07
「な、なぜだ……?」
体温計は36℃を指し示していた。冷水シャワーを浴びまくり全裸で寝たにも関わらず。
非常に残念ながら、健康体だった。
馬鹿な自分が憎い……! もう少し賢く行動していれば風邪を引けたのに!!
などと馬鹿らしい思考を繰り広げても、秒針は振れる。朝日は昇る。アラームは鳴る。
渋々学校へと向かい、授業を終えていく。
本日は珍しくも朝昼晩とも、綾乃が教室に顔を出すことはなかった。
五限の授業を平穏に終え、クラスメイトたちが部活にぞろぞろ出ていく。
僕はしばし席で休息を取っていたが、じき教室からは人っ子一人いなくなった。
「……そろそろ行くかぁ」
東棟四階から階段を下り、三階の渡り廊下を二つ抜け、さらに右に曲がりアルプスへ。
そしてようやく、生徒会室扉の前まで来る。
「……………」
確信は、していた。
彼女はいわゆるヤンデレではない。
けれど『なら綾乃は何者なのか?』を問うても、答えは出なかった。
とはいえ、そんなのはある種、当たり前のことだ。
樹多村を『文学青年気取り』と評し、円城寺は『よく噛む小動物』と印象に残した。
よく知らないからだ。
便利で。現実に適用するには、その人の一面性を強調して捉えるのが一番。
でも。
それらはきっと、間違っている。
一言でラベリングできるほど、僕らは単純じゃない。
昨日はケーキが好きと言ったのに、今日は麻婆が大好物になって。
好きと嫌いが月とスッポンみたいに同居して喧嘩別れして仲直りする。
そんなもんだ。
答えは出なかった。彼女を小さな箱にラッピングする行為に、欺瞞を感じた。
それがある人には必要だとしても――僕は綾乃と向き合いたい。
目を見れず俯くのは、ゴメンだった。
だから。
覚悟の用意は整った。意を決し扉を開け――――
――――机に置かれていたのは、少し小ぶりなホールケーキだった。
「あ、湊先輩。遅かったですね」
綾乃は窓に飾りを付けていた。装飾は既に万端の装いで、カラフルな風船もいくつか浮かんでいた。バルーンにはリスのような、多分ムササビの自作ゆるキャラが描かれていた。
普通に、ごく標準的な、パーティー設営をしていた。
他に部員はいなかった。綾乃だけ。樹多村はおろか、円城寺すらいない。
…………逃げやがったな、あんにゃろう。
綾乃はどうも上機嫌だった。鼻歌交じりに口笛まで吹き、用意した紅茶を淹れ始める。
謝れる雰囲気じゃない。場を壊すのは、僕が最も嫌う一つだ。
ならどうしようかと考えている間、何も話さないのもなんだと、試しに聞いてみる。
「風船のゆるキャラ、なんでムササビなの?」
風船はふわふわ浮いていた。彼女はリスっぽい何かが描かれた風船を手に取る。
「この子はエゾモモンガのエモちゃんです。可愛くないですか?」
「えらくマイナーな動物だね」
「うみちゃん、さっき来たんですけど、文芸部の打ち合わせがあるから遅れると」
文学フリマの件だな。名古屋じゃやってないから遠出するだろうし、ミーティングか。
待て、文芸部の打ち合わせ?
あいつ、逃げたわけじゃないのか……
「……で、これはどういう風の吹き回しなの?」
僕がそう尋ねると、綾乃は手に持った風船エモちゃんを飛び立たせ、恥ずかしそうに言う。
「好きな人の幸せは……願うものです」
そんな風に、目を伏せて言った。
「……ありがとう」
「先にケーキ食べちゃいましょう。切り分けますね」
そう言って綾乃はケーキナイフを取り出して、丸いケーキを切り分けていく。
椅子に座り、ケーキと紅茶を待っている間、またも僕は思う。
思った通りじゃないか。
彼女は違う。樹多村のラベリングはまるで間違っている。
僕は安堵していた。上手くファールを打てたことに。
すっかり落ち着いた情勢に、変わらない平穏に、満足していた。
「……ところで、私はこうも思うんです」
――――本当に?
「幸せは願うものじゃなくて――叶えるものだと」
綾乃が言う。彩り豊かな風船エモンガはくるくる廻る。一匹、空気が抜けて地面に落ちる。
綾乃は上品な仕草で紅茶を口にし、「幸せは……運命と言い換えてもいいでしょう」音を立てず静かにカップをお皿に戻して、言葉を続ける。
「自分で切り開くものだと、思うんです」
僕は、今じゃないかと思っていた。
今以上に、嘘を吐いてごめんなさいと謝るときはない。
「綾乃、実は」
「遅いですね、二人とも」
綾乃はドアの方に目線をやる。しんとしていた。静かな夕暮れの光がドアに射していた。
「先輩は、お二人が来ると思いますか?」
「……どういう意味?」
「私は、誰も来ないと思いますけど……ケーキ、もう一個食べませんか?」
何を言ってるんだ、綾乃は。
文芸の打ち合わせがあるから遅れてくる。円城寺も樹多村も。
だから終われば来る。
来ないと思う?
「…………文芸部の打ち合わせじゃ、ないの?」
疑問じゃなく確認だった。
彼女はナイフを手に、だらりと脱力するようにため息を吐き、憂鬱そうに黙り込む。
沈黙の西陽が射していた。茜色のカーテンは紅茶の色をしていて、すじ雲のような湯気をぼんやり覆う。冷めていき、雲が晴れ。けれど西陽の紅茶は渋みを徐々に増していく。
静けさは、濁った肯定を示していた。
「先輩は……なんにも知らないんですね」
嘘。
全部、嘘だった。
「――――樹多村に、なにした!!」
考えは瞬時に彼を向いた。
幸せ? 運命? 叶えるもの? 誰も来ないと思う? 自分で切り開く?
なにをしたかは知らない。
でも彼女は、なにかした。
「……私はなんにもしてませんよ」
問い詰めても埒が明かない。無視し、直接電話をかける。
1コール、2コール、3、4、5…………
「お掛けになった電話は――」ラインに切り替えてメッセージを連打。
既読はつかない。
「ケーキ食べませんか? 先輩のお好きな苺のショートですよ」
綾乃はナイフを手に持ったまま、薄く微笑む。
「綾乃は、なにがしたいの」
「……先輩は、なにがしたいんですか」
尋ねたのに、尋ね返される。
差し出されたケーキを一瞥し、煌めく刃から顔を背けてバッグを肩に提げる。
「帰る」
「そんなに樹多村先輩が大切ですか」
「僕になら、なにしてもいいよ。でもね、それ以外は――嫌いになる」
迷惑を省みない奴は、嫌いだ。
上手に監禁するような奴は法の裁きを受けるべきだし、恐怖と破滅を匂わせて周囲を脅す奴はろくでもない。
好き好き言ってるだけならいい。愛憎入り乱れるなんて現実じゃそう起こらない。
でも、想い人に恋人がいると分かって――そうするような奴は、前提を間違えている。
「今の綾乃は……嫌いだ」
僕はヤンデレなんて、大嫌いだった。
叩きつけるようにドアを閉めて、生徒会室を後にする。
歩く。帰る。下を向く。日は沈んで、月が昇っていたんだろう。足元が暗く落ち込む。
また、俯いている。
その晩、何度電話をしても、彼に繋がることはなかった。




