第20話 血の通わない笑み
薄暗い通路には、ひんやりとした湿気と、古びた木材のにおいが立ちこめている。
甲板の馬鹿騒ぎが、厚い木壁にさえぎられて、遠のいていく。
その先、突き当たりの部屋に入り、扉を閉めると、部屋の中の空気はいっそう冷ややかに感じられた。
シキはモモの手首を離すと、あらためて、モモの右手を注視する。
理解の範疇をはるかに超えた異常な事態を目の当たりにして、シキの内心は、かつてないほど動揺し、困惑していた。
それを表に出せば、モモをおびえさせてしまう。
動揺を胸の奥へ押し殺し、努めて平静に、声を絞り出した。
「いつから……その手はいつから。ついさっきまでは、爪の先ほどの変異だったはずだ。それがなぜ、こうも短時間に……」
問いかけながら、シキはモモの顔をのぞきこみ、息をのんだ。
「それに……なぜ、君はそうも落ち着いているんだ」
モモは、感覚の消え失せた右手の指先を、静かに見つめた。
薄暗がりのなかでも、硝子と化した五本の指は、血の通わない半透明の光を妖しく放っている。
同時に、痛みの代わりに、肉の内側から這い上がる冷気が、自分の命が刻一刻と蝕まれていることを告げていた。
以前までの彼女なら、ふるえて泣き出してもおかしくない状況だ。
モモはゆっくりと顔を上げた。
しかし、その瞳には涙もなく、おびえもなく、ただゾッとするほど平坦で、乾いている。
そしてまばたきもせず、シキを安心させるように、ふわりと唇の端を持ち上げて微笑んだ。
ただ形だけをそれらしく模したような、血の通わないいびつな笑みだった。
「シキにわかるように、説明するね」
どこか慈悲深く、目の前の相手をいたわるような、優しい語りだし。
だが、その声の調子も、小刻みな首のかしげ方も、シキの記憶にあるいつものモモとは、妙にずれていた。
まるで、見えない糸で操られている木偶人形が、少女のふりをしているかのような、得体の知れない不気味さだ。
シキの胸の奥で、冷たい汗がじわりとにじんだ。
強烈な違和感が、脳を揺さぶる。
(いま目の前にいるのは、本当に僕の知っているモモなのか? それとも、モモを疑い取り乱している、僕のほうがおかしくなってしまったのか?)
おのれの正気すら信じられない思いに、シキが身を硬くするなか、モモは感情のない笑みを浮かべたまま、淡々と語り始めた。
「島の関所には、グレンという島の支配者がいるの。言葉を交わしても分かり合えないし、戦っても絶対に勝てないわ。……でもね、関所の先にある白鬼の里には、この右手のことを知っているオニがいる。そこでなら、何かわかるかもしれない。それと、里の裏山の祠には、とても強い力を持ったオニがいるわ。話ができる状態ではないかもしれないけど、わたしはそこも目指したい。どうにかして、そのオニと話をしてみたいの。それでね、里までの道を知っているから、シキ、いっしょに来てほしいの」
そこまで一気に話し終えると、モモはシキの様子をじっと見つめた。
細身の刀の柄に手をかけ、幽霊でも見たように蒼白になっている幼馴染。
その顔を見て、モモはふっと笑みを消し、小さく首をかしげて考えこむ。
「そうよね……突然こんなことを言われても、信じられないよね」
その寂しげなつぶやきと同時に、乱暴に扉が開け放たれた。
「――ひどい目にあったぜ!」
息を荒くしたクロウが、部屋に飛びこんできた。
衣服を大慌てで整えながら、文句を垂れる。
「あの船長、馬鹿力で振り回してくるわ、いつまでも離してくれねえわ、今度ばかりは終わりだと思ったぞ。……って、どうしたよお前ら。何かあったのか?」
クロウは二人の間にただよう、ピリピリとした空気に気づいて、言葉を失った。
無表情でたたずむモモ。
態度を決めかねているかのような、落ち着きのないシキ。
モモは、そんな困惑する様子のクロウに向き直り、言葉を重ねた。
「ちょうどよかった。クロウも聞いて。もうすぐ、島から舟で逃れてきた奴隷が現れるわ。白髪の――たぶんオニ。名前はトウヤ。あいつはおびえたふりをしながら船長に取り入って、みんなを、紅鬼と戦わせようとするの」
