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第35話 安宿の復讐者

 港の喧騒から少し離れた、薄暗い安宿の一室。


 灯火を消した部屋のなかで、外套を脱ぎ捨てた白髪の青年が、月明かりを頼りに、卓上に広げた海図をにらみつける。


 あやかしの翼と白鬼の血を引く彼は、幼いころから、どちらの一族にもまじり物として疎まれてきた。


 その心をつなぎとめていたのは、「兄様は、島の希望の光なんだ」と、常にかばってくれた実の弟のビャクヤだ。


 やがてトウヤは、あやかしと白鬼が手を取り合って生きる世界、何より愛する弟が健やかに暮らせる居場所を夢見るようになり、いつしかその理想は、ビャクヤのものにもなった。


 弟が白鬼族の長だけが持つ浄化の光を発現し、オニの生来の凶暴性を鎮めて、知性と慈しみの心を育てると、里はかつてない豊かさを手に入れ、あやかしとオニとが共生する理想郷となった。


 五年前、人間たちとも手を取り合える世界を夢見て、トウヤは見聞を広めるために島を離れた。


 都で商人へと身をやつし、人間社会の営みを学びながら、その暮らしの面白さをつづった文を、幾度も弟へ送った。


 その文こそが、ビャクヤの未来の道標となった。


 だが、悲劇は起きた。


 兄弟が信じていたあやかしたちが、突如、白鬼の一族への大虐殺を引き起こしたのである。


 一年の後、帰還したトウヤを迎えたのは、一変した穏ヶ島の景色だった。


 反乱を起こしたあやかしはグレン率いる紅鬼に鎮圧され、生き残った白鬼たちは里の奥へと隔離されて、島は紅鬼の支配下に置かれていた。


 そして何より、浄化の光を暴走させたビャクヤが、オニの一族すべてを滅ぼそうとした大罪人として、裏山の洞窟に封印されたのだ。


 激昂してグレンにつめ寄っても「終わったこと」と一蹴され、長老は保身の言い訳を繰り返すばかり。


 あまつさえ里の者たちは「あやかしの手先め」と、いわれのない呪詛を浴びせてきた。


 弟が命をかけて守ろうとした同胞が、その兄を裏切り者とののしる理不尽。


 怒りに我を失い、里の者たちを打ちのめしたトウヤは、グレンの沙汰により、島の奥深くの炭鉱へと送られた。


 暗い地の底でくすぶり続けたのは、ただ一つの情念――。


 ビャクヤをあの薄汚い繭から救い出し、弟の犠牲の裏で醜く生き永らえる白鬼どもへ、等しく報いを受けさせること。


 長い月日の末、トウヤは監視の目を盗んで炭鉱を脱走し、海を渡って、この港へと命からがら逃れてきた。


 あやかしの力を封じた衣で翼を隠し、素性を伏せた彼は、酒場や路地裏で、毒をまくように噂を流し始めた。


 穏ヶ島にはオニがいる。

 奴らは莫大な宝をたくわえている。


 さらに、都から持ち帰っていた宝飾品の数々を裏市でたたき売り、「あの穏ヶ島から命からがら持ち出してきた宝だ」と、これみよがしに触れ回った。


 人間の底知れない強欲さは、都での経験からよく知っている。


 餌をまけば、必ず欲に狂った人間たちが軍勢を仕立てて、島へと乗りこんでいく。


 その混乱のすきを突けば、グレンの首を獲り、ビャクヤを救い出せるはずだ。


 ひと月、ふた月と経ったころ、彼のもくろみは、ようやく結実の時を迎えた。


 噂をうのみにし、穏ヶ島へ攻め上がろうという、命知らずの略奪者が現れたのだ。


 次のねらいは、島から逃れてきた生き証人として船に接触し、自らの手で略奪者どもを島へと導く案内人となること。


 そのために、船の姿と船を率いる者の人柄、出航の時期と航路をつかむべく、彼は港の酒場と古びた宿を潜伏の拠点に、息をひそめて動向を監視し続けていた。


 海図から視線を上げ、トウヤは小さくため息を吐いた。


 出航の日は近い。


 すべては、あの愚かな人間どもの欲をあおり、ビャクヤの元へたどり着くための布石だ。


 その時、ふいに宿の薄い木扉が、前触れもなく開いた。


「何者です……!」


 立ち上がり、ふところの短刀へ手を伸ばしかけたトウヤの身体が、扉のすきまから滑りこんできた人影を見て、硬直した。


「ビャクヤ!?」


 思わずその名をさけび、トウヤは椅子を蹴立てて駆け寄った。


 数歩進んだところで、その足がぴたりと止まる。


「いや、違う! ……君は、誰ですか」


 ビャクヤとは似ても似つかない、人間の娘だった。


 娘は何も言わずに、自分の右腕をおおう大きな袖をまくり上げた。


 すると、硝子のように透きとおった右腕があらわになる。


 そこから放たれる波動に、トウヤの胸が激しくしめつけられた。


 この感覚、この禍々しくも愛おしい気配は、まぎれもなく、あの祠の奥で眠り続ける弟ビャクヤのそれと、同じものだった。


「……お嬢さん、君は何者ですか? どうして僕のところへ?」


 モモは、驚愕にふるえるトウヤの瞳を、まっすぐに見返した。


「トウヤ。あなたの復讐の果てに何が起きるか、わたしは知っているの」


 トウヤは、モモにビャクヤの姿を重ねてしまった。


 あらがいがたい誘惑に、トウヤの心はかき乱され、何も言い返せなくなる。


「部屋に入っても、いい?」


 返事を待たずに、モモは部屋へと立ち入ると、そのままそっと、トウヤを抱きしめた。


 記憶にはないなつかしさに、モモの頬を涙が伝った。


 モモの細い腕が背に回されると、トウヤは長年の孤独が嘘であったかのように、熱い血のめぐりを思い出した。


 衣服越しに伝わってくるのは、あの深く仄暗い檻の中で凍えている弟の、かつてのぬくもりそのものだったからだ。

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