第19話 甲板の相撲
心を閉ざすことでしか、自我を保てない。
そうすることでしか、大切な人を守れない。
そう思えるのは、そうまでして、失いたくないものがあったから。
壊れゆく心をつなぎとめる、遠い日の記憶――知らない感情が流れこむ。
相手を知ることでしか、自分を伝えることはできない。
だから、旅立とうとしている。
これは、現在だけではなく、未来を紡ぎ、守っていくための、最初の一歩。
でもせめて、身の安全を祈らせて。
災いと悪意を退ける衣を、羽織らせて。
これは、僕だけじゃなくて、兄様とともに信頼を築いてきた、皆からの贈り物。
離れ離れになっても、僕たちはつながっているよ。
ほら、お揃いなんだ。
似合ってるよね、二人とも。
◇
ぼんやりとしているモモの視界の端で、男たちが輪になって大声をあげている。
甲板では、上半身をはだけた二人の男が、重心を低く落として取っ組み合っていた。
野太い歓声と、素足が床を踏み鳴らす音が、船全体を小さく揺らしている。
「……昔はよくとったよな、シキ」
クロウが太い腕を組んでその光景をながめながら、幼いころをなつかしむような、無邪気な笑みを浮かべる。
隣にたたずむシキは、わずかな苦笑をにじませた。
「無理やり付き合わされる身にも、なってほしかったね」
クロウはさらに熱を帯びた目で、土俵のなかで汗を散らす男たちを見つめ、続ける。
「さすがに鍛えられてはいるけど、まあ、俺の敵じゃないな」
その熱狂のすぐ側で、モモはただ、海原の先をながめやる。
「でも……船長には、かなわないよ」
寝起きのような、どこかうつろな声で、ぽつりとつぶやいた。
脳の奥底におりのように残っていた記憶の断片が、意識の表面を滑り出ただけの、頼りない声。
しかしクロウには、その一言で十分だった。
「は? かなわない? 俺が? 誰に?」
思わず、大きな声が出た。
甲板の喧騒を突き破るほどの、恐れを知らない若者の声だ。
「俺が敗けるわけ、ねーだろうが」
クロウがむきになって胸を張った瞬間、そのやり取りを聞きつけた周囲の荒くれ者たちが、新しい見世物を喜ぶようにドッと沸いた。
「おい、おい! 小僧、大きく出たじゃねえか。それだけ言うなら、やってみろよ」
引き下がれなくなったクロウは、おのれの胸をたたき、不敵に笑ってみせる。
「いいぜ、望むところだ」
男たちが歓声で応じると、人だかりを割って、熊を思わせるほどの巨体を誇る男、船長が、ぬっと進み出る。
「いい度胸じゃないの」
いかつい顔に怪しげな笑みを浮かべ、ぎょろりとした瞳で、クロウの全身をなめるように見つめる。
「アタシが直々に揉んであげるわ」
野太い声を響かせると、次の瞬間、身にまとっていた立派な上着や衣服を、ためらいなくその場で豪快に脱ぎ棄てた。
昼下がりの強い日差しに照らされた分厚い肉体が、威圧感とともにむき出しになる。
クロウもたじろぎそうになりながら上半身をはだけ、鋼のような肉体で応じた。
「あらやだ、いい体躯してるじゃないの!」
だが、組み合った瞬間に、勝負は決まっていた。
クロウ渾身の押しこみは、巌のような巨躯にびくともしない。
逆に船長はその帯を軽々とつかみ上げると、まるで童をあやすように、甲板の上で振り回してみせる。
「ほらほら、どうしたの色男。アンタの力はそんなものなの!」
「ぐ、おおっ……化け物かよ、あんた!」
何度組み直しても、足をかけても、まるで歯が立たない。
すっかり主導権を握られ、宙で手足をばたつかせるクロウの姿に、周囲の男たちから大爆笑が沸き起こった。
クロウは完全に形無しになり、ひたすら手玉に取られ続けていた。
その喧騒をよそに、モモはただ、水平線の彼方をながめていた。
(もう、戦わない。トウヤもグレンも、言葉が通じる相手じゃない。それに、クロウとシキには、これ以上傷ついてほしくない。できるだけ争いを避けて、誰よりも早く、白鬼の里へ行く。この島の過去を調べあげる。それが、この右手を治す唯一の手がかりのはずだから――)
その脳裏では、ようやくすべての霧が晴れ、思考が形を成し始めていた。
それに呼応するように、右手の肉の内側から、ピキピキと冷たいきしみが這い上がってくる。
その変異に、シキの視線が釘付けになった。
モモをのぞきこむ彼の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
さっきまでは、ほんの指先、爪の一部だけだったはずの結晶。
それが、この瞬間に、右手の五指すべてを、根元までおおいつくすように広がっている。
太陽の光がにぶく透過し、藤色の影を甲板に落としていた。
シキのただならぬ様子に、モモが首をかしげて応じる。
その瞳におびえはなく、ひどく静かで、乾いた光が宿っている。
モモの右手は、血の通わない半透明の結晶と、なり果てていた。
動かそうとしても、感覚はどこにもなかった。
シキは言葉を失い、息をのんだ。
胸の奥を、焦りが駆け抜ける。
周囲には大勢の船乗りたちが集まり、手玉に取られるクロウの見世物に、大騒ぎしている真っ最中だ。
ここで大声を上げれば、余計な注目を集めかねない。
シキは必死に呼吸を整え、周囲に悟られないよう、自然で落ち着いた声音を作った。
「陽に当たりすぎたようだ。モモ、少し休んだほうがいいんじゃないか」
その言葉を合図とするように、シキはモモの細い手首をそっと、しかし拒絶を許さない強さで握りしめた。
モモは抵抗することなく、シキに導かれるまま歩き出す。
「俺の敗けだって……ふおっ、言ってん……だろ!」
クロウの悲鳴と、それを笑う男たちの歓声を背に、二人は甲板を後にした。




