第29話 白鬼の過去
拒絶の言葉が、室内に響いた。
これまでシキの背後に控えていたモモが、静かに、しかし迷いのない足取りで、一歩前へと進み出た。
「長老」
モモは衣服の袖を、ゆっくりとまくり上げた。
時をさかのぼるたびに浸食の度合いを増し、人が人でなくなっていくように結晶化した右手。
それを、老人の目の前へと差し出した。
モモの右手の五指は、根元までが半透明の硝子細工へと変貌していた。
血の通わない結晶の奥から青白い光がもれ出し、そこだけが別の生き物であるかのように、怪しく脈打っている。
長老はその右手を目にした瞬間、腰を浮かせようとして失敗し、杖を取り落として床に手をつくと、半身を支えながら、うめき声をあげた。
薄紫色の瞳は、驚愕で大きく見開かれている。
「これは……そんな、馬鹿なことが……。その結晶……あの祠を埋めつくすものと、全く同じ……。いや、それだけではない。お主のその手から伝わってくる重苦しい波動……なぜ、ビャクヤ様と同じものが、人の身から放たれておるのじゃ……!」
長老は、突きつけられた結晶の手と、モモの顔へと視線を往復させ、その声を険しくとがらせた。
「トウヤめ……あやつ、このことを知っておったのか。知っていて、お主をここへよこしたのか。奴め、一体何をさせるつもりじゃ。ビャクヤ様を、あの祠をどうする気だ。狂うたかトウヤ! お主のような者を、あの祠へ向かわすわけにはいかん!」
老人の身からむき出しの警戒の念が放たれ、たちまち怒気が、室内に満ちる。
「待ってください、長老」
シキが即座にモモの前に割りこみ、長老の視線をさえぎった。
「大きな誤解です。僕たちはトウヤの仲間でもなければ、彼に命じられてここへ来たわけでもありません。むしろ、奴の暴走を止めるためにここへ来たと言ってもいい。僕たちもトウヤが何をたくらんでいるのか、そのすべてを把握しているわけではないのです」
「見え透いた嘘を! ならばなぜ、その娘がビャクヤ様と同じ呪いを宿しておる!」
「嘘なんかじゃない!」
モモはシキの背から一歩横へと並び、身を乗り出して、老人の薄紫色の瞳をまっすぐに見つめ返した。
その瞳には敵意も欺瞞もなく、ただ静かで、ひたむきな誠意だけが宿っている。
「わたしたちは、この里を滅ぼすために来たわけじゃないわ。わたしのこの右手の結晶が、一体何なのか……その答えを知りたいだけなの!」
モモは自分の冷たい右手を左手でそっと包みこみ、語りかけるように、じっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「最初は、重い病気や、何かの呪いなのだと思っていた。けれど、どこのお医者様に診てもらっても、高名な学者様に尋ねても、誰もその答えを持ち合わせてはいなかった。ただ一つだけ、古い昔話の一節を見つけたの。『オニがつかう呪いに、人を結晶に閉じこめる術がある』という伝承を。船乗りたちが恐れる霧の海域――その先にオニの住処、穏ヶ島があると聞いたとき、わたしは、そこに行けば、この右手を治す手がかりがあるかもしれないと思った。ただそれだけの理由で、わたしはこの島へやってきたの。……でも、島へ近づき、この里へ足を踏み入れた今なら、はっきりとわかる。わたしは、この島にいる誰かに、ずっと呼ばれていた」
モモの声に、熱がこもる。
「わたしを呼び続けているのは、ビャクヤという名前の少年。トウヤの弟。……長老、お願い、教えてほしいの。ビャクヤはなぜ、封じられているの? この呪いは、解くことができるの?」
さえぎる者もない、静まり返った室内。