モモはそこで一度言葉を切り、シキとクロウの顔を交互に見つめた。
硝子の指先が、部屋の薄暗がりのなかで、冷たく光る。
「そうなるから……そうしたら二人とも、信じてくれる? わたしの言っていることを。わたしは、これからどうなるかを、知っているの」
あまりに突飛で、それでいて確信に満ちた予言。
クロウはモモの尋常でない様子に圧倒されながらも、おずおずと口を開いた。
「これから……なんだって? わかんねえよ、俺には……信じるって、何を?」
クロウは戸惑いを隠せず、どうにかしてくれと懇願するように、シキへ助けを求めた。
だが、シキの顔は青ざめたままで、モモの右手と、その笑わない瞳を凝視したまま、ぴくりとも動かない。
頼みの綱のシキまでが黙りこみ、部屋を支配する重苦しさに耐えかねたクロウは、頭を激しくかくと、いつもの調子で笑い飛ばそうと声を張った。
「あ、そうだ。霧だよ、霧。さっき甲板で聞いたんだけどよ。この先は濃霧地帯で、あやかしが出るってさ。迷いこんだ船をみんな沈めちまう、おそろしい怪異の噂だ」
クロウは、いたずらをした子供を見るような目で、にっと笑う。
「さてはモモ、その話、知ってたな? ははっ、すっかり騙されるところだったぜ」
しかし、モモは表情を変えずに、ただ冷ややかにクロウをじっと見返すだけだった。
そのあまりに冷ややかな態度に、シキは胸の奥の焦りを、いよいよ抑えきれなくなる。
鋭く、さえぎるような声で言い放った。
「すこし黙っててくれ、クロウ」
「お? おう……」
クロウはシキのただならない気迫に押され、言葉をのんだ。
冗談でも、あやかしのいたずらでもない。
だったらいったい、なんだというのか。
沈黙が、じわじわとクロウを追いこんでいく。
どれほどの時が流れただろう。
実際には、ほんのわずかな間だったのかもしれない。
その重い沈黙が、唐突に破られた。
「前方に舟だ! 誰か乗ってやがるぞ!」
ドタドタと甲板を駆ける激しい足音とともに、船乗りの濁声が響き渡った。
そして、モモの口角が、不気味に持ちあがる。
「ね?」
シキの身体が、こわばる。
握りしめた手が、わずかにふるえる。
恐ろしいものを見る目を、目の前の少女へ向けた。
「本当に……。モモ、君は――」
予言の的中は、クロウにとっても驚愕だった。
目の前にいる幼馴染が、自分のまったく知らない『得体の知れない何か』に変貌してしまったのだと錯覚し、腰が砕けそうになる。
モモはそれ以上何も語らず、ただ血の通わない硝子の指先を、じっと見つめ直していた。
その横顔には、予言を的中させたことへの誇りも、考えをめぐらせているようなそぶりもない。
二人の返事を待つ。
それだけであった。
「漂流者、だってさ。確かめに行こうぜ。そいつ、放っておくと不味いんだよな」
クロウは、おどけた表情で、声をあげた。
いたたまれなかった。
この空間、この空気に、耐えられそうにない。
いつもなら、考えるのはシキの役割だ。
それが、この船室に来てからというもの、鋭い洞察力も、有無を言わさぬ弁舌も、鳴りをひそめてしまっている。
モモだって、そうだ。
明るく、ひたむきで、でもどこか危なっかしくて。
守ってやらないといけない、俺の――クロウはぴしゃりと両の頬を張ると、大声を出した。
「クソッ……わけがわかんねえよ! でもこういうときはよ、考えていたって仕方ねえぜ」
重苦しい空気を入れ替えるように扉を開け放ち、廊下へと足を運ぶ。
しかし、シキは動かず、モモも何を考えているのかわからない表情で、クロウを見つめている。
「なんだよ! ったく……だったらそうやって、いつまでも固まってやがれ。俺は、その白髪野郎が本当にモモの言う通りの奴なのか、この目で確かめてくる。お前らは、そこで頭を冷やしてやがれ」
言葉とは裏腹な表情で、クロウは、この場から逃げ出した。
言い訳だ。
なんてざまだよ――。
乱暴に扉がたたきつけられる音が響き、薄暗い船室には、ピキピキとかすかに鳴り響く結晶のきしみと、シキのやや乱れた呼吸の音だけが残された。




