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第32話 モモという名前

 二人の視線の先に、星明かりに揺れる船影があった。


 シキは衣服を脱ぎ捨てると、音もなく冷たい海へと飛びこんだ。


 潜水して船首へと肉薄すると、係留した錨の鎖を伝い、器用に這いあがっていく。


 一方のクロウは、正面の歩み板から、堂々と甲板へと足を踏み入れる。


「やい! 俺の弟を返してもらいに来たぜ!」


 夜の港の静寂を切り裂き、怒気に染まったクロウの声が響き渡った。


 船内にひそんでいた男どもが何事かと色めき立ち、甲板へと次々と這い出てくる。


「なんだあ? このガキ」


「わざわざ売物のほうから飛びこんで来やがったぜ」


 クロウは両手で持った松明を肩の横に立てると、八相の構えを取り、男たちをにらみつける。


 それを見た男たちは、相手が子供一人だとわかるや、下卑た笑いに、油断した顔つきではやし立てる。


 しかし、男たちの意識がクロウへと引きつけられたすきをつき、シキは船内へと侵入を果たしていた。


 それを見届けたクロウは、一歩目を踏み出すと、そのまま後部甲板へ向けて走り出した。


 追ってきた男の一人を豪打の一撃でたたき伏せ、さらに走る。


 色めき立つ男どもの前で足を止めると、投擲の構えを取り、松明を振りかぶった。


 クロウの放った松明は弧を描いて飛び、折りたたまれた帆に命中した。


 たちまち甲板は、炎の明かりに包まれる。


「この炎は特製だぜ。はやく消さねえと、どこまで燃え広がるかわかんねえなあ!」


 船内へと侵入したシキは、息をひそめて、暗い通路を探っていく。


 甲板から響く足音と怒号を聞きながら、シキは油のにおいのこもる船底の荷物部屋へと、たどり着いた。


 一人残されていた見張りを難なく無力化すると、鍵をうばい、閉じこめられていた子供たちを次々と解放していく。


「これで全員か? さあ、甲板では今ごろ、こわーいオニが暴れてるぞ。見つからないように、そっと逃げ出すんだ。僕についてきて」


 シキが甲板に顔を出すと、燃えさかる炎を消そうとする者、逃げ回るクロウを追う者、たたきのめされ昏倒している者で、船は惨状と化していた。


 シキはクロウの健在を確認すると、一瞬だけ安堵し、すぐにまた表情を引きしめる。


 子供たち一人ひとりの顔を見て、にっこり笑う。


「いいかい。甲板にいるオニに捕まったら、また船の底に逆戻りだよ。でも、僕についてこられたら、家に帰れる」


 まっすぐにシキを見つめ返してきた子供を先頭に、隊列を組む。


 シキ自身は、小さな女の子を背負うと、号令をかけた。


「じゃあ、いくよ……それ!」


   ◇


 港での騒ぎをかぎつけて、船乗りや夜回りたちが、集まってきた。


 ほどなくして赤獅子丸の炎は消し止められたが、拘束された二人の男の供述もあり、船乗りたちは次々と捕縛されていった。


 翌朝には、とらわれていた子供たちは親元へと引き渡され、あるいは、引き取り手の元へ向けて報せが送り出された。


 ただ、救い出した子供たちのなかに、一人だけ、行き場のない少女がいた。


 衣服は汚れ、桃のように頬をふくらませ、何よりもその右手の爪の端が、まるで硝子細工のように不自然に白く透きとおっていた。


「お前……名前は?」


 クロウの問いかけに、少女はひどくおびえた様子で立ちすくみ、自らの右手を抱きしめることしかできなかった。


 過去のすべてを、名前さえも失っており、頼れるものも、行き場もない。


 自分すら信じられず、ただじっと耐えている、無口な少女。


 それが、モモとの出会いだった。


「行くところがないなら、俺たちの隠れ家へ来いよ」


「屋根だけはあるよ。他には、何もないけど」


 隠れ家に連れ帰ったその晩から、少女は高熱を出して寝こんでしまった。


 クロウとシキは水を汲み、ぬらした布を替えながら、うなされる少女を代わる代わる看病した。


 熱のせいで、少女の顔はますます腫れあがっていった。


 熱がようやく引きかけた朝、薄く目を開けた少女に、クロウはあらためて名を尋ねた。


 だが少女は、布団代わりのむしろの端を握りしめたまま、力なく首を振るばかりだった。


 過去のことはおろか、自分の名前すら、思い出せなかったのだ。


 名がなければ、呼んでやることもできない。


 腕を組んでうなっていたクロウは、桃色に腫れた顔をしばらく見つめてから、とっさに口にした。


「モモってのはどうだ」


 シキが呆れたように顔を上げたが、少女は、熱にうるんだ瞳をまたたかせ、はじめて口を開いた。


「なんで、モモ?」


 かすれた小さな声で問われ、クロウは一瞬だけ目を泳がせ、ぶっきらぼうに答えた。


「……なんとなくだ」


 あんまりな名付けに、シキは肩をすくめた。


 けれど少女は、口のなかでその響きを幾度か転がすと、ふ、と息をもらすように笑った。


「モモ……。うん、それ、いい」


 拾いものみたいな名前を、少女は小さく、気に入ったようだった。


 熱の去りきらない顔で初めて見せたその笑みを、クロウとシキは、それから長く忘れることはなかった。


 孤独だった少女の心が開かれるまでは、まだ時がかかる。


 しかし、この掛け替えのない出会いは、三人にとって、生涯の宝となっていく。

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