モモの告白は、老人の胸の奥へと染みこんでいった。
長老は、モモの結晶化した指先と、偽りのないまなざしを幾度も往復させ、その身をこわばらせていた怒気を、脱力とともに霧散させた。
この娘はトウヤの刺客ではなく、自らの宿命に引き寄せられてここへ来たのだと、理解したのだ。
長老はため息をもらすと、視線を囲炉裏の灰へと落とした。
「ビャクヤ様が、お主を呼んだ、か。……よかろう。我ら白鬼が、これまでかたくなに隠し続けてきた欺瞞の過去を、お主らに話して聞かせる」
二人の侵入者は、ようやくにして、客人として部屋へと招き入れられた。
◇
長老はひび割れた杖の頭に目を落とし、歴史をひもとくように、ゆっくりと語りだした。
「かつてこの島には、我ら白鬼の一族と、真紅の肌を持つ紅鬼の一族、二つの部族がともに暮らしておった。されど白鬼の里は、あやかしどもの手による大虐殺に見舞われたのじゃ。目の前で同胞を惨殺された絶望のあまり、若きビャクヤ様は、『浄化の力』を暴発させかけてしまわれた」
長老の薄紫色の瞳に、昏い過去の記憶がのしかかる。
「かつて我ら白鬼族は、あのお方の光に照らされ、あやかしどもの甘い言葉を信じて奴らを受け入れた。暴力ではなく、言葉と寛容による共生の世を作ろうと。しかし浄化の力は、諸刃の剣。長い時をかけ、我らは戦う力を失っていった。あの惨劇は、そのすきを突かれて起きたものよ。そして浄化の光の暴発は、島全土をも巻きこもうとした。オニの一族を根絶やしにする、それだけの力じゃ。その暴走を力でねじ伏せたのが、紅鬼の首領グレンじゃ。奴は一族の絶滅をはばむため、ビャクヤ様を裏山の祠へと幽閉し、幾重もの封印をほどこした。……生き延びるためとはいえ、あのお方を冷たい檻へと閉じこめる儀式を、ワシら自らの手で手伝ってな」
老人の声が、悔恨にふるえる。
「それ以来、島の実権はすべて紅鬼のものとなった。我ら白鬼はこの狭い里に閉じこめられ、ただ息をするだけの抜け殻として、今日まで生殺しにされてきたのじゃ。同胞を裏切り、その犠牲の上にのうのうと息をする……それが、我ら一族の呪われた因果よ」
紅鬼との明らかな違い――生気を失ったかのような、白鬼の正体。
その過去が、白日の下にさらされた。
話を聞き終えたモモは、胸をしめつけられるような痛みのなかで、毅然と長老を見すえた。
「このまま放っておいたら、トウヤはビャクヤをあの祠から、無理やり連れ出そうとするわ。そうなったら、封印が解けて、浄化の力が暴走してしまう。そして、この里も、島も、すべてが破滅の光にのみこまれてしまう」
長老は、モモの放ったあまりにも具体的な破滅の予兆に、顔を蒼白にさせた。
血の気の引いた顔のまま、絶望に声をふるわせる。
「あやつは――トウヤは、もうそこにおる。昨夜、里の者が裏山の祠へと降り立つ何者かの姿を見た。そのようなものは、我ら白鬼とあやかしの子、トウヤしかおらぬ。グレンに知られれば、里の民はただではすまぬ。それゆえ、夜明けを待って、ワシ自らが祠へおもむき、あやつを問いただす手はずになっておったのじゃが……」
長老の言葉が、モモとシキの脳天に、衝撃となって突き刺さった。
もはや、一刻の猶予もない。
二人は一瞬だけ視線を交わすと、立ち上がった。
「長老、その役目、僕たちに任せていただけませんか」
「始まってしまったら、もう止められない。でも、わたしとシキなら!」
長老は、ひび割れた杖を突くと、遅れて立ち上がった。
「ワシも追って駆けつけるゆえ……!」
その言葉を聞くや否や、モモとシキは、同時に家から飛び出した。




