第30話 立ちはだかる劫火
月明かりを含んだ霧が、白鬼の里を青白く沈めている。
モモはその情景を振り返ることなく、記憶を頼りに、裏山へと足を向けた。
白くはぜる息を吐きながら、二人は、峻険な山道を進んでいく。
指全体が完全に硬質な硝子へと変貌した右手は、今や動かすことすらままならない。
もはや痛みを感じることはなく、ただ、この先の祠、ビャクヤの元へと、モモを急き立てるのだ。
(急がないと。トウヤが、祠の封印を解いてしまう前に)
目指すのは、かつて別の時のめぐりのなかで、モモが一度だけ足を踏み入れた洞窟だった。
その入り口へと続く険しい岩壁の連なりを駆け上がる。
しかし、洞窟を視界にとらえられるよりも早く、その異変は訪れた。
不意に、すべての音が消えた。
木々を揺らしていた風も、鳥の羽音も、自分たちのせわしない足音すらも、音無き音にかき消されたように、静まり返る。
同時に、肌を刺すような猛烈な圧迫感。
岩壁の輪郭が揺らぎ、湿った腐葉土から、白い煙が立ちのぼっていく。
足を止めたモモが声を絞り出すより先に、シキがモモの前に立ち、白刃を抜く。
後ろ手にモモに下がるよう合図をすると、腰を落とし、構えをとった。
「よもや、ここまでよな」
声の主が、岩陰からゆったりと姿を現した。
島に生きる同胞の行く末をその双肩に背負う、穏ヶ島の首領――グレンだ。
天を突くような二本の角は赤銅色に熱され、逆立つ黒髪は、燃えたぎる炎のようにゆらめいている。
血走った両眼は底知れない怒気をはらみ、見る者を圧倒する。
そして巨大な金砕棒が、その太い右腕に握られていた。
シキの全身の血が、凍りついた。
まぎれもなく、この男はグレン。
このような強者が、二人といてたまるものか。
言葉を交わしても分かり合えないし、戦っても絶対に勝てない――あのときのモモの言葉の意味を、シキは今、本能で理解させられていた。
内臓をつかまれるような畏怖が理性をかきむしり、思考が止まり、膝が今にも砕けそうになる。
(しっかり、しろ……!)
モモに誓った自分の言葉が、かろうじてシキをその場にとどまらせる。
何があっても、僕が君を守り抜く。
シキの瞳に、決死の光がともった。
まともに戦えば、息を一度吸う間もなく、肉塊に変えられるだろう。
ならば、おのれのすべてを投げ打って、一瞬のすきを作るしかない。
グレンが金砕棒を担ぎ上げ、シキとの距離を無造作につめる。
戦いは、避けられない。
「モモ、駆け抜けるんだ。……できるね?」
シキは一瞬、モモを振り返った。
そこにあるのは、有無を言わさぬ決意の表情。
グレンの動きに呼応するように左手へと回りこむと、気合の声をあげた。
走りながら刀を逆手に持ち替えると、もう一方の手で腰の鞘を引き抜く。
腕をそのまま前方へ大きく振り上げると、グレンの顔面へと向かって投げつけた。
同時に、大きく踏みこみながら、白刃をひらめかせる。
グレンはその猛攻を避けようともせず、シキを目掛け、金砕棒を振り下ろす。
――その刹那。
角に命中した鞘が、激しい炸裂音とともに、はじけ飛んだ。
火花が散り、立ちこめる硝煙が、グレンの頭部をおおう。
わずかにそれた金砕棒をすんでのところでかわしざま、シキの刃が、グレンの右腕の皮膚を浅く切り裂いた。
そのままシキは、転がるように足元へと滑りこむ。
だが、硝煙に灼かれてなお、グレンの巨躯には、わずかの揺らぎもなかった。
視界をつぶされながらも、ひるむことなく四肢を振るう。
その一撃が、グレンのふところに入りこまんとするシキをとらえた。
力任せの、金砕棒を持たない腕が巻き起こす暴風に巻きこまれ、もんどり打って倒れこむ。
「が……っ!」
不安定な体勢から繰り出された、予測のできない反撃。
にもかかわらず、その拳はシキをたやすく吹き飛ばすだけの質量と、殺傷力を秘めていた。
すでに意識を飛ばしているシキが、受け身も取れず、二回、三回と、転がるように地面を跳ねる。
そこへ、視力の戻ったグレンの金砕棒が、打ち下ろされた。
◇
よろめくように山道を駆けるモモの背後から、戦いの音が消えた。
(振り返るな……!)
視界がにじみ、嗚咽がもれそうになる。
それでもモモは、がむしゃらに足を動かし続けた。
クロウに続いて、シキまでもが、わたしのために、命を散らそうとしている。
今度こそ、そう思った。
けど――思考とは裏腹に、ただ使命感によって、モモは駆ける。
しかし、巨岩の裂け目を抜け、禁忌の洞窟へと続く開けた岩場へと飛び出した瞬間、モモは足をもつれさせ、転倒してしまう。
あまりの光景に、すべての思考が止まり、体の制御を失ったのだ。
倒れ、転がったまま動けないモモの視線の先。
そこに、地面に不自然に倒れ伏しているものがあった。
もう二度と動かない、白髪の男――トウヤだ。
そのすぐそばには、折られた純白の片翼が、打ち捨てられている。
「トウ……ヤ……」
モモの声が、絶望にふるえた。
船長を謀り、争いを起こし、そうまでして会いたかった弟のもとへ。
それでも、届かなかった。
(……だれも……救われない……)
背後から、朝になりきる前の山肌を登ってくる重い足音が近づき、長い影が落ちる。
振り返らずとも、それが誰なのかは、わかった。
巨大な金砕棒を引きずったグレンが、霧を裂いて歩み寄ってくる。
(ああ、だめね。一人でやろうと決めたのに、結局途中から助けられて。なにもかもが、中途半端……)
モモは上半身を起こすも、力なくその場に座りこんだまま、グレンを迎えた。
「逃げ回っていた子供は、お前で最後だ」
地底から響くような、グレンの声音。
その言葉に、モモの胸は引き裂かれるように痛んだ。
それでも、せまり来る死の恐怖のなかでも、モモの瞳はグレンのまとう深紅の劫火を見つめ続けていた。
そのゆらめきは、あまりにも張りつめ、狂いそうなほどの焦りに満ちていたのだ。
「グレン、あなたはどうして、そこまでして……」
モモは自分の結晶化した右手を強く抱きしめ、声をふるわせながらも問いかけた。
グレンは金砕棒を地面へ突き立てると、深く底知れない孤独のまざる眼光で、モモを見下ろした。
「あの光を放っておけば、我が同胞も、この島に生きるすべての命も、ことごとく滅ぶ定め。我は、浅はかな振る舞いで島に危機をもたらす羽虫どもから、封印を護らねばならぬ」
モモの頭のなかで、これまでの惨劇の記憶が、一つの因果として結びついていく。
グレンが本当に恐れていたのは、浄化の光そのもの。
暴走する光から島を守るために、祠を護り続けていたのだ。
守りたいものを、守るために、グレンは――そのオニの心を、モモは死を前にして、ようやくつかみかけた気がした。
しかし、それ以上の問答は、許されなかった。
考える間もなく、引き抜かれた金砕棒が、頭上高くへと持ち上げられる。
「滅せよ」
モモはゆっくりと目を閉じ、結晶化した右手を胸に押し当てた。
そして、消え入るような小さな声で、祈った。
「――お願い。もう一度、だけ」
鉄の塊が、振り下ろされた。




