第12話 密約
シキはモモに短く目配せをすると、物陰から滑り出し、掛け金の外れた扉をそっと押し開けた。
薄暗い部屋の隅、酒樽や麻袋が乱雑に積まれた床の上に、トウヤは座りこんでいた。
さっきまで通路に響き渡っていた、あの涙ながらの命乞いの姿は、影も形もない。
部屋へ入ってきた二人を見上げるトウヤは、ひどく落ち着き、値踏みするように遠慮のない視線を向けてきた。
シキが背後で音もなく扉を閉め、トウヤの前に立つ。
「おびえて、命乞いをしたほうがいいんじゃないのか? それとも演技はもう、やめたのかな」
トウヤは表情を変えず、かすかに首をかしげた。
「何のことでしょうか。僕はただの、哀れな逃亡者ですよ。お二人は、船長殿のお仲間ですか?」
かすれた声で、弱々しく紡がれる言葉。
しかし、その瞳の奥にある警戒の色を、シキは見逃さない。
「君が船長を言葉巧みに誘導し、身の安全と引き換えにこの船を島へと向かわせようとした一連のやり取り、すべて聞かせてもらったよ」
シキが告げると、トウヤはわずかに唇をゆがめ、ふっと自嘲気味に笑った。
「耳が良いのですね。ですが、そうだとして、だから何だと言うのです。島が恐ろしい場所であることも、僕が奴隷だったことも、何一つ偽りはありませんよ」
時間がない。
通路の奥で、手下たちの騒がしい足音がいつ聞こえ始めても、おかしくなかった。
モモは一歩前へと踏み出し、床に座りこむトウヤの目を、まっすぐに見すえた。
「トウヤ、隠さなくていいわ。わたし、知っているのよ。あなたが、あの島でわたしに教えてくれたこと。みんなが襲われて、殺されて……時がさかのぼる前のことを、わたしは全部覚えている。あのとき、真紅のオニ、グレンは、わたしのことを『器』って呼んだわ。それがどういう意味なのか、あなたなら知っているんでしょう? それに、何のために、こんな演技をしてまで、あの島で争いを起こそうとしているの?」
その言葉が突きつけられた瞬間、トウヤの双眸が鋭く見開かれた。
時がさかのぼるなどという、突拍子もない妄言。
まともに取り合うなら、頭の狂った娘か、何らかの目的を持った騙り者と、笑い飛ばされて終わるはずだった。
だが、トウヤは笑わなかった。
切り捨てもしなかった。
薄暗い荷物部屋に、沈黙が降りた。
哀れな逃亡者の仮面は、まだかろうじて貼りついている。
けれど、その下で頬がかすかにこわばり、膝の上の指先が、衣のすそを握りこんだのを、モモは見た。
伏せられていた薄紫の瞳が持ち上がり、まるで得体の知れないものを測るように、モモの顔をじっと凝視する。
効いている――シキは目を細めた。
島の内情など知るはずのない小娘が、グレンの名を口にし、器という言葉を突きつけ、あまつさえこの男の思惑の先にある不穏な気配までも言い当てた。
その一つ一つが急所を打ったのだと、この長い沈黙が、何よりも雄弁に物語っていた。
トウヤは、それまでの弱々しかった態度を、すっと収めた。
「お嬢さん。君……一体、何者だ? なぜそこまで知っている」
部屋の外から、騒々しい足音が近づいてきた。
クロウに呼び寄せられた、船長の手下たちが、こちらへ向かってきている。
残された猶予は、息を数回吸う間ほどもない。
トウヤの放つ鋭い視線を受け止めながら、シキは一歩前に出て、ささやくように声を発した。
「時間がない。手短に話そう。僕たちの目的は、あの船長たちを島の関所から遠ざけることだ。君が彼らをどこへ案内し、どんな火種をおこそうとしているのかは知らないし、邪魔をする気もない。互いの目的を果たすために、利用し合えるはずだ」
シキの放った言葉を、トウヤは凝視したまま受け止めた。
小さく息を吐き、口を開く。
