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第56話 名前を呼んで

 都へと向かう船は、あの日とは違う、よく晴れた海を走っていた。


 大海を越え、目的地はもう目と鼻の先だ。


 行きかう船が、挨拶をしてよこす。


 人が、船が、立ち並ぶ家々が、住み慣れた港町よりも多く、大きく、活気が伝わってくるようだ。


 ただそれだけに、大小の揉め事が絶えることがない、光と闇の坩堝だという。


 なかには、あやかしによる災厄もあり、これから訪れようとしているホルタク商会は、そういったことの仲裁や解決のための人の斡旋も稼業としているのだ。


 トウヤも都に滞在中は、そういった事件に巻きこまれ、たいへんな目にあったらしい。


 詳しくは話さず、「行けばわかりますよ」と、すこし意地の悪い笑い方をしていた。


 そんな都の様子をよそに、甲板の手すりにもたれて、モモはそっと、自身の右手を陽にかざしてみる。


 人差し指の爪の先に、ほんのひと欠片だけ残った結晶が、光を透かしてきらりとまたたいた。


 不思議と、もう冷たくはない。


 耳を澄ませても、あの悲痛な呼び声はもう聞こえなかった。


 代わりに思い出すのは、まばゆい光のなかで、すべてを分かち合った少年の声だ。


 指先に残ったこの欠片は、呪いの名残というより、遠い島とわたしを結ぶ、小さな約束の印。


 モモには、そう思えた。


(もう、時は遡らない)


 誰に確かめたわけでもないのに、それは静かな確信だった。


 からっぽになったのは、ビャクヤの力だけじゃない。


 あの光の日を最後に、右手の奥で息をひそめていた大きな力もまた、役目を終えて眠りについたのだ。


 これから歩くのは、一度きりの時間だ。


 やり直しのきかない、間違えたら取り返しのつかない、たった一度の。


 それでいい、と思えた。


 ふと目を向けると、あやかしの服をまとった白髪の青年が船乗りたちにまじって、器用に帆綱を手繰っている。


 結晶におおわれた右腕は、時間をかけて元通りになっていくとは聞いているけど、どれだけ不便なのかは、よくわかっている。


 わたしの代わりに光を受けとめて、命を落としかけたトウヤ。


 だめだと言ったのに、黙って無茶をしようとした彼のおかげで、わたしは命を落とさずにすんでいる。


「僕自身と、弟のためにやったことですから」とは言うけど、そんなことない。


 何度でも感謝を伝えて、できる限りの手助けをして、少しずつでもその恩を返していきたい。


 それにしても、トウヤがついてきてくれたのは、意外だった。


 あんなに弟との再会を望んでいたのに。


 でも、心強いのは確か。


 わたしとクロウだけを都に送り出すのは心配と、本気で案じてくれていたのがわかった。


 ビャクヤには申し訳ないけど、すこしの間、甘えさせてもらうね。


 都についたら、なにをしよう。


 港での暮らしとも、島での無茶とも違った、騒々しくも新しい出会いに、期待がふくらんでいく。


 いまはまだ漠然としているけど、きっと楽しい。


 それを文にして、ビャクヤに届けよう。


 トウヤのことも、たくさん伝えないと。


 それとシキ。


 船長たちのことだけじゃなくて、港に残してきたみんなのこともある。


 しっかり者の彼のことだから、放り出したりなんてせず、きっと面倒ごとに巻きこまれながら旅支度を整えるのだろうな。


 わたしたちが先に、都へ到着するのかもしれない。


 なかなかすぐには、再会できないかもしれない。


 それでも、必ずやってくる日に備えて、わたしも頑張らなくちゃ。


「おい、モモ。あんまり端に寄るなよ」


 背後から、心配性の番犬みたいな声が飛んできた。


 振り返れば、赤い髪が海風にあおられて、不機嫌そうに逆立っている。


(そういえば……わたしの、ほんとうの名前)


 この船旅の間、クロウとトウヤとは島でのこと、これからのことをたくさん話したけど、昔のこと、熱に浮かされていたあの日々より前の記憶は、いまも霧の向こうにある。


 生まれたときの名前は、もう思い出すことがないのかもしれない。


 でも、と思う。


 呼ばれたい名前なら、とっくに決まっている。


「……ねえ、クロウ。名前を、呼んで」


「あ? いま呼んだだろ」


「ふふ。じゃあ、もう一回」


 クロウは眉を寄せ、それから、なぜだか少しだけ目を泳がせた。


 桃色に腫れた小さな顔に「なんとなくだ」と答えた、遠い日のことが頬の裏側をかすめたのかもしれない。


「……モモ」


 ぶっきらぼうな、けれど、何度でも呼び直してもらえる名前だった。


 その不器用な声が、潮風に溶けていく。


 モモは声を立てて笑い、それから、そっと右手を空へ伸ばした。


 人差し指の先に残った、ほんのひと欠片の硝子。


 それがかたむきはじめた陽の光をすくいとって、足元の甲板に、ちいさな七色の橋を架けた。


 まだ誰も踏んだことのない、新しい道のように。


 帆綱を手繰る手を止めたトウヤが、その光をながめて、やわらかく目を細める。


 都では、シキとも再会できる。


 呼んでくれる人も、待っていてくれる人も、いる。


 この光の橋が架かる先を、モモはもう、恐れない。


 この先、誰と、どんな道を歩いていくのか。


 それは、まだ何も決まっていない。


 決まっていないままで、いい。


 だって――物語は、これから始まるのだから。


 祈りはもう、過去へは向かわない。



【完】

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