第22話 白い翼
船底の荷物部屋は、木壁のすきまから這い入る潮のにおいと、古い埃のにおいがまじり合う、薄暗い密室だった。
天井の梁から吊り下げられた行灯の炎が、船体の揺れに合わせて頼りなくゆらめき、そこにいる者たちの影を、壁に長く引き延ばしている。
椅子に腰かけた白髪の男、トウヤは、差し出された白湯をむさぼり飲み、何度も頭を下げた。
据わった目で向き合った船長の尋問に、用意された台詞を読み上げるように、身の上を語る。
炭鉱の奴隷が、オニの目を盗み、舟をうばって逃げてきた。
涙ながらの、哀れな話だった。
ただ、その一部始終をすぐ横で凝視していたクロウの鼻の奥には、嫌なにおいがこびりついて離れなかった。
ふるえ方が、おかしい。
おびえる者は指の先からふるえるものだが、この男のふるえは肩と声ばかりで、白湯を受け取ったとき、器のなかの湯は波一つ立っていなかった。
そして問答の合間、自分を見上げた薄紫色の瞳の奥に、冷静な意志の光がよぎったのがわかった。
疑っていなければ、見過ごしていただろう。
(こいつ、ふるえてるくせに、謀ってやがる)
やがてトウヤは、船長の揺さぶりに屈したふうを装い、少しずつ餌をまき始めた。
島に眠る、オニどもの宝。
外からは決して見えない、霧のなかの舟の道。
そして船長がその道筋を吐けとせまると、男は激しく息をつめ、島へは二度と戻りたくないと、床へ崩れ落ちんばかりに懇願してみせた。
その姿を間近で見ていたクロウの首筋の毛が、ぞわりと逆立つ。
理屈で語れるものではない。
だが、クロウはこのにおいを知っていた。
狩り場で幾度もかいだ――茂みに身を伏せ、獲物が罠へ踏みこむのをじっと待つ、獣のにおいだ。
ふるえているのは皮ばかりで、その下の肉は、微塵も揺れていない。
(この野郎……俺たちを、狩る気だ!)
クロウはたまらず、二人の間に割って入った。
「騙されるな! そいつはわざと欲をあおって、あんたを島へ誘いこもうとしてるんだ。俺たちとオニをつぶし合わせるためにな!」
迷いのない告発に、船長は動きを止めた。
見開かれた瞳が、床でふるえる白髪の男へと、静かに向けられる。
いかつい顔から笑みが消え、海千山千のならず者を束ねる者のすごみが浮かんだ。
「……なるほどねぇ」
言うなり船長は、平伏するトウヤの首根っこをつかみ上げ、力任せに船壁へとたたきつけた。
洗いざらい吐くか、海の底へ沈むか。
強くせまりながら、じりじりと締め上げていく。
ここで止めなければ、取り返しがつかなくなる。
死の予感に、クロウの視線がトウヤから船長へと向けられた、その瞬間――。
トウヤから一切のおびえが消え、背をおおっていた粗末な麻布が、内側からはじけ飛んだ。
風切り音とともに、純白の翼が現れる。
「なっ……!」
突風とともに、矢のように鋭い無数の羽根が、船長を襲った。
船長はたまらずトウヤから手を離すと、傷ついた片目を押さえながら、よろめき後退する。
だが同時に、クロウの身体が本能的に動いていた。
目の前の男が、この船を――モモを破滅へと導く化け物だと確信した瞬間、抑えこんでいた衝動が解き放たれる。
「てめ……ッ!」
抜刀の金属音が、鋭く響く。
引き抜かれた大剣が、トウヤの首筋をねらって突き出される。
トウヤは薄紫色の瞳を見開いた。
わずかな動きで身をかわすと、退くのではなく、進むことで体勢を入れ替える。
大剣が空を裂き、船室の木壁を激しく損傷させている間に、唯一の出口である扉へと向かって走り出す。
「ちっ……!」
クロウはためらいなく大剣を手放すと、しなやかな体躯をひるがえし、トウヤを追った。
トウヤは純白の翼をはばたかせて加速すると、クロウの追撃を逃れ、その威力のままに扉を蹴破り、通路へとおどり出る。
驚愕して動きを止めた船員たちを翻弄しながら階段を駆け上がり、瞬く間に甲板へと飛び出すと、月光の下、追うクロウをあざけるように、一気に海面へ向かって跳躍した。
「せいぜい、紅鬼どもとつぶし合うがいい!」
バサァッ、と大きな羽音が、夜の海に響く。
純白の翼を限界まで広げ、瞬く間にトウヤは、海原の上空へと飛び去った。
クロウが船べりに駆け寄って見上げると、あやかしの正体を現した白髪の男は、深い霧の向こう、穏ヶ島の方角へと消えていった。
甲板には、舞い落ちた白い羽根と、呆然とする船員たちのざわめきだけが残された。
「ああ、忌々しい! あの若造!」
クロウの背後から、船長の怒号が響き渡った。
傷ついた顔と乱れた髪をそのままに、船長は夜空へ向かってわめき散らす。
「アタシをこけにしたツケは、高くつくよ。罠だろうが何だろうが、知ったことかい。邪魔をするっていうなら、島にいるオニどもごと蹴散らしてやるわ。野郎ども! 何をボサッと突っ立ってるの。あの化け物が逃げた先、霧の海域へ舵を切りなさい。穏ヶ島へ向かうわよ!」
「へ、へいっ!」
我に返った手下たちが、慌てふためきながら一斉に動き出す。
太綱を引く音、帆が夜風をはらむ音が甲板に慌ただしく響き渡り、巨大な船体が不気味なきしみを上げながら、死地である濃霧の海へと、その舳先をめぐらせた。
罠だと分かっていながら、怒りに駆られ、自ら死地へ突き進もうとする船長の狂気。
そして、それを止めるすべを持たない、おのれの無力さ。
クロウは、白くなるほど拳を握りしめ、悔しさと不甲斐なさに歯がみしながら、海をにらむ。
(だが、はっきりしたことがある。大剣を取りに戻って、それから――まるでらしくない、シキとモモ。あの二人とも、向き合わないとな)
クロウは、しびれの残る拳を開いて閉じ、甲板を後にした。




