いつか落ちる空の下で
まだ空は落ちていなかった。
窓の外を見ていた。三階から見下ろすグラウンドじゃなく、空を見上げていた。
頬杖をついてぼぉっと。秋口の五時半に、薄らぼんやりと落ち込み始める。よく晴れていたから、黒雲に遮られずそのままの夕焼け空が覗けた。まだ星の点々は連なっていない。
「あ、流れ星だ」
視線の先を、流線上に弧を描く一本線が茜色の西側の空を引き裂いていた。航跡雲の何倍も鮮明に、稲光みたいに跡を残しながら、どこか遠くからやって来た流星は静かに消える。
しまったなぁ。願い事してないや。欲求不足なのに。
「綾乃は、何かお願い事、した?」
けれどそもそも、綾乃は窓の外の流れ星なんて見てなかった。つい先日、顧問の梅沢先生が生徒会業務の一つである校内新聞の発刊が三ヶ月間為されていないという旭陽高校の暗部を見つけてしまったことにより、僕らは新聞作成に勤しむことになっていたからだ。
にも関わらず、樹多村は相も変わらず生徒会室に来ないし、安達もいない。
だから僕は窓を眺め、後輩で部下で書紀でもある綾乃はせっせとジャーナリズム活動に励んでいるのである。
「早く終わるといいね、その受難」
「与える側が言ったら戦争でしょうに……」
締切は今日。ゆえに、現実逃避がとても捗る今日このごろである。
「あーもう。交代、交代しましょう。湊先輩が苦しむ姿が見たいです」
「コラムなら書くよ。現代分析哲学が与えるアメリカの法制度への影響とか」
「校内新聞なんて我が校の野球部が何回戦で負けたか書いときゃいいんですよ……」
ところが実際のところ、彼女が書いてるのは教師の人気度ランキングなんかではなく、先日の議事会で挙がった制服規制緩和に関する論述だったり、西館と東館を繋ぐ通用口に置かれる自動販売機はサントリー社ではなくコカ・コーラ社でなくてはならない、といった、なんともイデオロギッシュな代物であった。編集長的には花丸を贈呈しよう。
紙面の八割は埋まっている。まぁ、後は適当に4コマでも描いとけばいいか……
お賃金としていちごミルクを綾乃にあげて、手持ちの吉田戦車をパクり始める。
「……たとえばなんですけどね。八十年後に、大きな隕石が落ちてきて、人類が滅亡するって、明日ニュースで流れたら、先輩、どうします?」
綾乃がいちごミルクを飲みながら、そんなことを言い出した。疲れてるみたいだった。
「八十年後? 明後日じゃなくて?」
「明後日ならパニックになって終わりじゃないですか。八十年後なら、まぁぎりぎり生きてるか死んでるか微妙なラインですし。でも大半の人生には直接関わらないわけですから、無視もできるでしょう。そういう感じなら、先輩はなにします?」
どうも彼女は頭をフルに使う仕事をこなした弊害により、全く無益な思考実験に着手し始めていた。なんて愚かなんだろう。でも人類って元々愚かだし。人間らしい悩みかな。
「八十年もあったら、科学技術も進歩して隕石くらいなんとかなるんじゃないかな」
「では、気にせず過ごすと」
「……気にしないで生きていくのは、無理な気がする」
天井を仰ぎ見てうーんと考える。絵が下手くそすぎて4コマなんて描けないことに気付いたからだった。
……素直に考えれば、どうでもいいことなんだろう。自分が死んだ後の人類の命運なんて。
よしんば生きてたとて、百歳近い。まぁ、充分と呼んで差し支えないお年頃じゃないか。
そうなると、本当にそれは、どうしようもないことだ。
いつか必ず死ぬと人は誰でも知っていて、けれどよく知らないみたいに。
きっと、今にも落ちてきそうな空から目を逸らして、みんな地上を這いずり回るんだろう。
それで、たまに子供が上を見ながら言うんだ。「ねぇ、あの光ってるの、なーに?」
大人はこう答える。「上なんて見てたら、転ぶんだから。ほら、下見て、歩いて歩いて」
「あ」
「どうかしましたか?」
「子供がいたら、困るね」
赤の他人が全滅しても涙を流すくらいだろうけど、身内だと違うかもしれない。
いや……違うな。子供、多分いないわ。
「五歳の誕生日前に必ず死ぬと分かっていて、子供を生む親は限られるんじゃないですかね」
末期の社会体制が崩壊していることは想像に難くない。
じゃあ、いつ壊れるんだろうと思った。首相が内閣組織して、閣議決定して、衆議院で可決して、国民投票して、「今日までは大丈夫ですが、明日からこの国は終わりです」って?
そんな感じもするし、そんな感じではなさそうな気もする。
思うに、空の落ちる速度は、きっと桜の花びらが落ちるように緩やかだ。まだ落ちてなくて、昨日と何も変わっていないのに、忘れた頃にふと見上げると、もう落ちる寸前なんだと思う。誰もそれが落ちるところを見ていない。
そんな感じだと思う。
「でも親ってそんなもんじゃない。二百歳の誕生日前に確実に死ぬのに生むじゃん。五年後と二百年後にそんなに違い、ある?」
「まぁ、先輩はそんな心配しなくていいですよ」
「なんで?」
僕が尋ねると、綾乃は手に持ったいちごミルクを高らかに掲げ、ふっふーんと宣言する。
「そりゃ、先輩は私と結ばれる運命にある以上、血を分けた子供は出来ませんからね!」
リアル志向のフィクションは笑えないぞ後輩。
迂闊に触れるわけにはいかない地雷原を避けるよう、僕は笑えるジョークで返す。
「やだなぁ綾乃。最近は科学技術の進歩で女同士でも子供、生めるらしいよ」
「あの、とりあえず入籍します?」
けれど残念なことに、科学技術の進歩に法整備がついていけてない我が国である。
「はいはい、また今度ね」
「今度っていつですか。何時何分何秒? 地球が何回回った時点で言うと?」
年相応なタイプの小学生かお前は。
僕は描けない漫画を描くのを諦めて、適当な文章をこしらえることにした。
大きな文字で書くことにした。太いサインペンを使うことにした。
紙にペン先を乗っけて、そこで再び止まる。紙が真っ黒なインクで滲む。
ネタがない。
「…………空が落ちてきたらかな」
ないけど、書かないと僕らはどこにも帰れないのだ。
「……先輩のいじわる」
いつか。
いつか、きっと、空は落ちる。
今日落ちてくれば、残りの紙面を埋めずに済むのにと思いながら、僕は窓の外を見る。
まだ、空は落ちてこない。




