第36話 硝子の腕と短刀
次の瞬間、トウヤはモモの華奢な背中に腕を回し、骨がきしむほどきつく、抱きしめ返していた。
「ビャクヤ……ビャクヤ……いや、違う。君は、ビャクヤではない」
ささやきが、ふるえながら熱を帯びていく。
すがるようだった腕が、その意味を変えていく。
長い指先が、モモの細い首筋へと這い上がった。
「なぜ。なぜ君が、あの子と同じ気配を放っているのですか。……まさか君が、あの子を、僕からうばうためにここへ来たのですか……!」
のど元に、指先がふるえながら食いこんでいく。
狂気と紙一重の、あまりに深い愛。
それでもモモは、逃げなかった。
目を閉じることさえせず、ただその悲痛な錯乱を、真っ向から受け止めた。
ふ、と。
モモの袖の奥から、冬の水底のような冷気が立ちのぼった。
トウヤの指が、止まる。
首にかかっていた手が、火に触れたかのように離れた。
見開かれた薄紫色の瞳が、袖からのぞく硝子の右腕と、眼前の少女とを、交互にさまよう。
自分がいま、何をしようとしていたのか。
その自覚が、青年の顔から血の気を引かせていく。
「僕は……っ」
モモはそっと身体を離すと、頬を伝うトウヤの涙に、硝子の指先を添えた。
「冷たいでしょう? でもね、これが、ビャクヤがずっと感じていた孤独の温度なの」
トウヤはその冷たい指先に、壊れ物に触れるように自らの手を重ね、祈るように目を閉じた。
長い沈黙ののち、絞るような声がもれる。
「……君は、何者なのです。どうして僕の名を知っている。その腕は、一体……」
問わずにはいられない。
弟を求める狂おしいほどの渇望が、トウヤの声をふるわせた。
モモは涙を袖でぬぐい、薄紫色の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「驚かせてごめんなさい。こうして直接あなたに触れなければ、きっと信じてもらえないと思ったから」
モモは結晶と化した右腕に目線を落とすと、ぽつりぽつりと、言葉を紡ぎ始める。
「わたしはね、何度もあの島へ渡り、そのたびにビャクヤの心に触れてきたの。暗闇のなかで凍えていた彼の光を、わたしはこの身に浴び続けた。彼の抱える苦痛を、寂しさを、少しでも分け合いたいと願ったから……わたしの右腕は、こうして彼と同じ結晶になってしまったの。この腕を通じて、わたしは彼の本当の願いを知ったんだよ」
モモの語る言葉は、トウヤの胸の最も脆い部分を揺さぶった。
あれほどまでに求めた弟が、姿を変えて目の前に現れたのは、なぜか。
弟の魂と深く融け合った者にしか持ち得ない説得力がそこにはあり、それがトウヤに、彼女の話を拒まずに聞こうという動機を与えていく。
「あなたの復讐の果てを、わたしは見てきたの。欲に狂った人間たちを島へ引き入れれば、待っているのは虐殺だよ。あなたが憎む里の者たちだけでなく、女も、幼い子供たちも、残らず死に絶える。……そして何より、そんなことをしても、ビャクヤは救われない」
「君に、何がわかるというのです!」
トウヤが激昂し、腕を大きく振った。
背中の翼が現れ、部屋中に羽根が舞った。
「あいつらはビャクヤの優しさに胡坐をかき、裏切り者とののしった。弟がおのれを犠牲にしてまで守ろうとした同胞が、あんな醜い奴らであるはずがない。僕は、ビャクヤをあの薄汚い繭から救い出し、里のすべてに報いを受けさせる。そのために人間を利用する。僕の何が間違っていると言うのですか!」
「……ビャクヤは、誰も憎んではいないよ。それに、あなたに代わってほしいとも、望んでいない」
トウヤの薄紫色の瞳が、激しくさまよう。
モモの姿に、ビャクヤが重なる。
「嘘です。あの子は、あの暗闇のなかで、ずっと僕を待っている。僕が身代わりになってでも、あの苦痛から引きずり出してあげなければ、誰があの子を救うというのです」
「身代わりになろうとしてはだめ」
モモはトウヤの痛々しい視線を真っ正面から受け止め、諭すように言葉を重ねた。
「あなたがどれほどそれを望んでも、ビャクヤはそれを拒むよ。大好きな兄さんを犠牲にして自分が生き残るなんて、あの子は受け入れない。その結果、あの子の心は引き裂かれて、力を暴走させて消滅してしまうの。……そんなの、あなたの望む結末じゃないでしょう?」
「……ふ、ふふ」
トウヤののどから、乾いた笑いがもれた。
「見てきた、ですって。まるで先の出来事を、その目で確かめてきたかのような口ぶりだ。……ああ、なるほど。ようやく得心がいきましたよ」
あざけりの色を浮かべたまま、トウヤはモモを突き放すように距離を取り、ふところの短刀を音もなく抜き放った。
月明かりを受けた切っ先が、モモののど元へと向けられる。
「グレンの差し金ですか。それとも長老の入れ知恵か。哀れな復讐者を甘い言葉でたぶらかし、計画を捨てさせるための罠でしょう。その腕の気配とて、何かの紛い物やもしれません。……答えなさい。次第によっては、君を生かして帰すわけにはいきません」
突きつけられた刃にも、放たれる殺気にも、モモは一歩も退かなかった。
トウヤの目をとらえたまま、ゆっくりと口を開く。
「わたしは、時を遡ってきたの。前のあなたは、人間たちを島へ引き入れて――祠の前で、片方の翼をむしられた骸になって死んでいた。誰にも看取られないまま」
短刀を握るトウヤの指が、かすかに揺れた。
「それにね、あなたが身代わりになろうとしたとき、繭の中のビャクヤは、たしかにこう言ったんだよ。――だめだよ、兄様、って」
それは、誰も知るはずのない、知り得るはずのない光景だった。
切っ先が下がり、積み上げてきたはずの確信が、足元から崩れていく。
トウヤの決意が、揺らいでいく。
モモの言葉は、まるで実際にその終わりを見てきたかのような、重い現実味を帯びて、彼の胸をうがつ。




