨日のドラマの話や、今日のお弁当の中身といった、たわいもない会話を重ねるのが日課だったのだ。けれど今日からは、その日課は”いつもの”ではなくなった。それは思いもよらず突然に変わってしまった。
「……いやぁ、やっぱりすごいね。」
「……うん。 転校生だもん。」
凪は苦笑いしながら席を立ち、玲の席の方へと毎度避難した。 美央の周りにできた人だかりを遠目に眺めながら、二人はたわいもない会話を重ねていく。 二人でする会話だけはいつものように。 玲は特に変わるでもなく、ただ静かに、新しい風に揺れる教室を眺めていた。
そうこうしているうちに、午前中の最後の授業を告げるチャイムが鳴り響いた。 先生が教室を出ていくのとほぼ同時に、教室内は一気に騒がしくなる。 購買に走り出す音。 鞄から弁当箱を取り出す音、机を合わせる音。
玲が自分の鞄を手に、凪の席の方へと歩み寄ってきた。「どこで食べる?」と、玲が問いかけようとした、その時だった。
「ねぇ、青山さん。一緒にお昼、食べてもいい?」
身体を玲に向けていた凪の真横から届いたのは、あの小鳥のような、明るく芯のある声だった。 横を見ると、美央が自分の鞄を抱え、少しだけ不安そうに、けれど期待に満ちた瞳で凪を見つめていた。
午前中の休み時間、あんなに大勢に囲まれていた彼女が、あえて前の席に座っているだけの凪を選んで声をかけたことに、凪は少しだけ虚を突かれた。 隣に立つ玲が、無言で凪と美央を交互に見る。その視線には、拒絶も歓迎も含まれていない。
「……もちろん。いいよ、一緒に食べよう。」
凪がそう答えると、美央の顔がパッと輝いた。
「よかった! ありがとう!」
美央は、次に玲に視線を向ける。玲は少しだけ意外そうに瞬きをしてから、「……私も。」と、いつもより小さい声を漏らした。凪はすかさず玲を輪に引き入れる。
「三人でいいよね。」
「うん!」
とても明るく返事を返す美央に、凪は気後れしそうになる。
凪たちは三人で、机を寄せあった。五月の柔らかな日差しが窓から差し込み、三人が寄せた机を少しだけ温め始めた。 周囲では他のグループが賑やかに笑い声を上げ、運動部の部員たちが購買のパンを買いに走り去っていく。凪と玲は机の上に弁当を広げた。二人の弁当箱は、いかにも「いつもの家庭の味」という落ち着いた彩りだ。小さいころから一緒で、二人の弁当はとてもよく似ている。美央は二人のとてもよく似た弁当を見ながら、静かに鞄の中へと手を伸ばした。
「白石さんも、お弁当持ってきた?」
凪が問いかけると同時に、美央が取り出したのは、コンビニのロゴが入ったミックスサンドイッチと、とても甘いコーヒーミルクの紙パックだった。サンドイッチのパッケージを器用に開けながら苦笑いした。
「ううん、今日の朝、コンビニで買ってきた。 この学校、学食がないって知らなくて!」
「前の学校は食堂があったの?」
テンポよく凪は会話を弾ませようとする。
「うん。大きいのがあったよ。こっちに来る三日前くらいに、『お昼は各自お弁当などを持参のこと』って学校から連絡あってさー。急すぎじゃない? 」
美央は笑いながら二人に共感を求める。
「……あはは、確かにそれは急だね。」
凪は相槌を打ちながら、自分の「普通」が、美央にとっては「急な変化」であることに新鮮さを覚えた。玲は二人の会話を淡々と聞きながら、自分の弁当と向き合っている。
「そうだ、後で校舎案内してよ! 購買とか!」
「う、うん……(購買とか、あんまり行ったことないけど)」
凪は少しだけ口ごもった。いつも玲とお弁当を食べている自分にとって、購買は縁遠い場所だ。けれど、美央に屈託のないお願いをされると、流されるように返事をしてしまう。三人はそれぞれ、食事を口に運び始める。凪が卵焼きを噛み締め、玲が静かに箸を動かす横で、美央はサンドイッチを大きな口で頬張り、甘いコーヒーをごくりと飲んだ。
「……埼玉から、来たんだよね?」
凪は、自分の中にあった問いを無理やり引っ張り出して口にした。
「そうだよ。大宮の近く。」
「いいなぁ、埼玉。」
「え〜。何にもないところだよ? 暑いし、ビルばっかりだし、人は多いし。」
美央は笑って手を振るけれど、凪の心には、漠然とした憧れに似た感情が静かに湧き上がっていた。 ここではない、どこか遠い別の場所。そこから来たという事実だけで、美央という存在は凪にとって「冒険」の象徴のように見えた。彼女の背負っている空気は、凪の心に巣食っているあの重たい澱とは、決定的に色が違っていた。
会話はそこで一度、ふっつりと途切れた。 元々、凪も玲も自分からグイグイと話題を広げるタイプではない。お昼を一緒に食べているのに、早くも訪れた無言の時間。玲が気まずそうに、自分の弁当の隅にある豆を箸で追いかけ始める。しかし、美央はその沈黙を物ともしなかった。
「ねえ、二人は高校からの友達なの?」
「……ううん、小学校からずっと一緒。」
凪が答えると、美央は「すごーい!」と目を丸くした。
「じゃあ、休みの日は何してるの? 二人で遊ぶの?」
「……たまに。」
ようやく玲がそっけなくも返事をする。
「え、じゃあ、好きな食べ物は? 私はね、チーズケーキとお寿司が好き!」
美央は、その後も止まることなくどんどん質問を投げかけてくる。彼女の明るい声は、気まずい沈黙を軽やかに飛び越えていった。そのエネルギーに圧倒されながら、凪もようやく、美央自身の核心に触れる質問を返した。
「……白石さんは、せっかく高校に入ったのに、すぐに転校になっちゃったの? 嫌じゃなかった?」
美央は、コーヒーのストローから口を離すと、少しだけ遠くを見つめた。その視線は、朝の自己紹介の時と同じように、空のどこか一点を探しているようだった。そして話始めると同時に視線をぐっと下に向けた。
「んー、そうだね。最初はちょっとショックだったかな。せっかくできた友達とも離れたくなかったし。制服も可愛かったんだよ? 一人暮らしも考えたんだけど……やっぱり親にダメだって言われちゃった。」
美央はそう言って、ぺろっと舌を出した。 窓から入ってくる五月の風が、彼女の短い髪を揺らしている。
「でも、せっかくこっちに来れたのも、それも縁だと思ってるし、ちょっと楽しみと、ちょっと不安。」
「……そっか。」
「でもこの学校の制服の方が可愛いから、楽しみの方が少しおっきい。」
凪と玲はそう言って笑う美央の笑顔を見て、少し誇らしく、少し頼もしく感じた。玲の表情が少し緩んだのを見て、美央は彼女らしく軽やかにお願いをした。
「二人とも、私とお友達になってくれない?」