「島に着いたら、君たちが何をどこまで知っているのか、すべて話してもらう。それが条件です」
「約束しよう」
シキが短く応じるのと同時に、木扉が荒々しく引き開けられた。
体躯の大きな二人の船乗りが、部屋へと踏み入ってくる。
「おい、船長がお呼びだ。操舵室まで来てもらうぜ」
その怒声が響いたときには、トウヤはすでに床の上で小さく身をふるわせ、元のおびえきった奴隷の姿へと戻っていた。
「ひっ……あ、頭をたたかないでください、大人しく従いますから、どうか……」
芝居とも本物ともつかない、おびえ声。
髪を振り乱して後ずさるトウヤを、手下どもは乱暴に立たせて腕をつかんだ。
引きずられて部屋を出ていくトウヤは、すれ違いざま、前髪のすきまから一度だけモモの姿をとらえた。
その顔には、計算高さでも、恐怖でもない。
得体の知れない存在を見るような、深い疑念が浮かんでいた。
連行されていくトウヤの背中を、モモとシキは物陰から見送った。
危うい綱渡りのような密約ではあったが、これで船長たちを関所から遠ざけるための布石は打てた。
モモは自分の右手をもう一度強く握りしめ、せまり来る穏ヶ島での対峙に向けて、想いを馳せた。
◇
「おう、無事だったか」
通路の階段を駆け下りてきたクロウが、物陰から顔を出した二人の姿を見て、胸をなでおろすように息を吐き出した。
額には、びっしりと汗がにじんでいる。
「災難だったね。船長とは、あれからどうなったんだい?」
シキが声をひそめて尋ねると、クロウは忌々しげに頭をかいた。
「甲板で手下たちを捕まえて、そのまま荷物部屋へ行けって伝えたすきに、ずらかってやったよ。あの執念深さだ、見つかったら何をされるかわからねえ」
身ぶるいするクロウを横目に、シキは小さくうなずいた。
「ひとまずは上出来だ。あいつらはトウヤを連れて操舵室へ向かったよ。僕たちも一度、甲板へ出よう」
三人は足早に通路を上がり、甲板へ移動すると、船尾に近い日除けの陰へと身をひそめた。
さきほどまで水平線を真っ赤に染めていた夕日は海に隠れ、いまや船を包んでいるのは、湿り気を帯びた夜のとばりだった。
深い霧が立ちこめ、星が読めない。
かろうじて、ぼんやりとした月明かりだけが、海面と船とを照らしていた。
行く手にあるのは、あやかしの噂が絶えない、穏ヶ島だ。
島はまだ霧の向こうに隠れているが、時折吹く風が霧を払うと、わずかにその輪郭がうかがえた。
モモの人差し指は、ほのかに光を放っている。
脈打つ痛みが、島へ近づきつつあることを、暗に知らせていた。
操舵室から、船長の野太い怒声が、霧を引き裂いて聞こえてきた。
「針路はそのままよ! 潮の流れに逆らわず、その小島の間の瀬に船を滑りこませなさい!」
手下たちの慌ただしい足音と、転舵する船体のきしみが増していく。
シキは目を細め、霧の向こうでわずかに変化していく小島との位置関係を、じっと測っていた。
「どうやら、トウヤは約束を守ったらしいね」
シキの言葉に、クロウが視線をめぐらせる。
「どういうことだ?」
「この船は、穏ヶ島の正面にある広い入り江を避け、わざわざ切り立った岩場の続く裏手へと回りこもうとしている。正面の入り江は、関所へと続いているのだろう。あいつは船長に怪しまれないよう、潮の流れを言い訳にしながら、こちらの望み通りに船を誘導しているよ」
トウヤのその確かな手際に、モモは安堵よりも、やはり底知れなさを感じていた。
この船を島へと引き入れた先は、かつて目の当たりにした、あの惨劇の光景へと確実につながっているのだ。
霧はますます濃くなり、船首すら見失いそうなほどに、世界を白く染め上げていく。
その静まり返った白い闇の奥から。
あの重苦しくも、なつかしい気配がゆっくりと近づいてくるのを、モモは確かに感じていた。




